カテゴリ:地域の歴史・伝承
福井市は、越前松平藩の城下町。 最近は、仕事で福井市に行くことが多く、 きのう、福井市のホテルに泊まった時に、 ちょっと早起きして、福井城跡に行ってみました。 福井城の跡地は、現在、福井県庁となっていて 石垣や遺構を示す標識、石碑が立っているのみ。 しかし、その周辺には中央公園や福井神社などもあり、 存分に福井の歴史を偲ぶことができます。 まずは、福井県庁です。 県庁の入口には、越前福井藩の藩祖、結城秀康の石像がありました。 結城秀康は、徳川家康の次男。 しかし、徳川の跡を継がず、徳川も名乗らずに、 こうした名前になったのには、 彼の波乱に満ちた生涯があったためです。 秀康の母は、お万の方。 お万は、家康の正室・築山殿に仕える奥女中でしたが、 ある日、家康の手が付き男の子を出産しました。 それが秀康(幼名、於義丸)です。 家康は、嫉妬深い築山殿をおそれ、生まれたばかりの於義丸を家臣のもとに預けます。 その後も、於義丸の存在は、世を忍ぶかのように隠され続けました。 やがて、秀康は世に出ることとなりますが、 それでも徳川を名乗ることはありませんでした。 小牧・長久手の戦いの後、 家康は羽柴秀吉と和睦しますが、その和睦の条件として、 秀康は、秀吉のもとへ養子に出されることとなります。 実質は人質のようなものです。 この時に、秀吉の”秀”と家康の”康”をもらって秀康と名乗りました。 しかし、秀康は豊臣を継ぐこともありませんでした。 秀吉に、最初の子ども鶴松が誕生すると、秀吉は鶴松を豊臣氏の後継者として指名。 そのため秀康は、下総の大名・結城氏との婚姻を勧められ、 結城氏の家督と結城領を受け継ぐことになりました。 その後、関ヶ原の論功行賞により、 秀康は、家康より越前北庄67万石に加増移封され、福井にやってきました。 この時、家康から”松平”の姓を名乗ることを許されましたが、 秀康はこれを名乗らず、生涯、結城姓を通したといいます。 武勇・器量にも優れ、徳川2代の弟秀忠より、数段上とも評されていた結城秀康。 しかし、父家康に冷遇され続けた不遇な生涯であったのです。 秀康の話が、長くなりましたが、 次に進みます。 福井城天主跡です。 福井県庁の構内。 天主跡を示す石碑と、礎石のあとが残されている程度です。 この天主は、寛文9年(1669年)火災により消失し、 それからは、再建されていないそうです。 また、この天主跡の横には、福の井と呼ばれる井戸があります。 この井戸は、往時には名井の誉れ高く、 かつては、北ノ庄と呼ばれていたこの地は、 寛永10年(1633年)に、福井と改称されましたが、 その時、この井戸が福井の地名の由来となったとも言われています。 早朝の歴史散歩、天気も良くて清々しいです。 このあと、県庁近くの福井神社・中央公園に行きましたが、 この続きは、また、次回。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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