人として相手を見ているか
人として相手を見る、ということの重要性について。 数年前、このブログでもよく取り上げられる「荻上チキ セッション22」というTBSのラジオ番組で、防災の日にちなんで90年前、関東大震災で起きたデマによる朝鮮人大量虐殺の実態を検証していました。 で、この事実を番組冒頭にリスナーから「もともとこういった事実(朝鮮人の虐殺)はなく、慰安婦問題と同じで日本人を貶める自虐的な歴史観に基づいた~」の、メールが届く。しかし、これはゲストの大学の先生と検証本を書かれた方にあっという間に論破される。なにしろこの事実(災害時のデマによる被害)というのを国がまとめた資料や公文書、および警察などに残されている資料から「震災の死者のおよそ1%がこういったデマで殺害された人である」と認めており、また、当時の新聞記事などにも混乱する現場からはっきりデマを流している新聞が発覚している。 この時点で「いったいこのメールを送った人は何を根拠に虐殺はなかったという情報を手に入れたのであろうか」と疑問を呈していて。 で、お話の中で一番感動したこと。混乱の中、デマを信じて暴徒と化した民衆による在日朝鮮人の虐殺の中、彼らを匿う日本人もいた。そしてその理由は「普段から仕事などいっしょにやっていた仲間」だから、という・・・つまり、この人たちにとって国籍は関係なく「人間として」付き合っていたからこそ、デマに踊らされなかった。よく相手を知っているからこそ、守ってくれた。同じ日本人であってもこういう人もいた。 同じ日本人であってもこれだけ違う。と、いうことはそれは他国民族にも当然言えることであり。 大規模な災害とその混乱期には必ずこういったデマが流れる。社会不安に陥った人間の狂気は、マンガ「デビルマン」の後半でも描かれていますが、この国では本当にあったこと、そして、たとえばつい4年前の東北震災でも当時「在日朝鮮人が混乱に乗じてレイプしまくっているから注意!」というのがリアルタイムでネットの掲示板に流れてきてものすごい勢いで拡散しされていた。これ、現代日本の話です。 だから、本質的に90年前の日本と変わらない危険性をはらんでいる。当時、自警団として集まった青年たちが朝鮮人かどうか判別するために「十五円五十銭と言ってみろ!」と発音から外国人かどうかを判断して虐殺に及んだ、もちろん、在日外国人だけでなく、聾唖の人、知的障碍者、東北など方言のキツイ人から特定思想家まで「あいつは怪しい」と撲殺した事実がちゃんと裁判記録の資料としてたくさん残っていて、さらに政府や警察が震災直後、混乱を煽る様な情報まで流した(のちに否定する)。むしろ「虐殺はなかった」資料のほうが探すのが困難という。 実際、朝鮮人を殺害して警察に「褒めてくれる」と意気揚々と出頭したものもいるとか。そういう人は裁判で「お国のためという愛国心でやった」と語ったそうで・・・これって昨今のヘイトスピーチやってる連中とまったく思想が変わらない。 何より一番恐ろしいのはこれだけの日本の隠しようのない傷すら、一世紀もたつと「なかったことにしようとする」力がどこからか働くということ。 こういう自国民の「闇」の部分はどの国にもあって。だからこそそれは事実として認め、反省し、汚点として忘れないように後世に伝えることは決して自虐的歴史観ではない。むしろ必死に否定することが恥なんだと思うし、そんな美しい歴史など自国、他国問わずろくでもないものだ。 「こういった災害などの混乱期に社会的少数派が社会を混乱させようとすることは歴史上ほとんどない。しかし、逆の多数派が少数派に襲い掛かる例は世界中たくさんある」 この意味の言葉が胸に響きました。