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ニューデリー駅前は、2010年に拡張されたようだ。もっと混沌としたイメージであったが。 ここは、安宿街であり、メインロード(メインバザール)も拡張したといっても、6年ですでに印度化し、どこにも新しさのない状態になっている。確かに道幅が何か広がったのではないかと思っていたんだ。せれで脇道の路地は逆に狭くなったような気がした。 やっぱり、インドはカルカッタから入るのが正しいと思う。あそこで、生死というものを感じてから各地を回るのが良いと思う、が今はどうなのかは知らない。 パハールガンジに初めデリーに入ってやってきたら、これが雑踏のいわゆる予想通りのインドだなあ、と感激するかもしれないが、やっぱり観光地なのである。それはそれで楽しいのであるが。 あのクリシュナカフェの景色よさそうだな、と思って行ってみようかと思ったが、窓側は西洋人で埋められていたのでやめ。 まあ、全世界の商人がぼったくろうと襲ってくる感じではあるが、何も買わなければ問題ない。欲しいものないからね。 さて、昔の記憶が戻ってきたかというと、忘れている。方向は覚えているのだが、さすがに29年前とは店も変わってしまった気がする。ふと、よく行っていた食堂もなくなっていた。英語のメニューは、壁に掛けてあるメニューだけで、外人が来ると、それを外して持ってきてくれるのだ、額縁にはまったままのメニューを見て、ベジカレーを頼むと、煮込んだジャガイモ一個がそのまま出てくるのだ。それをほぐして食らう。 これは、角度と時間は違うが同じ場所だ、29年前と。 そうだな、パハールガンジは、観光地だ。陳列棚だ。 来年、あの宴会から30年だなな、ということのメールが入ると思う。 初めてパハールガンジに泊まったのは、19歳、通り外れのドミトリー、屋上。確かに安かった。夜になると、屋上に板を張り、屋根を作るのである。雨というより、蚊の侵入を防ぐということなのだろう。泊まっている人はバックパッカーではなく、インド人。主人がおかま。1泊100円。夜中は、インド人の大鼾で寝られず、早朝から天井の板を外し始めて騒がしく、おかまの主人の猛攻が晩にも朝にも受ける。それで100円。さすがの貧乏なんちゃって旅行の俺も1泊で退散である。だいたいの地理的な場所は覚えているのだが、ホテル名も覚えてないし、随分昔の話だ。さすがに旅の終盤、あとは日本に帰るだけなので、3倍ぐらい払って個室に移るか、という気になり、1か月ずっとドミトリーだったが、遂に個室へ。それで行ったのが、たまたまだがボンベイロッジである、今は立派になってボンベイパレスになっている。 その19歳のインドから帰る日に、パハールガンジで書いた日誌。 日本へ帰るという朝、六時。最後に活発な朝の営みをもう一度、と道端に座り続けている。寒くて腰巻を体に巻きつけている。ちょうど、隣に台車を転がしてきたみかん屋が止まった。ここで営業するつもりらしい。早速おっちゃんにお金を渡す。朝一番の客におっちゃんは仰々しくお金を頭の上に挙げて目礼した。今日も一日やるぞ、という意気込みを感じた。目の前を、リキシャー人人人リキシャーオートリキシャー牛人人人。 犬二匹が喧嘩をおっ始めた。そこをゆっくり歩いていた牛が、突如犬目掛けて走りだし、喧嘩を止めさせた。犬の喧嘩の仲裁をしたことより、インドの牛が走ったことに驚く。 目の前にポンプがあり、人々が水を汲みに来る。そのおじさんもそういった人々のひとりであった。バケツに水を汲み、脇に置いて、もうひとつのバケツにポンピングして水を入れている間に、密かに牛が忍び寄り、ごくごく置いてあったバケツの水を飲んでしまい、しなやかに素知らぬ顔をして歩いていってしまった。そのおじさんが振り向いて、あれっという顔をして私を見る。漫画の世界か。 インドでもある薬用成分のある棒を歯ブラシに使う。次に来たおじさんは、得意そうに私を見ながら、にやけながら歯を磨いていたのだが、歯磨きに集中していなかったのか、棒を喉奥に突っ込み過ぎた。オエー。