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川柳で人生を二倍に生きる

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川柳

2008年01月29日
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カテゴリ:川柳
 
 
 夜逃げをするのではありませんが、写真の容量がいっぱいになり、やむなく引越しいたします。
 以下のバナーからリンクしています。 

  川柳道場看板.jpg

 長らく、楽天さんにお世話になりましたが、システム上の都合で残念です。
 こちらの情報は、削除せずに残したいと思います。

 特に、川柳250年の日記は、そのまま記録として生きています。

 今後ともよろしくお願い申し上げます。






最終更新日  2008年01月30日 02時53分00秒
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カテゴリ:川柳

 年賀状は、ものごころついた頃から欠かさず出してきた。
 唯一、11月末に祖母が亡くなった年だけは、年賀状を買っただけで出さなかった。

 今年も楽しみのお年玉抽選。

 500枚を越える今年のお付き合いの結果を、娘と女房が一枚ずつ楽しんだらしい。
 「当ってたわよ…」というので、成果を聞いたら、なんと末等が4枚と言う。

 「よく見たか…?」とつい聞き返してしまった。

 例年であれば、当らないといっても切ってシートが10枚以上の成果。今年はヒドイ。

 ところが、20枚にも満たない娘…巳年…は、3等のブランド食材が1枚当ったそうだ。

 人生、仕事の時間や数ばかり多くあっても、なかなか報われない私のような子年と、ほっておいても他者さまから運が向く三柳や娘のような巳年の違いがあることを、まざまざと見せつけられた。

 
 ところで、写真を多用してきたブログはきれいで、記録にもなりましたが、いよいよ50MBの許容量にひっかかってしまいました。
 フリーのシステムだからしかたありませんが、残念ながら古い写真の整理が必要なようです。

 楽天さま、もっとアルバムスペースをくださいませ…。






最終更新日  2008年01月29日 23時24分50秒
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カテゴリ:川柳

オリックス.jpg






最終更新日  2008年01月29日 11時39分35秒
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2008年01月28日
カテゴリ:川柳
 <川柳画>という用語があります。
 川柳に絵を添えて、その意味を、より分り易く、また面白くしたものです。

 これは、川柳にはじまったことではなく、既に川柳画に先立って、句に絵を賛した作品は、狂歌や俳諧(または発句)への添え絵があります。
 狂歌では、すでに明和7年(1770)の英一蝶による『一蝶画譜』の中にそれが見られます。

   川柳マンガ 英一蝶.jpg

      猿ひき
        われかれを廻すと嘘は思ふらめ  まわされて世を渡たる猿曳


 大川の遊山舟を相手にしての舟に乗った猿曳(猿廻し)の絵が右の狂歌に添えられています。
 まだ、川柳画が生まれる65年も前のものですが、その後、〈川柳画〉としてイメージが形成されていく原形質が、柄井川柳在世中の『誹風柳多留』五篇と同じ年に、同じ短詩型の狂歌で見られることは、川柳と絵が出会ってゆく過程として、興味深いことですね。






最終更新日  2008年01月29日 01時01分23秒
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2008年01月27日
カテゴリ:川柳
 川柳は、句会、公募などに投句して<競吟>を楽しむ一般的切り口があります。句会において入選することは痛快です。入選には、ある種のカタルシスがあります。また、句会を通じて、同行の士とめぐり合い、新しいコミュニケーションができるでしょう。
 
 同じ、川柳を作ることでも自分自身を見詰め、真の自分と出遭うような、<作句>の喜びもあります。こちらは、句による競争というものではなく、「作家」として自らの存在自体を表現することです。これらの句から、人と人との心の繋がりができるでしょう。

 そして、川柳には<読む>楽しみがあります。古川柳以来、250年間に作りつづけられている作品を読むことによって、その時代時代のニンゲンの在り方が垣間見えます。特に、風俗や習慣、考え方など、時代を生に表現した名句の鑑賞は、愉しいものです。

 さらに、川柳には、作品をやり取りする楽しさがあります。出産、入学、結婚、昇進、出版…など、人生の節目節目に、お金やモノだけを贈るのではなく、祝吟を一句添えることで、そのコトバのプレゼントは一生の思い出になります。
 また、大切な方が亡くなった時に作る一句は、追悼句として家族へ贈られるとともに、作者自身の心のメモリアルになります。

