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JINさんの陽蜂農遠日記

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2023.12.29
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カテゴリ:JINさんの農園
「本立寺」を後にして、道路の反対側にある「明治市民センター」に向かう。



「明治市民センター」前の黄葉。



「明治市民センター(明治公民館)」2階に、地域のボランティアである明治郷土史料室
運営委員会により運営されている「明治郷土史料室」があった。
東海道筋の歴史や耕餘塾など、藤沢市明治地区の歴史・文化史料を展示していた。
明治地区には、藤沢市の教育施設の先駆けとなる耕餘塾という私塾があり、教育者小笠原東陽らが
指導に当たった。後年総理大臣となる吉田茂をはじめとし、多くの政治家・実業家・教育者・社会
活動家を輩出し、日本の発展に大きく貢献した。
ここ明治郷土史料室にて、旧三觜八郎右衛門家住宅耕餘塾の貴重な資料を見ることが
できたのであった。



資料館の入口にあった灯籠。
その下にあったのが
「「わがまちの文化財」~仏像と石造物を中心に~展」案内書。



「「わがまちの文化財」~仏像と石造物を中心に~展

私たちが暮らしている明治地区に残されている仏像や石造物について近年明治地区においては
大規模マンション建設や宅地化が進み、石造物の移動や逸散(散逸)が危惧されることから
2019 年に明治地区の辻堂神台・城南・羽鳥と大庭及び稲荷地区の一部にわたり、その現況を
再調査し、石造物と地域住民とのつながりや歴史的意義について後世に伝えることを目的に実施し
「明治地区石造物調査報告書」としてまとめました。
石造物の多くは、江戸時代の庶民信仰の対象として造立され、露座で数百年の風雪に耐え先人の
祈りを伝えてくれています。 明治地区には、まだ多くの石造物が残されており、現在では主に
神社や寺院の境内に移設され、大切に保存されています。しかしながら年月の経過に伴い、
失われていくものも多くあります。
今回、石造物調査報告書より主なものを取り上げ、表題「わがまちの文化財~仏像と石造物を
中心に~」として企画展示しました。
●展示期間:2023年9月5日(火曜日)~2023年11月30日(木曜日)
●時 間:午前10時~午後3時
●休館日:日曜日、月曜日



「わがまちの文化財~仏像と石造物」展




明治郷土資料室」。



明治郷土史料室の主旨
わが住む町明治地区は、歴史に裏付けられた古くから有形無形の文化が育まれてきました。特に
明治初期に羽鳥に在った耕餘塾は、戦後日本の再建に多大の貢献をした名宰相吉田茂をはじめ
多くの政治家・実業家・教育者・社会運動家等を輩出し、日本の近代的発展のために多大なる
貢献をしました。
これら耕餘塾を中心とする私たちの誇れる郷土の文化・歴史遺産を風化させることなく後世に
残し、日本の教育・社会の発展のための一助となることを多くの住民が強く望んでまいりました。
明治地区に残る文化・歴史資料を発掘し、展示することで、この明治地区の
文化・歴史を一人でも多くの方々に知っていただきたいと思います。
ここに明治市民センターの改築に合わせ明治郷土史料室としてスタートいたしました。

           平成19年3月28日
              明治郷土史料室運営委員会」



入口近くにあったのが「耕餘塾」の模型



正面から。



耕餘塾 制作者:磯谷二郎氏」。



そして「旧三觜八郎右衛門家住宅」の模型。
「旧三觜八郎右衛門家住宅」は、明治11年(1878年)に13代八郎右衛門が建てたもの。
良材をふんだんに用いた質の高い造作で、2階座敷をもつ民家として極めて早期の例であること、
洋風意匠を加味した商家風の家構えからは旧東海道沿いの富裕な地域性も反映されている点等が
評価され、平成25年(2013年)に国登録有形文化財に登録された。



廻り込んで。



位置を変えて。



旧三觜八郎右衛門家住宅1階平面図



旧三觜八郎右衛門家住宅2階平面図



2022年に取り壊しされた羽鳥の国登録有形文化財「旧三觜八郎右衛門家住宅」を忠実に再現した
50分の1の模型が2021年11月17日、明治市民センターに寄贈された。
寄贈したのは大和市の五十鈴中央(株)(本郷正信社長)。本業の自動車や家電の鉄板を扱う
三次元測定技術を生かし、3Dデータ化。それを基に保存・活用してもらおうと模型を作った。
寄贈式には鈴木恒夫市長明治郷土資料室運営委員長の三觜清次さんら関係者が出席。本郷社長は
「郷土愛あふれる藤沢に向け、子どもたちの興味、関心を持つきっかけになれば」とコメント。
鈴木市長は「素晴らしいプレゼントをいただいた」などと感謝を述べた と。