彼は吐いた。君はコメディアンか。 寒いのは続くので、暖かいティーを飲むことにして近くの掘立て小屋に行く。朝から数人座ることのできる店は繁盛している。そこに乞食かクーリー(苦力)か、無茶苦茶汚れた服を着た、垢か地か分からない真っ黒な顔をした男が、本当に大事そうに一杯のチャイを啜っている。ゆっくりゆっくりと。彼は、飲み干すと、汚れた小さな財布を出した。一ルピー硬貨が五、六枚見える。もし、これが彼の全財産なら、何てダンディな奴なんだ。彼は、一ルピーを渡して、雑踏の中へ消えて行った。 昔、ルンギー(腰巻)で旅行し続けていたが、見ないねえ、都会だからなのか。(リンク先の持ち物にTシャツ2枚が抜けているね。) まあ、現在も、渋滞でなかなか前に進まないメインストリートであるが、路地も、バイクがバンバン走っている状態。 つくづく、20代前後に感じた粗削りでみずみずしい感覚は消え、妥協と鈍感力が増進されただけだと感じる初老の男であった。それは仕方ないことであった。と弁解しつつも、悲しくも仕方ないことであった。ただ、懐かしさを感じなかったのは何故か。 食事をしつつ、茶も飲みつつ、路地を右往左往2時間程歩き、すっかり夜となり、宿に戻ることとする。それにしてもパハールガンジとコンノートプレイスの間がこんなに分断されていたとは、記憶から消えていた。離れてはいるが、商店がずっと続いているという記憶であったが、それは違ったし、パハールガンジメインストリートを南下するほど、コンノートに近いと思えば、それも違った。駅からのほうが近かったのである。 もう場所は覚えていないが、アジア旅行すると、いつも生野菜サラダを食べたい感覚に陥っていたのだが、コンノ―トプレースのちょっとした貧乏旅行者には敷居の高い店で野菜採り放題の生野菜バイキングの店があって、さすがに大学3年ともなると、大学1年より何となく貧乏至上主義耐えてインド主義も消え、何人かでオートリキシャーに乗り、コンノートのその店まで行った。汚いのは俺ら外国人だけで、外国人は俺らだけである。草履の人もいないし、ましては、俺だけがルンギー(腰巻)であり、入り口で少々揉めたが、外国人特別枠で入れてもらった。今考えると、ほんと無礼で、他のお客さんに迷惑かけたと思うが、当時はごめん、生野菜食べたい、お金ある、という傲慢なものだった。(考えたらフィリピンでも地元高級ディスコで、ドレスコードあるのに、短パンサンダルでヘラヘラ出かけて、止められて、外人特別枠で入れてもらったなあ。勿論外人なんかこないエリアだよ。いやア恥ずかしい。一緒に行ったばっちり決めたフィリピン人が、こいつは外人のゲストで、旅行中なんでこの服しかないんだ!みたいなことを言ってくれて何だか、入れたんだよなあ。ごめんなあ) それで反省だけど、態度も悪くて、椅子の上に片足乗せてたら、インド人支給に怒られ、あ、ごめん、と足を下ろしたら、とても紳士的に、ベリーナイスと言われ、すんごく無礼な自分が恥ずかしくなったんだったなあ。 その後もいろいろな小さなことが20歳代であって、少なくとも他人を不快にさせる態度はいけないなあ、という当たり前のことを学び、外見ごときで判断されないように、時と場所を選びなさいなということを学んだなあ。本当は誰でも内面を見てほしいけど、まず見た目で判断されるからねえ。見た目は普通にしとかないとねえ。(何が普通なのかはおいとくがね) そういえばさあ、トランプが決まった日に、カルフォルニアでマリワナ法律で解禁になったよねえ。日本だけが時代に遅れているが、かるフォルニア、その師匠が菊地さんだ。 インドへ1。 インドへ2。 うんコ詐欺に会いにインドへ。 インドgourmet drinkの旅。 デリー観光シャルダーム寺院。 30年前のデリー。 パハールガンジ、ニューデリー駅前。 デリーから帰国に向かう朝。 バンコクトランジット。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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