 川柳の文化としての広さは、ちょっとやそっとでは語れません。

 いっしょに、川柳で人生を二倍に生きてみませんか。
 嬉しい時の一句は、喜びを二倍にし、悲しいときの一句は、悲しみを半分にしてくれることでしょう。やさしく、入門から、作家の要請、指導者の指導、専門研究者への資料提供からアドバイスまで、玄武洞川柳道場で知的汗を流してみませんか。

 一度、こちらを覗いてみてください。
  
          川柳道場看板.jpg






最終更新日  2008年01月28日 00時22分23秒
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カテゴリ:川柳
 絵(特に簡略画や俳画)と川柳、写真と川柳の組合せは、新しい表現世界を生み出してきました。

 漫画家の宮尾しげをは、「川柳の賛に画をつけたものを、川柳画と云う」と定義しています。
 川柳史の中でさいしょに登場した川柳画と呼べるような作品は、明和7年(1771)刊の『誹風柳多留』五篇にあります。

    川柳マンガ.jpg
    Web川柳博物館朱雀洞文庫)蔵

 これは、呉陵軒可有の序文に添えられたものです。
 もっとも、「川柳画」というよりは、当時の川柳風組連の主な名を幔幕に記し、これに
   あぶみへもつもれ初瀬の山桜
 という、おそらく呉陵軒による宣伝的な句を添えたものでしょう。とても装飾的です。
 
 「あぶみ」は馬に乗る時に足をかける部分のことですが、「あふみ」すなわち「近江」につながり、当時大きな取次(これが後に今日でいう吟社のような作家の集まり「連」になります)の名前です。「初瀬」も山の手の大きな取次名。「山桜」は、下谷の川柳風の旗本でもある「桜木」を表しています。いわば、コピー広告にもなっています。
 右から幔幕の名前を挙げると「梅」「籬」「柳水」「水仙」「若松」「兜」「松葉」「錦」「霞」と読むことができます。

 柳多留も五編を迎える頃には、柄井川柳という点者が江戸の前句附界を代表する存在となり、押しも押されもせぬ点者となっていました。この絵からは、その自信が伝わってくる気がします。
 






最終更新日  2008年01月27日 11時29分57秒
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2008年01月26日
カテゴリ:川柳
 書庫で資料を探していたら、懐かしい雑誌が出てきた。

 「まんがっぽ」。もう30年以上も前のものだ。

  まんがっぽ0.jpg

 川柳とマンガは、絵本柳多留などと称して江戸時代から人気があった。
 新川柳になってからも、<川柳漫画>という用語ができるほど人気があった。

 今日では、独立したジャンルとして発表されることは少ないが、多くの雑誌で川柳とマンガのコラボレーションが行われている。

 川柳とマンガは、互いを補完しあい、より面白い表現としてアピールをもつ。

 そんな中に「衡己(ひでき)」の名を見つけた。
 15歳の川柳作品が、はじめて雑誌に載った嬉しい想い出。

   まんがっぽ.jpg

 瓢太郎(竹本)さんのような東京のドンに混じって、私の名があるのは、今見ても嬉しい。
 残念ながら、私をかわいがってくれた小鍛冶(本間)さんや、鱗太郎さんは、もう亡くなってしまった。
 川柳も、大きく世代が変わってしまい、昔を偲ぶようになったということは、私も年を取った証拠なのだろう。






最終更新日  2008年01月28日 00時23分29秒
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2008年01月25日
カテゴリ:川柳
 川柳が嫌で、絵かきになりたかった頃、絵を描くのが大変だった。
 川柳を稼業にすると、川柳を作るのが大変になった。

 世の中、うまくいかない。

 今は、絵を書いている時間の方が癒される。

   色紙 あまね.jpg

 先日、日本近代詩歌文学館への作品を描くときに出した絵具がそのままだったので、片付ける前に描きかけだった娘の絵に手を加え、句を入れた。

 なんだか、昔の絵を描く愉しかった気分が戻った。

 それを見ていた娘が、「私にも書かせて…」と、私の席へ割り込む。
 何をするのかと見ていたら、いきなり朱墨を手に塗り、色紙へペタリ。

 ついでに句を書いた。
 まったく物怖じしない素振りに呆然。

      色紙 あまね2.jpg

 私は、「作品に対して構えすぎている」とつくづく知らされた。
  






最終更新日  2008年01月25日 17時43分08秒
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2008年01月24日
カテゴリ:川柳
 「オリックス マネー川柳」の公募期間も残すところあと1週間。

