自分ってどこにあるのだろう。
突然ですが、be動詞の主語、I am だったら、この I はどこに、どういう状態で存在しているんだろう?深く考えていくと、「私」はどこにも存在していないということに気づきます。同様に、「私」が何かを願望します。引き寄せの法則で、それがどこからか現れてきます。(ということにしておきましょう。)どこから来るのでしょう?量子物理学のコペンハーゲン解釈のようい、人間が意識した途端に、位置や在り様が決定されるのだろうか?それとも、エヴァレットの様に、多世界解釈で考えればいいのだろうか?ただ、ともかく、多世界解釈の問題点は、「現に、今、この世界であること」を説明できない、ということです。さらには、なぜ、僕はこの僕だったのか、が説明できない、ということです。つまり、多世界解釈はとってもロマンのある考え方だけれども、役に立たないのです。唯一、「梵我一如」 いわゆる「私」が「神」であるなら、私の願いとは、宇宙全体の願いであるわけです。その神の願いを受け入れれば、叶わない願いはありえないはずです。要は、どうやって、神の御心を自分の願いと一致させるか、ということがポイントということです。アホなことを書いてしまいました。