JINさんの陽蜂農遠日記
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『JINさんの陽蜂農遠日記』にアクセスありがとう ございます。 このブログは、 陽:太陽光発電、 蜂:趣味の養蜂、 農:菜園、花、スロー&アクティブシニアライフ、 遠:旅行、 を中心とした備忘録を兼ねたブログ(雑記帳)です。 書き込んでいただける方は、写真下の『コメントを書く』から 気楽に、ご感想、ご意見ご質問等を書き込んでいただきたく。
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天安門を抜け、端門に向かう。 潜ってきた天安門を振り返る。 故宮は南北の長さ961m、東西の幅753m、面積は約725000m2。周囲は幅52m の堀が囲む。 城壁の高さ12m、底厚10m、頂厚は6m から7m。南に午門、東に東華門、西に西華門、 北に神武門がある。「紫禁城」は中国の天文学に従い、北極星(天帝)を皇帝に擬え、 地上に「紫微垣」を再現し、世界の中心を地上に再現した領域であり、天帝に代って 地上を治める皇帝の住む宮殿として建設された。そのため「天子は南面す」の言葉通り、 北に皇帝の宮殿が置かれている。 紫禁城の由来は、天帝(創造主)が住んでいる星とされる北極星を紫微星、北極星の周辺を 回る星座の辺りを紫微垣と呼んだのに由来する「紫宮」、及び「天帝の命を受けて世界秩序の 維持に責任を持つ皇帝(天子)」の住居たる「禁城(庶民などが自由に入るのを禁止された城)」の 二語を合わせ、紫禁城と呼んだことに由来するのだと。 天安門を通り抜けた後、端門、午門という2つの門を超えないと、城内には入れないのであった。 まずは端門。故宮博物院の文字が。 端門を潜る。 端門と午門の間の広場に出る。 広場の右側。 遠くの正面に午門が。 なにしろ広いのであった。 故宮博物院 平面図。 詳細は「地球の歩き方」から転載。 巨大な午門。 チケット売り場に向かう。 中央の門と、東西(左右)に張り出した部分とに、合計5つの楼が聳える。 「五鳳樓(楼)」(ごほうろう Wŭ fèng lóu)という俗称もあるという。 堂々たる「紫禁城」正面玄関。 右手に労働人民文化宮。 この午門の名称は、紫禁城からして午(うま)の方角、つまり南の方角にある事から名付けられた。 この門の特徴は、コの字型に両翼がせり出した独特の形をしていること。 また、この午門に囲まれた広場では、官吏が午前4時に皇帝を遥拝することになっていた。 百叩きの刑などの刑の執行も行われた。 ちなみに、映画「ラストエンペラー」で生母の死を知った溥儀が外に出ようとして 陳凱歌の演じる門番に止められたり、溥儀に紫禁城から追放された宦官達が居たのもこの場所。 「午門」と書かれた扁額。 端門方面を振り返る。 添乗員からチケットをもらい午門を潜る。 「午門」正面中央に穿たれた通路。通行人の大きさと比較すると、 穿たれた通路の天井の高さ、壁の高さがよく分かる。 無料で歩けるのはここまでで、これが今日の「(北京)故宮博物院」の入口。 午門を潜ると正面中央に見えたのが太和門。左が貞度門、右が昭徳門。 内金水橋に向かって進む。 内金水橋を渡る。 午門と太和門の間には金水河という人造の川が流れていた。 そこの架かるのが内金水橋。橋は5本あり中央は皇帝専用。 外朝の入口である太和門(たいわもん)。 皇帝の控えのまである保和殿までのスペースが外朝。 大和殿で式典が行なわれる際、下級の官吏はこの門の外で皇帝に拝礼したと。 門の前には三つの階段が設けられていた。 午門を振り返る。 一対の精巧な「銅獅(銅の獅子)」が置かれていた。 玉を持っている獅子は皇帝を表し、子獅子を抑えているのは皇后を表していると 添乗員の尹さんから。 美しい装飾。 太和門天井の装飾。金と翠色の緻密なデザイン。 ズームで。 玉座と「正大光明」と書かれた額。 太和門と書かれた扁額。 太和門から内金水橋、午門を望む。重厚さに圧倒される。