 毎日、集まった句の選考をしてもしても、まだ後から投稿が切れません。
 昨年並みの8万5千句を超えたかなあぁ~っと、担当者としては少しホッとしていましたが、事務局のお嬢さまから、「只今まで、9万6千句来ております。10万句にも達しそうです…」というメールが入りました。

 これはもう、ホッとしたのを超えて、嬉しい悲鳴です。

 1日に集中して捌ける選句数は2000程度。かなり頑張って4000句。
 あと2週間ぐらいの間に、残された4万句を見るのは至難のことです。

 かつて、初代川柳絶頂期に、10日間に3万句を捌いた記録もありますが、その時の大先達の大変さに思いが至ります。

 懸賞金がかかった<公募川柳>はブームです。多くの方が、川柳という十七音の短詩文芸に興味を持っていただけることは、川柳に生きる私にとってとても嬉しいことです。
 集まってくる一句一句を読んでいくと、多くの人々の思いが伝わってきます。

 さて、川柳は文芸です。

 思いの丈を十七音にコトバだけ並べたのでは<詩>になりません。そこに、作者のスタンスをしっかりと盛り込むことが必要です。

  ダイエットスリムになるのは財布だけ
  ダイエット体重よりも減るお金
  ダイエット体重減らず貯金減る

  ブランドの財布はいつも小銭入れ
  ブランドの財布重たい硬貨だけ
  ブランドの財布中身の方安い

 といった<同想句>がたくさんまいります。いずれも、庶民感情を表していますが、10万句に及ぶ句の中では、アピールが足らずに落選してしまうでしょう。
 入選のコツは、人の思い及ばないマネーと自分の関係を十七音にすることです。
 それだけでも、同想から逃れて、入選へ有利になります。

 また、ブランドの財布で例を挙げれば、

  ブランドの財布ぬくめる銭がない

 とすれば、単に小銭だけが入っているとか、中身が少ないという<状態>だけを十七音にしたのではなく、「ぬくむことがない」という作者感情が盛り込んだことになります。このほうが、単に状況を説明した句より、<共感>が強くなるでしょう。

 「いい句」は、多くの人の共感を呼ぶように作らねばなりません。
 そのためには、十七音(五七五)のリズムを大切にすることと、作者の心の欠片が少しでも盛り込まれることにあるでしょう。

    maney_senryu2008.jpg

 私も、あと1週間、いっしょうけんめいいい句を選べるように頑張ります。

 これを読まれた皆様は、是非、多くの人のこころに響く「いい句」を応募してください。


    






最終更新日  2008年01月25日 17時40分44秒
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カテゴリ:川柳
 日川協から総会の案内状が届きました。
 住所には、個人会員の私の名がラベルにありましたが、併せて同一住所ということだったからでしょう、

  尾藤一泉 様方
  川柳公論 御中

 という名称だけのラベルが貼られています。
 これを見た、尾藤三柳事務所スタッフが「いつから一泉が公論の代表になったんんだ…」と騒ぎが起こりました。
 これは、まったく私が意図したことではなく、一通の案内状が起こしたトラブルです。

 さっそく、日川協の事務局に問合せをしました。すると、2枚葉書が入っている1枚を三柳に渡してくれという。昨年までは、別々に案内が来ていたので、そんがどんな意味を持つかは解からなかったのですが、事務の「合理化」という事なのでしょう。同じ住所の川柳公論を私の「様方」で送ってきてしまったのです。

 今日、川柳界では「師弟」という認識が薄れていますが、私の所では古い師弟関係があります。私たちは、親子である以前に「師弟」です。
 先日も書きましたが、親子なら縁も切れます。
 しかし、川柳という世界の中で、育まれてきた師弟関係は、切っても切れません。

