カテゴリ:地域の歴史・伝承
江戸初期の諸藩の成り立ちには、 それぞれに、様々な、いきさつやドラマがありますが、 以下の話も、そうした一例であります。 独眼竜の異名で知られる東北の雄・伊達政宗は、 機略、胆力に優れ、天下を狙える力量を持った武将でありましたが、 奥州統一を果たそうかという時には、 何ぶんにも、時すでに遅く、豊臣の天下が定まっていたため、 結局、秀吉の軍門に下りました。 政宗は京に上り、秀吉に拝謁することになりますが、 その時、長男の兵五郎(当時3才)を伴い、 「この子を、お側において、お育て下さい」 といい、差し出しました。 この、政宗の自発的な申し出に、秀吉は大層喜び、 この子を”秀宗”と名付け、豊臣家の猶子としました。 天下人である秀吉との絆を深め、伊達家の安泰を図ろうとする政宗の政略でありました。 秀宗は、伏見城内で青少年期を過ごし、 やがては、秀頼の近習として、遊び相手なども務めるようになりました。 ところが、秀吉が死去したことで、状況が一変します。 政宗も徳川方につくことになり、 ここで、困った立場に立たされたのが秀宗でした。 政宗にしても、豊臣子飼いの秀宗に伊達家を継がせる訳にいかないので、 伊達家の跡目も、次男の忠宗に相続させることになりました。 そうした経緯によって、あわれな境遇に置かれてしまった秀宗。 しかし、やがて、彼にも道が開けてきます。 それは、大坂夏の陣で、政宗が手柄をたてたことが、きっかけでありました。 政宗は、大坂夏の陣で、後藤又兵衛を討ち取るなど、 徳川方主力として、大いに活躍しました。、 家康は、この褒美として、政宗に所領を与えようとします。 しかし、政宗は、ここで、これを長男の秀宗に分与したいと申し出ました。 家康もこれを了承。 こうした経緯により、秀宗にも領地が与えられることとなり、 秀宗も、晴れて、国持ち大名になることが出来ました。 新たな領地は、四国・宇和島10万石です。 秀宗は、仙台から、家臣や商人など数千名を引き連れ、 東北から、はるばる宇和島まで移ってきました。 これが、宇和島伊達家となり、 その後、明治維新まで続いていくことになるのです。 ところで、 私、来週、宇和島~宇和町~松山の史跡をめぐる旅に行ってきます。 ブログ仲間の ゆうあいママさん からのご紹介です。 久々に、懐かしい仲間とも会えそうです。 宇和島は、幕末には藩主・伊達宗城(むねなり)のもと、 蘭学の研究がさかんとなり、 二宮敬作、村田蔵六(大村益次郎)、シーボルトイネ、高野長英なども、 宇和島で活躍しました。 そうした旧跡や、 旧い家並みが残るといわれている宇和町も楽しみです。 又、そうした旅を通して得た発見を、 次回にでも、お伝え出来ればと思っております。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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