遠く北京一の繁華街・王府井の時計台が見えた。 太和殿 全景。 故宮の正殿。歴代皇帝の即位式や万寿節(皇帝の誕生日)、結婚、季節ごとの大きな式典、 出征、そして皇帝の葬儀など宮廷の重要な式典を行った最も権威ある場所。 式典が行われた時は、太和殿前の広場に官吏たちがずらりと並び、全員で三跪九叩頭の礼を 行った。まさにラストエンペラーの世界。 「紫禁城」の南北中心線に沿って並べられた巨石は、皇帝専用の「御路」(Yù lù)。 といっても皇帝は「御路」を歩くことはまず無く、専ら輿に担がれてその上を運ばれたようだ。 広場左の手前から広義閣、右翼門、中翼門。 右側には手前から体仁閣、左翼閣、中左門。 左右の認識が明らかに現代の社会通念とは逆。 天子は南面して統治するという伝統に従って中軸線上に南向きに置かれる 皇帝の玉座を中心とした左右であると。 よって東(左)の文華殿>西(右)の武英殿、つまり武より文を上位としているのだと。 同様に体仁閣の仁>広義閣の義であると。 太和門を振り返る。 体仁閣。 太和殿の「丹陛」(たんぺい dān bì)。 中央の雲間を竜が泳ぐ姿が彫られている石板は、 「雲龍階石」(うんりゅうかいせき yún lóng jiē shí)。 太和殿の屋根の両側にあるしゃちほこ??の様なもの。 中国ではよく架空の動物が使われることが多く、この瓦も想像上の生き物であろうか。
同じく太和殿屋根の十三拼(じゅうさんほう Shí sān pīn)。 「紫禁城」中最も格式高い建物だけあって、屋根にずらりと並ぶ怪獣類の数も最多。 屋根の頂部先端(上の写真)にいるものも含め合計13体、「鬼龍子」(きりゅうし Guĭ lóng zĭ) という呼称もあるようだ。 先端から、「騎鳳仙人」(きほうせんにん )。 「龍」「鳳」「獅子」「天馬」「海馬」「狻猊」(さんげい)「押魚」(おうぎょ) 「獬豸」(かいち)「斗牛」(とぎゅう)「行什」(こうじゅう)。 最後の大きいものは、「鴟吻」(しふん) であると。 「太和殿」と書かれた扁額。 「太和殿」内の玉座「寶(宝)座」(Băo zuò)。 宝座上部には乾隆帝宸筆の「建極綏猷」が掲げられていた。 天と民の間に立って、中立な統治を民の為にと。 天井中央には天帝の使いの竜が、銀色の大きな球「軒轅鏡(けんえんきょう Xuān yuán jìng)」を くわえているのだと。 「寶座」が「軒轅鏡」の真下にないのは、淸朝を裏切り、孫文派をも欺いて「皇帝」を称した 袁世凱が、ここでの即位の大典を前に「軒轅鏡」に撃ち殺されるのを恐れて玉座の位置を ずらしたためと。真実は如何に? 古代の日時計とのこと。 「亀の像」、「鶴の像」なども置かれていた。 紫禁城内に合計308個も設置されている大きな金属製のツボは、万一の火災や、 敵が攻めて来た場合の防衛目的として真冬でも常に水が張られており、 水瓶下部の台座部分に火を付けておけるかまどがある為、真冬でも凍らないように 常に水が確保できる状態になっていたとの事。 軒下の装飾も見事な中国一の木造建築物の太和殿。 建設中の「中国尊」が見えた。 「中国尊」は、竣工すれば北京で最も高い高さ528メートルの建物になると。 太和殿を過ぎると、少し小振りの中和殿が現れた。 太和殿に出御する皇帝の休憩所だったとのこと。 中和殿は太和殿の後ろ側に位置し、正方形で建築面積は58㎡、内部には3室あり、 周囲を廊下で囲まれていた。 屋根の上の宝珠が美しい。 「中和殿」と書かれた扁額。 中和殿の玉座。玉座の黄色(皇帝にのみ使用が許された)が美しかった。 保和殿。 保和殿は中和殿の後ろ側に位置し、明の永楽18年(1420)に建設され乾隆帝の代で 修復されていると。建築当時は僅身殿と呼ばれていましたが清代順治帝の時に 保和殿と改名された。清代には、皇帝は大晦日と元旦にここで貴族や大臣と宴会を 催したと。また、科挙の殿試が行われた場所でもあるのだと。 保和殿の寳座。 「極有建皇」の額は、清朝の黄金期に君臨した乾隆帝の宸筆。 ちなみに清朝というとアヘン戦争や日清戦争などでの敗戦国というイメージが強いが、 康熙帝、雍正帝、乾隆帝が統治した1654~1796年(日本では江戸時代)までの中国は、 世界最大の国民総生産を誇る、世界最高の文明国であったと。 保和殿の基壇にて一休み。 保和殿の基壇から内廷への正門となる乾清門が見えた。 乾清宮は皇帝の居住空間で、日常の政務も行っていた。 外国の使節との接見や親族との宴会などもここで行われていたと。 清代以降は皇帝の死後、墓陵に入るまで棺を安置する場所でもあったと。 保和殿と乾清門の間の広場。 左に隆宗門(りゅうそうもん)、中央に軍機処(ぐんきしょ)。 大石雕。 保和殿の北側にある一枚岩の故宮内では最大級のレリーフ。 北京西郊外50キロメートルの房山から切り出され、冬に水をまき凍結させた路面を 2万人以上の人手により、28日間かけて運んだとのこと。 こちらにも。 保和殿前の銅罐。 ・・・つづく・・・