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NOと言える三多摩~言泉「やまと」後悔日誌

NOと言える三多摩~言泉「やまと」後悔日誌

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言泉「やまと」

言泉「やまと」

2007.02.23
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カテゴリ:読書
今日は風が強いせいか、鼻がムズムズする上に、目も痒い。
昨日髪を切って髪が目にかからなくなったことも、その一因であるかもしれない。

さて、今日のお題は読書である。
このところ何かと忙しくて、非常にゆっくりとしたペースで読み進めていたが、黒川伊保子氏の『日本語はなぜ美しいのか』(集英社新書)をようやく読破した。

本書のタイトルを最初に見たとき、私は生理的なレベルで不快感を覚えてしまった。
日本語(あるいは、ある言語)が美しいと感じるかどうかは、人それぞれのはずである。にもかかわらず、「なぜ美しいのか」と、日本語の美しさがア・プリオリに前提条件となっているのは、一体どういうことであろうか。国粋主義もしくは原理主義的な、危険な香りを感じたのである。
それゆえに、一度目の遭遇では、本書のタイトルを一瞥しただけで買わなかった。が、二度目に遭遇したときは、孫子の「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」という言葉を思い出し、敵がどのような理論武装をしているかについて知っておくことは悪くなかろう・・・と考えて、手に取った次第であった。

第1章 母語と母国語
第2章 日本語の危機
第3章 母語形成と母語喪失
第4章 脳とことば
第5章 母語と世界観
第6章 ことばの本質とは何か
第7章 ことばの美しさとは何か
第8章 ことばと意識
結び 日本語への祈り

読み終わってみると、それなりに悪くない内容も書いてあることが分かった。
しかし、基本的な部分で疑義があり、読む際には注意が必要であるとも思った。

まずは好意的な解釈から始めよう。
本書の最大の狙いは、「早期英語教育の危険性」を説くことにあるらしい。であれば、『早期英語教育はなぜ危険なのか』というタイトルに改めるべきではなかろうか。
まあ、タイトルの当否はさておくとしても、では、なぜ危険なのであろうか。著者はいくつかの理由を展開しているが、とりあえず私が読み取ったエッセンスを手短に並べてみよう。

* 仮に人類が「声」を持っていないとしたら、何かの事物を示す際には、その事物の本性を模倣するような動きを、手や頭やその他の身体の部分を使って表現するはずである。同様に、「声」を使う場合でも、その事物の本性を模倣するような口の動きで表現するはずである。つまり、「ことば(事物の名前)」は、音声による「事物の模造品」なのである。
* 「風土」と「人々の意識」と「ことば」は密接に関連している。「風土」から切り離された「ことば」(つまり、外国語)を使えば、「人々の意識」も「風土」から切り離されてしまい、その土地に根ざしたあらゆるものを壊してしまう。
* 日本語やポリネシア語は母音主体で音声を認識する言語である。これは世界的には少数派で、他の欧米やアジアでは子音主体で音声を認識する言語が圧倒的に多い。
* 母音主体の言語を使う人々は、母音(および音響波形の似ている自然音)を言語脳=左脳で処理する。一方、子音主体の言語を使う人々は、母音(や自然音)を非言語脳=右脳で処理する。
* 母音主体の言語を使う人々は、無意識のうちに他者(自己以外の存在=自然などを含む)と融合しやすいため、曖昧な会話を好む。他方、子音主体の言語を使う人々は、自己と他者の境界線を意識しやすいため、明確な表現を好む。
* 自己と他者の違いを前提とする後者の言語文化では合議制(民主主義)が発達するが、前者の言語文化で合議制を導入すると、融合できない異質な存在を排除する傾向が強まる(その端的な例としては「いじめ」の横行)。
* 何かを感じたり考えたりする上で、言語が果たす役割は非常に大きい。したがって、脳が発育途上にある子供の言語獲得に関しては慎重に対応すべきである。「風土」と全く異なる「ことば」を覚えさせたり、あるいは複数の言語を同時に覚えさせたりするのは、やむを得ない事情がない限り、言語獲得の臨界期である8歳(または、子供の脳が大人の脳に変容する12歳)に達するまで差し控えるべきである。

人工知能の開発に携わる中で「脳」と「ことば」の関連を研究してきた著者ならではの発想であり、内容自体は(上記のエッセンスだけでは読者諸氏に伝わらないかもしれないが)そんなに破綻していないように思われた。

しかしながら、本書の問題点を指摘するとすれば、本書で言うところの「ことば」が「音声」に偏りすぎていて、「語彙」「(形態・統語などの)文法」「文字・表記」などをほとんど考慮していない点が挙げられる。個人の言語獲得および人格形成(ひいては社会の文化形成)の問題を「音声」の面だけで論じきることは、果たして可能なのであろうか。
日本語の成立過程には諸説あるものの、私自身のイメージとしては、まず最初にマライ・ポリネシア方面から人々の移動とともに「音声」と「語彙」が定着し、その後アジア大陸からアルタイ語系の騎馬民族(弥生人?)が支配階層としてやって来た際に新たな「語彙」と「文法」が追加され、さらには中国大陸や朝鮮半島から来た渡来人によって別の「語彙」と「文字(漢字)」がもたらされ、やがては独自の「文字(カタカナ・ひらがな)」を生み出していく・・・といった流れがあるような気がしている。
こうした日本語の成立過程を考えたとき、「音声」だけに着目してしまうと、日本語の多様な側面をゆがめてしまう可能性がある。

また、古くからある「和語」に加えて、呉音・漢音・唐音・宋音といった「漢語」や、室町時代以後に欧米諸国との交流から生まれた「外来語」などを、どう考えるべきであろうか。これらの「ことば」と「風土」の結びつきについても、今ひとつよく分からない。そのあたりの説明が弱いように感じた。

その点こそが、『日本語はなぜ美しいのか』と大仰なタイトルを掲げるのではなく、『早期英語教育はなぜ危険なのか』という題名に改めるべきである・・・という、私の主張の根拠でもある。発達心理学や認知言語学の立場から論点を整理すれば、もう少し読みやすい書物になったかもしれない。





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Last updated  2007.11.21 17:16:02



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