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元SF小説家・春橋哲史のブログ(フクイチ核災害は継続中)

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2019.05.26
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​​5月23日に第二回・口頭弁論~傍聴席は満席~

 5月23日(木)、福島地裁いわき支部で、フクイチ過労死訴訟(福島第一原発過労死訴訟/)の第2回口頭弁論が行われ、故・猪狩忠昭さんの2人のお子さん(息子さんと娘さん)が原告として意見陳述しました。
 私も傍聴し、弁論後の報告集会にも参加しました。

注:福島第一原発過労死訴訟
 2017年10月26日に東京電力・福島第一原発構内で昼休憩直後に動けなくなり、意識不明のまま亡くなった猪狩忠昭さんの遺族が、安全配慮義務違反等を理由として、責任の明確化・謝罪・損害賠償を求めて、雇用元・元請け・発注元の三社を提訴したもの。福島地裁いわき支部で係争中。

 第2回の口頭弁論で用意された一般傍聴席は28席でした。抽選になりましたが、整理券が配布された後、裁判所から「整理券の配布枚数が28枚だったので、抽選は無い」旨が知らされました。
 傍聴には、いわき市の市議会議員や、福島原発告訴団の武藤類子さんも来ておられました。
 
 弁論の開始前には、初めて、原告でもある息子さんともご挨拶できました。

 第1回の口頭弁論は抽選ではありませんでしたが、それでも、ほぼ満席でした。今回も抽選にならなかったとは言え、満席でしたから、裁判所と被告代理人には、支援の厚みを印象付けることができたと思います。

 息子さん・娘さんの意見陳述が終わると、次回弁論日程の調整に入りました。
 原告・被告3社・裁判官、5者の日程を擦り合わせなければならない為、「差支え」ばかりとなりました。7月中の日程調整が困難で、原告代理人が「弁論期日」から「弁論準備」に切り替える旨を申し出て、漸く、7月10日に決まりました。「弁論準備」とは、いわば「電話裁判」で、代理人が出廷せずとも行えるものです。傍聴は出来ません。

「誰の為の訴訟か」という観点からすると、私は「弁論準備」(電話裁判)になったのも、已むを得ないし、必要な処置だったと思います。傍聴者で法廷を満席にするのも大切ですが、被害の救済・尊厳の回復は迅速に行われなければいけません。状況に応じて合理的に進めるべきで、原告側代理人の判断は妥当且つ適切だと思います。

 この訴訟のこれまでと今後の経緯については、下記記事にリンクを貼っておきます。

(リンク1)​フクイチで亡くなった猪狩忠昭さんの労働実態

(リンク2)​フクイチ過労死訴訟~故・猪狩忠昭さんの配偶者Aさんが意見陳述~

(リンク3)​フクイチ過労死訴訟・原告代理人の意見書・厚労省ガイドライン・質問主意書

(リンク4)​【原発】作業員〝使い捨て撲滅〟を訴える遺族​(政経東北5月号)

(リンク5)​20年3月、フクイチ「未払い賃金訴訟」は原告勝訴

(リンク6)​フクイチ過労死訴訟は結審~3月30日判決予定~ 

(リンク7)​フクイチ過労死訴訟の地裁支部判決は、一部勝訴・一部敗訴

(リンク8)約4年間の粘り~フクイチ過労死訴訟は一挙に原告有利へ~ 

(リンク)​福島第一原発過労死責任を追及する会


故・忠昭さんの息子さんと娘さんの意見陳述

 続いて、意見陳述の内容です。
 息子さんと娘さんの意見陳述の内容を、ほぼ原文のままアップします。

 意見陳述の内、個人が特定されるような情報は省きました。又、読み易さの為、句読点や段落は変更し、内容を変更しない範囲で文章を改めている部分が有ることをお断りしておきます。

====ご子息(お兄さん)の意見陳述、ここから====

 僕が学生時代の頃、父はとても厳しい人でした。
 長男として、人として、約束事や決めごとが沢山ありました。出来ていなければ、当然ながらよく怒鳴られていました。
 その頃の僕は、正直、厳しい父のことを好きではありませんでした。
 休みの日には、車のタイヤやオイルの交換など、色々手伝いもさせられていました。

