カテゴリ:地域の歴史・伝承
♪汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり~ この「鉄道唱歌」は、 日本各地の名所や史跡・名産品などが織り込まれ旅情にあふれていて、 日本の鉄道草創期の様子が、とても良く伝わってくる歌です。 全編は334番まであるといい、とても長い歌でもあります。 JR新橋駅の駅前には、この歌を記念した「鉄道唱歌の碑」が建てられています。 出張で、東京に行った時に、この新橋付近を散策してみました。 鉄道唱歌が発表されたのは、明治33年(1900年)のこと。 発表された当初は、「地理教育鉄道唱歌」と題され、 子供たちの地理学習のために作られた歌であったようなのですが、 たちまち、大人の間でも人気となり、日本国中で歌われるようになっていきました。 作詞は、国文学者・歌人の大和田建樹 曲については、発表の当時、複数の人によって、いくつかの曲がつけられていたようですが、 現在、一般に知られている「鉄道唱歌」の曲は、多梅雅(おおのうめわか) という人の作曲です。 そうした日本鉄道発祥の地として知られている新橋ですが、 しかし、実際に、日本で初めて鉄道が走った新橋駅は、 現在の新橋駅ではなくて、JR新橋駅から東に200mほど離れた場所にありました。 その場所も、今は、再開発により、汐留シオサイトというオフィス・ショピング街になっており、 しかし、そうした高層ビルに囲まれたその中にも、駅舎の遺構がわずかに残され、 「旧新橋停車場」として、当時の駅舎が復元されています。 ところで、日本で初めて鉄道が走ったのは、明治5年(1872年)のこと。 明治政府が富国強兵・近代化を進めていくにあたって、 まず、日本国民に近代化を目に見える形にする必要がある、 という意見が主張され、鉄道建設の計画が進められていきました。 この鉄道建設について、中心となって主張していたのは、 大隈重信と伊藤博文の2人であったといわれています。 しかし、そうはいっても、 当時の日本に自力で鉄道を興すだけの力はありません。 そこで、技術面・資金面などで、外国の援助を受ける必要があるとして、 そのバックアップをイギリスに頼むこととなりました。 イギリスから技術者が呼ばれ、いよいよ本格的に鉄道建設が進められていきます。 そして、まず鉄道を最初に敷設する区間として決められたのが、 新橋(汐留)~横浜(桜木町)間でありました。 しかし、当時の日本人にとって、鉄道とは得体の知れないものであるという観念も強く、 鉄道建設にあたっては、様々な反対運動が起こり、 実際には、線路の敷設についても、なかなか進みませんでした。 そのため、線路を海の上に敷こうということが考えられ 海に築堤を築き、そこに汽車を走らせる形で工事が進められていきます。 こうした経緯から、結局、最初の鉄道路線は、全走行距離の1/3の区間が、 海の上を走ることになりました。 それでも、なんとか、線路の敷設工事も終わり、停車場の整備も進められて 明治5年の10月、本格的な営業が開始されました。 開業当時、運転本数は、1日9往復で、片道の所要時間は53分だったそうです。 汐留の新橋停車場跡地に再現されている、当時の駅舎です。 当時の線路とプラットフォームも、再現されています。 これは、0哩標識といって、 測量の起点となる第一杭が打ち込まれた場所。 鉄道の起点となる0マイル標識が、その同じ場所に復元されたものです。 この鉄道開業の時には、 明治天皇のお召し列車が、新橋~横浜間を往復し、 盛大な式典が行われたのだそうです。 当時の日本にとって、この鉄道開業というのは、 まさに、文明開化の象徴であったといえるでしょう。 最初は、鉄道のことを気味悪く思い、 おっかなびっくりであったであろう当時の庶民も、 やがては、鉄道の便利さ、快適さを実感するようになり、 さらには、「鉄道唱歌」にあるように 鉄道の旅を謳歌するようになっていったのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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