人類に課せられた命題
私66年生きて来たんですが、今の世界のヒューマニズムという思想がどうもいけないな~と思っています。そして、正しい事って殆ど相対的なもので普遍性が無く、正しさを振りかざすこと自体が誤りと思っています。まあ、誤りと思う、という事を掘り下げれば正しいことが有るかのように聞こえますから、言葉の上での矛盾も感じますが・・・。話を元に戻して。人間だけでなく生物が生きると言う事は、今も、ある意味ぎりぎりの戦いの中にあると思います。人間と言う生体の内部では、外から侵入してくる、自分にとって有害な細菌や原始的生物、有害な線虫なども例外なく撃退し、多くはそれらの命を奪う事で自己の生存を維持します。生物はそういうヒューマニズムなどの思想とは無縁な仕組みが有るから生きて行けるわけです。当然自己の生存を維持するため、他の生物を己の栄養源とするために命も奪います。そのレベルではヒューマニズムもくそありませんし、人によって命を奪われ死んでゆく他の生物に対し感謝し、或いは謝罪すれば許されるわけでも全く無いと思います。それは手前勝手な合理化だし、言い訳でしかないのです。人間の生存するこの現在の環境の中でヒューマニズムに基づいて生きることを非難することはしませんが、個人の裁量の範囲の中で行われるべき事ではないかと思います。つまり、社会制度としては本来ヒューマニズムを強制すべきではないという事になります。私の基本的なスタンスは今書いたようなことですが、では人間はどうすれば良いか?という事になります。牛や豚、鳥、魚、植物を含め、自分勝手に良いように利用して生きる人間が、今更身勝手極まりないヒューマニズムを持ち出すのは恥ずかしくてとっても出来ません。普遍の正さなど、そもそも無いのだから、それぞれが思う「したいこと」を他の人や生物になるべく危害を加えない様にして生きる他なくなります。しかし、一切の迷惑を排すれば生きて行けないことにも気づきます。それでは、どうやってこの世の中で自分の生存を正当なものとすることが出来るのか?このレベルから教育が始まるべきだと思う訳です。一度そこまで降りて、そこから人間はその問題をどのように解決すべきかという事から逃げない教育を等しく始めるべきと思うのです。そうすれば自ずと人間は成し遂げるべき何が有るのか?判るはずなのです。私は当たり前のことと思っているが、「生物界はそもそも、生き残りをかけた戦いの中で命をつなげるかどうかの世界であった」という認識が必要なのではないでしょうか?人間とて例外ではないから、未来から現在を振り返る時、「ヒューマニズム思想によって人類は淘汰と進化を止め、やがて衰退し滅びた。」そういうことにならないために何が必要なのか?それともヒューマニズムと共に滅びるのが今の人類であるという事を認めて諦めるのか?ヒューマニズムを標榜していても滅びない方法は必ずあるはずだ。他人ごとのように書いてしまうことになるが、万人が納得できる社会制度などあり得ないと言い切るほかなく、混沌とした社会が有り得べき真の姿と認識する他無いかもしれないが、明日の死に怯えることが無い人が居るなら、その人は、どうすれば他の生物と共に人類がこの地球で生きて行けるかを第一に考えその実現に力を貸すべきだろう。そう言う認識の上で、私は私個人の裁量の範囲で人々や他の生物に役立つ何かをすることで世界と関わって行くほか道は無いだろう・・・・。それは人として行為可能な自己裁量の範囲内の事なのだから・・・・。