 そんな日々の中、東日本大震災が起きました。
 幸い、僕ら家族は無事でしたが、あの日は車の配送をしていた父と連絡が取れず、父が翌日の朝に漸く帰宅し、安心したのを覚えています。
 グチャグチャになった自宅の掃除に追われ、水道も電気も止まり、食べるものが無くなり、缶詰めが食事だったその頃、原発が爆発するという叔母からの連絡に、母は僕と妹を車に乗せ、夜の暗い国道49号線を、会津の祖母の実家へ、先に避難していた叔母達の後を追うように走りました。
 途中、猪苗代のコンビニがオープンしていて、温かいおでんとおにぎりを食べました。缶詰が食料だった時、あの温かかったおでんの、この世のものとは思えなかった美味しさに、感謝したことを覚えています。
 この時、父は、仕事が有るからとの理由で一緒には来ませんでした。
 母は、子ども達を被曝させまいと、いち早く行動しました。その翌日の午前中、原発の爆発が報じられ、僕達は被曝を避けられたのです。
 その間、いわきに残してきた父や祖父が心配で、僕達は毎日毎日、父に電話で早く避難するように訴えました。頑固な父が会津に来たのは、その1週間後くらいでした。

 避難先から自宅に帰宅した際も、父は雨の中で車を整備していました。僕は雨に当たるのが怖かったのに、父は気にしていなかったか、それよりも車の整備が大事だったのかも知れません。

 僕が美容師を目指す為に上京すると言った時、父は反対していたと、母に聞きました。きっと、父は同じように道を共に歩んで行きたかったのでしょうが、僕は違う土俵で父と勝負したいという想いも心のどこかにあり、卒業後、東京に向かいました。
 専門学校に通っていた頃は、よく家に帰っていましたが、仕事が始まるにつれ、父と向き合う時間も少なくなり、久し振りに会うと、どこかよそよそしかったり、でも話してみると、そんなことは無く、その頃は、いつも以上にとても穏やかな表情の父でした。
 何度か、父の髪を切ってあげることができました。口下手な父は僕の前では普通でしたが、職場の仲間には「息子に髪をきって貰ったんだ」と喜んで話していたことを、後で聞きました。
 近いとうるさいが、遠くなると寂しいのが家族なんだなと、その時は思いました。

 2017年のゴールデンウイークに、父は珍しく電車を乗り換え、1人で僕の住んでいるアパートまで来ました。その日、初めて、親父とサシで酒を酌み交わしました。その時は、僕の方が少し緊張していたかも知れません。最近は飲み口が軽いものをと、レモンサワーを片手に僕の仕事の話を聞いてくれました。親父は応援してくれていました。親父は仕事どうなの?と質問しましたが、僕の事ばかりで、話してはくれませんでした。
 今にして思えば、話さなかったのか、話せなかったのか、僕には分かりません。その時、僕の目に映る親父の姿は、昔と違って、人生の先輩、そんな印象でした。
 僕が仕事に着いてから、僕ら家族2人の関係性は、少し折り目がついたんだと思います。

 その年の秋に、カットコンテストに出場しました。毎年、それぞれの種目で参加してきて、なかなか成果が出せずにいましたが、その年のカット部門で初めて入賞しました。
 翌日、家族LINEで入賞した写真を送り、皆に報告でき、家族が喜んでくれました。父からの返信は「稼げるカッコいい男を目指して頑張れ!!」と、今までらしくない変に真面目なもので、僕も何気なく返しました。

 その18時間後、父は他界しました。この返信が、親父からの最期のメッセージでした。
 やっと、形に残す成果を見せる事ができたのに。やっと、反対していた道で喜ばせてあげる事ができたのに。
 母からの電話で「落ち着いて聞いて、お父さんが亡くなった」と知らされました。
 丁度、休憩時間に入り、昼食を買いに出ていた僕は、母からの電話をタイミング良く取る事ができた。「どうしたの」と普通に取った電話の先の声は、いつもと違った。僕は昼食を買う気力が無くなり、そのままお店へ戻り、涙を堪えて仕事を続けた。あの時、どうやって仕事を続けられたのか、今でも思い出せません。​​

 10月半ばに友人と北海道旅行に行った時、父が小遣いを振り込んでくれたので、お礼に蟹と帆立とホッケを実家に送りました。父は会社の方に「今日は息子からの土産で米炊いて食べるんだ」と喜んで言っていたそうです。送り状も捨てずに取ってありました。冷凍庫にはまだ食べていないホッケが残されていました。
 やっと、親孝行らしき事ができた矢先でした。