 三柳の師・前田雀郎は、三度(みたび)その師・阪井久良伎の門を追われました。いわゆる<破門>です。川柳における時代感覚が、江戸趣味から抜けられなかった久良伎をして、雀郎を破門にしたのです。
 しかし、雀郎は死ぬまで、久良伎を師として、その著述にも温かく破門を受け入れています。それは、師を越えるためのやむおえぬ道であり、久良伎を乗り越えたからこそ、雀郎があるのです。

 三柳は、雀郎から破門されることはありませんでしたが、雀郎の教えをさらに広く、さらに深め、川柳の体系を大きく日本の言語文化における問答の中に位置づけました。しかし、雀郎の個人誌であった、「せんりう」を継承することはありませんでした。これも、師の教えからそれを越えた領域へと進めたのです。

 一泉は、三柳が師というより、もっと間近な「門前」として川柳を身につけてきました。したがって、親子として生きてきた時間より、物心ついた頃から、川柳界に連れ回され、自然と川柳に目を開いたといっていいでしょう。直接、三柳から教わることは、ほとんどありませんでした。三柳が、第三者に教えたり語ったりするのを間近で見ていて、何時の間にか盗んでいたのです。
 二十歳からは、「川柳公論」委員として、師弟という関係を明確にされました。

 したがって、「尾藤一泉 様方  川柳公論 御中」などという記述は、あってはならないことで、こんな公文書が出てくると
 「一泉、お前は何様だと思っているんだ…」
 と、破門されても仕方ない状況になってしまいます。

 「川柳公論」は尾藤三柳の個人誌です。
 個人誌とは、主宰者が、隅から隅まで責任を持ち、その主張がページの隅々まで行き渡っているものです。単なる同人雑誌とは意味が違います。
 私も、デザイナー、編集者として「川柳公論」の編集業務に関わっていますが、私のデザイン的提案を受け入れるかどうかは三柳の匙加減一つで、すべてが編集作業を行っている者に権限があるのではなく、主宰者の裁断を待って、作業をしているに過ぎません。

 日川協の方は、軽く「一泉さんが事務なんだろ…」と言っていましたが、師弟関係では「事務」職はありません。年を取った三柳の補佐的な仕事は進んで行っても、それは私の師に対する思い入れであり、師は、決してそれを喜びません。「俺がルールブックだ」と言うでしょう。

 「川柳公論」は、三柳なくして「川柳公論」ではありえないでしょう。
 よく、「一泉さんが公論を継ぐんでしょ…」とも言われます。しかし、公論に集まっている方々の大半は、「三柳」という存在に集まっているものであり、私もその一人にすぎません。親子だからといって、継ぐ立場に無いのは、三柳やその中間が、雀郎の残した吟社を継がなかったことといっしょです。

 師系とは、師が明確であってこそ、はっきりとした脈を描きます。

 私は、「川柳公論」では、自分の思いの果てを出し切ることが出来ません。
 それがしたければ、自分の主宰誌を持たねばならないのです。

 私は、川柳250年次業を通じて、川柳が社会と一体とならなければ、どんなに吟社の会員を増やしても、それは社会からかい離した、自己満足の文芸でしかないと感じました。
 それを、具体的に主張するには、残念ながら「川柳公論」という枠では無理と感じ、玄武胴川柳道場を創設しました。今年の1月1日をその創立日とします。
 2月には、その機関誌川柳 さくらぎ」が発行されます。わたしが生きてきた川柳界ももちろん大切にしてまいりますが、もっと社会と一体となれるような活動の拠点にしたいと思っています。

          「さくらぎ」 のコピー.jpg
 かといって、もちろんのこと、もちろん、「川柳公論」から出るわけではありません。三柳の弟子として、三柳が身罷るまでは、その元で学びつづけます。これは、かつての絵画工房と似た感覚かもしれません。
 レオナルド・ダ・ヴィンチは言います。
 「師を越えない弟子はやくざ者だ」
 と。すべての面で師を超える事は難しくとも、自分の特徴を生かし、ある部分で師を乗り越えることが弟子の役割でしょう。

 さあ、川柳を生活に密着した文化として、私たちと一緒に川柳を通じた自分探しの活動に入りませんか。本当の自分というモノを見つける契機となり、さらに自分たちが作った川柳作品が、社会への共感として人々の心に残るような活動を、玄武洞川柳道場からはじめてみませんか。






最終更新日  2008年01月24日 23時29分01秒
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