 お通夜には、会場に入り切れないほどの、父の友人・以前の職場の仲間が来てくれました。父の車関係の友人から「息子は車に興味が無いんだ、って寂しそうに言ってたぞ」と初めて聞きました。
 学生時代の父の友人達は、告別式まで4日間、毎日自宅の父の亡骸に会いに来てくれました。皆声を上げて泣いていました。そして僕に「しっかりな!」と、大きなその手で背中をポンと叩いてくれたことを忘れません。沢山の仲間達、親族に愛され、見送られる親父を見て、その背中に教わる事がまだきっと沢山あったのだろうと思います。

 突然、親父が亡くなって早1年半が経つ今日までと、明日から起きる出来事の中で、親父ならどうするかなと?と自問自答しながら過ごしています。
 もっと話したかった。
 もっと酒を酌み交わしたかった。
 もっと親孝行したかった。

 頑固な父は仕事にも頑固で、頑張りすぎたと思います。でも、原発という特殊な環境の元で、特殊車両の整備に携わっていた父は自分の仕事に誇りを持っていたに違いないと。
 だからこそ、父が亡くなってからの余りに酷い対応に、許せない気持ちで一杯です。
 僕の親父の代わりは誰もいない、かけがえの無い、たった1人の父親です。
 何故、死ななければならなかったのか、息子として、真実を知る権利があると思います。子や孫に、こんなおじいちゃんがいたことを語り継いでいく為に。
 そして故郷福島で、原発事故の収束作業に携わる多くの作業員の命を守れる裁判にして下さい。

 最後になりますが、裁判を始めるに当たり、意見陳述の場を与えて下さった裁判所に対して、感謝申し上げます。

====ご子息の陳述、ここまで====

====ご息女(妹さん)の意見陳述、ここから====

 父は口下手で余り褒めない人でしたが、私は父のことが大好きでした。
 母は、東日本大震災の後から、仕事の関係で福島県外にアパートを借り、そこと福島県を行ったり来たりするようになり、高校生活は殆ど父と2人で暮らしていました。
 初めは、食事も掃除も洗濯も、分担できず2人であたふたやっているような状態でしたが、私が高校2年生の冬当たりから、平日の食事は私で、休日は父という感じで分担して行うようになり、毎日楽しく過ごしていました。
 私は、高校のお弁当もなるべく作るようにしていたので、一緒に父の分も作るようになり、父は必ず「卵焼きを入れてね」と言って、とても喜んでくれました。
 ですが、2013年の高校2年生の頃から、週に1度や2度「明日は早いから」と言われるようになりました。その頃はお仕事が大変そうだなと感じていましたが、3年生の頃からは、平日はほぼ毎日午前3時15分に目覚ましをつけて準備をし、4時には仕事に行くようになり、朝は私が起きる頃には父はいない状況になりました。

 私は高校で部活をしていたので、朝は時々、父に送って貰っていたのですが、毎日4時に出勤するようになってからは、朝の送りも無くなりました。帰りは18時30分頃に部活が終わる為、最初の頃はその時間にお迎えに来てくれていたのですが、早朝出勤になってからは帰りも遅くなり、18時30分に終わる部活の迎えに間に合わず、近くのスーパーで1時間、時間を潰して待っていたことや、友達の親に送って貰う事が増え、父をとても心配していたのを覚えています。ですが、父は余り仕事の話をしない人だったので、私も何も言わずにそっと見ていただけでした。

 部活から一緒に帰宅すると、平日は私が食事担当なので、準備している間、父はテレビを観ながらソファですぐに寝てしまい、食事ができる頃に起こして一緒に食べました。食事の時間が唯一のコミュニケーションの場で、時には学校での出来事を相談したりしていました。
 食事が終わると、父は、またソファで鼾をかきながらすぐに寝てしまい、私はよく「そんな所で寝ると風邪ひくよ」と言っていたのですが、何度言っても、父は「朝が早いからここじゃないと起きられないんだ」と毎日寝室のベッドではなく、リビングのソファで寝るようになりました。
 今思うと、仕事のことは何も語らない父でしたが、身体は毎日限界で、相当しんどかったのだと思います。

 私たち家族はとても仲が良かったので、父が連休の時や兄の休みが被った時は家族みんなで集まり、食事に行ったり、お出かけをしたりと、家族の時間も大切にしていました。
 10月6日・金曜日、父が亡くなる20日前もいつものように家族揃って食事をしました。その時は、父が亡くなるなんて、ほんの少しも思いませんでしたから、いつも通りの見送りをして「次の連休にね」と手を振ったのが、父の姿を見た最後でした。

 父が亡くなった日、授業中の私に初めて母から電話がかかってきたので、何かあったのだと思い、LINEを打とうとしたら、父が心肺停止というLINEが来ました。その時は頭が真っ白になり、急に動悸が始まり、パニックの状態でした。しかしその時は、まだ父が亡くなっているという理解までは出来ず、心の何処かで、今頃は蘇生されて息を吹き返しているだろうと思っていました。急遽家に戻り、後から帰ってきた母に、亡くなったという事実を聞いて、私は崩れ落ちました。
 この間まであんなに元気だった父が信じられないと、何度も何度も嘘だと思い続けました。ですが、夕方、父が運ばれた病院に到着し、父の苦しそうな顔を見た時に初めて、これが現実なんだと胸が突き刺される思いでした。今でも、あの時の状況を思い出すだけで、涙が止まりません。そして、この苦しみは一生消えません。

 父が亡くなってから、父の友人や仕事先の方から、父について沢山の話を伺い、家族でも初めて知る父の姿ばかり聞く機会が沢山ありました。父は口下手で、直接褒められた事は数えられるくらいしかなかったのですが、仕事先の方に陰で家族を褒めていたり、困っている人を助けたりと、本当に人間の鏡のような父であると改めて気付かされました。
 そんな仕事熱心で、思い遣りのある父が、なぜ突然、死ななければならなかったのでしょうか?

 父が亡くなって1年7ヶ月、私は幼少期からの夢だった看護師になりました。父もずっと応援してくれていました。看護師になったら、沢山親孝行をしていこうと決めていました。
 それなのに、直接報告する事も出来ず、これから先、父との思いでも作れずにお別れになってしまった事は、悔やんでも悔やんでも悔やみ切れません。
 ナース服を着た姿を見せたかった。
 結婚式のバージンロードを手を引いて貰い歩きたかった。
 孫を抱いて貰いたかった。
 1ヶ月後の前撮りの成人式の晴姿さえ、見せて上げる事ができなかった。
 もっともっと思い出を作れる筈だったのに。
 蘇生も十分に行って貰えず、過労死という形で命を落とした父の死を、無駄にしたくはありません。そして、こんなに悲しい思いをする家族が、これ以上、出て欲しくありません。

 どうか、今現在も、父と同じような大変なお仕事をされている多くの方々を、過労死や事故死から守って下さい。そして大好きな父が何故死ななければならなかったのか? 未だに解明されていない真実を、裁判で明らかにして下さい。

 最後になりますが、裁判を始めるに当たり、意見陳述の場を与えて下さった裁判所に対して、感謝申し上げます。

====ご息女の陳述、ここまで====

 お二人が意見陳述する間、態度が悪かったのが、東電の代理人でした。
 机に両肘をついてスマホを弄り、目の前で意見陳述している息子さんや娘さん(泣いていました)を見ようともしません。
「いわきオール」や「宇徳」の代理人は、腹の中ではどう思っているのか分かりませんが、弁論の間は「紳士」でしたから、それだけに余計、東電の代理人の態度の悪さが際立ちました。


主な争点と、被告3社の反論

 第2回口頭弁論に先立つ5月19日(日)には、いわき市内の労働福祉会館で14時から「福島第一原発過労死責任を追及する会」の結成集会として、「遺族を支援し、ともに闘う大集会」が開催されたので、私は、こちらの集会にも参加しました(1週間に2回も、いわき市に行ったことに、自分でも驚いています。これまでは考えられなかったことです)。
 
 19日の結成集会でも、23日の報告集会でも、被告側の反論の中身が紹介されました。口頭で説明された内容・配布された資料等に基づいて、過労死訴訟の主な5つの争点について、原告側の主張と被告側の反論をまとめました。



 23日の集会では、労組の方から、本件訴訟を起こしたことによる、「良い効果」と思われる報告が有りました。
 最近、福島県内(県内全域なのか、一部地域なのかは不明。そこまで訊けませんでした)のハローワークに通達が出され、地元企業がハローワークにフクイチの求人を出す際には、「60歳以上は雇用しないこと」「フクイチの近隣に住んでいるか、近隣に寮が用意できること」という二つの条件が課されたとのことです。
 これは恐らく、「フクイチへの往復が労働と見做された」という忠昭さんの労災認定や、ご遺族が訴訟を起こしたことによる効果だと思われます。まだまだ十分とは言えませんが、官庁の規制が少しでも「人を守る」方向に動くのは良いことです。こういった成果の積み重ねが大切です。そういう意味では、ご遺族の声が官庁を動かしたとも言えます。

 報告集会は、関係者を除くと約20~30人の参加でした。全員一言ずつ発言する時間もあり、東電への意見、甲状腺癌や環境中の放射線の影響等、過労死訴訟に限らず、様々な課題についての発言がありました。金曜行動のスピーチとはだいぶ違って、実感と痛みが、より深く感じられる発言が多かったです。
 金曜行動も、頑張ったところで首都圏の活動です。物理的に離れていると、どうしても現地の感覚とは異なり、温度差も出てくるでしょう。この差を埋めたり、自分自身がこのような温度差に「悪い意味で慣れないようにする」のも課題だと思います。


片山夏子記者と名刺交換

 フクイチ過労死訴訟・第2回口頭弁論のことは、殆ど報道されませんでした(私は、報道されるかどうかに関係なく、自分で調べることにしていますが、ここでは、その件には踏み込みません)。
 その中でも相対的に頑張っていたのが東京新聞です。6月2日付特報面に片山夏子記者の記事が掲載されていました。

「福島第一原発過労死責任を追及する会(準備会)」のブログに記事の写真がアップされていたので、リンクを貼っておきます。

(リンク)​東京新聞、「東電『知らぬ存ぜぬ』」

 23日は、片山夏子記者も取材に来ておられて、この日、初めてお会いしました。
 23日、私はいわき駅から地裁支部まで、ご遺族のお一人に車で送って貰ったのですが、その車に片山記者も同乗しておられました。「片山です」と笑顔で挨拶され、名刺交換しました。片山記者とお会いするとは、いわき駅に着くまで全く知らなかったので、サプライズでした。

 片山記者は報告集会まで参加し、忠昭さんの息子さん・娘さんにも話を聞き、熱心に取材しておられました。

 車中で、「出来るだけ大きな記事にしたい」旨を仰っておられたので、私も24日以降の東京新聞はネットで確認していました。結果的に、6月2日に掲載されました。

 とは言え、私は東京新聞の記事は、フクイチの労働人数や環境が把握できるものだとは思っていません。載せたことは意義があるとは思いますが、東電が公表・認めているだけで、死者20人・負傷約200人という情報も分かりません。これは、片山記者の責任というよりは、紙面が足りないことと、問題が大きすぎることの二つが、大きな要因でしょう。
 私もブログで、グラフやポンチ絵を使って、出来るだけ簡略化して説明するようにしていますが、これは個人のブログだから出来ることで、新聞では無理でしょう。もっと噛み砕く必要が有り、記事が長くなって、紙面が足りなくなると思います。


送迎して下さった皆様に感謝

 5月19日・23日と、1週間に2度もいわき市に行き、忠昭さんのご遺族には、こちらが遠慮するくらい温かく迎えられました。
 19日には、いわき市にお住いの別の方と、汚染水に関して意見交換する機会もあり、現地に出向く必要性を改めて感じました。

 いわき駅から徒歩10分強であるにも関わらず、労働福祉会館や地裁まで送迎して下さった皆様に感謝いたします。結局、2日間合わせて、3人に送迎して頂きました。

 特に、23日に帰る際には、報告集会の後で、立ち話が続く慌ただしい中、いわき駅まで送って頂きました。私が「歩いていきますから」と言っても、「送らせて下さい」と熱心に勧められました。
 別れ際に、いわき駅に通じるデッキから車に手を振ると、送って下さったご遺族も車の中から手を振り返して下さいました。
 3月に湯本駅から帰った時と同じで、あってはならない不幸が縁で知り合った後にも関わらず、とても温かい気持ちで列車に乗りました。
 本当に温かい人達です。
 それだけに、報告集会で頬に涙の跡を浮かべていた娘さん、東京から、この為だけに戻ってきたであろう息子さんの顔が、脳裏にチラつきました。
 どこをどう考えても、東電や元請・下請けの態度は許せません。広い意味では、そのような態度を許している法律や政治も同レベルです。

 19・23日とも、フクイチで働いていた方達とお話しできました。ネットで調べてばかりいると、実感や感情が伴わない、ただの「情報・数字」となることを実感した一週間でした。

 改めて、5月19日・23日にご挨拶させて頂いた皆様、お世話になった皆様に深く感謝いたします。

 19日と23日の写真です。

 ↓ 19日の結成集会会場に用意されていたフクイチのジオラマ。



↓ 北側部分のジオラマ。建設中の固体廃棄物関連設備も分かり易い。



↓ 23日のいわき駅構内



↓ 23日の報告集会の会場案内


↓ 報告集会で掲げられたメッセージ。



​春橋哲史(ツイッターアカウント:haruhasiSF)​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​





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Last updated  2021.09.23 17:40:49
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