2014年1月15日(水) ~ 3月30日(日)の展示期間で開催された
「旧三觜八郎右衛門家住宅展」案内書
国登録有形文化財(建造物)指定記念
旧三觜八郎右衛門家住宅展
今回の展示の趣旨
明治初期に建築された「旧三觜八郎右衛門家住宅(主屋・門・石塀)」が、国国登録有形文化財
(建造物)として、平成26年1月に認定証が授与されることとなりました.
今回、有形文化財認定を記念し建造物を中心に紹介する特別企画展示を開催します。
建物を活かし、文化を生かす。
わが国には、建造物や絵画・彫刻・考古資料なと、歴史的な価値をもつ有形物のうら、歴史・
芸術上、学術上価値の高いものを保護する制度があります。国のほか、各都道府県や市町村も、
それぞれの条例によって文化財指定の制度を定めています。指定文化財は、後世までそのままの
姿で長く継承する事を目的にしています。指定文化財を補い、もっと幅広く多様な建造物を
保護する仕組みとして、国の制度として「登録有形文化財」があります。国に登録して、それを
公開することによって社会全体で保護することになります。
この度、旧三觜ハ郎石衛門家住宅が、薬医門と石塀と共に「登録有形文化財」に登録されました。

明治郷土史料室とは・・・
私たちが住むこの明治地区には、歴史に裏づけされた古くからの有形無形の文化が育まれて
きました。特に明治期に羽鳥の地にあった耕館塾は、名宰相吉田茂をはじめとする多くの政治家・
実業家・教育者・社会活動家などを輩出し、日本の近代的発展のために多大なる貢献をしましに。
郷土資料室は、これら耕餘塾を中心とする私たちの誇れる郷土の文化・歴史遺産を風化させること
なく後世に残し、教育・社会の発展の一助にとの思いで設置されました。明治地区に残る文化・
歴史史料を発掘し、展示をすることで一人でも多くの方に知っていただきたいと思います。
                              明治郷土史料室運営委員会
門 ー薬医門、その他の門いろいろー
三觜家の正門は、格式の高い「薬医門」です。
昔は、公家や武家屋敷の正門などとして用いられました。扉をなくして医者の門として
用いられたのでこの名前が付きました。また矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」から来た
とも言われています。
この薬医門は、この近隣でも寺院や元名主だった家などに残っています。
特徴ある門の種類​👈リンク

三觜家について
「藤沢郷土史」(加藤徳右衛門著)の中で三觜家の事に触れている。当家の三代目三觜出◯は原野を
開拓し羽鳥郷を開拓し、三觜家の地位を固めました。十代目の三觜大助という人も優れを人物で
三觜本家が「大三觜」と呼ばれるのは、この人に由来するとのことです。江戸時代になって
名主制度ができ、三觜家は名主役を明治4年(1871)まで勤めました。
13代八郎右衛門(佐次郎) 10代目の大助に劣らず人格に優れ、温厚寡黙な人で、勤めて産業の
興隆に意を注ぎました。引地脇の山上の原野に広大な茶畑を作って製茶業を興し、相模小麦の
特徴を利用して醤油醸造を開始しました。
近代の三觜八郎右衛門家が地域に貢献したした最も大きな事業は、教育活動と言えるでしよう。
13代八郎右衛門(佐次郎) は地域の風習が荒んでいることに心を痛め、当時池上本門寺で漢学を
教えていた小笠原東陽先生を招聘して、郷学校(幕末から明治初年にかけて民間の有志が設立した
学校で廃寺の徳昌院を利用したもの。東陽は読書院と命名)を設立しました。その後、東場は
学制の発布によって名称を耕余学舎に変更しますが、明治10年三觜家等の助力で公立の小学校
(藤沢市立明治小学校の前身)と別に私立「耕餘塾」を新築しました。塾の名称は東陽没後
耕餘英和学校、耕餘義塾と変わり明治33年閉校するまで政治家や実業家、教育者など近隣地域の
リーダーとなる数多くの人材を輩出しました。
三觜八郎右衛門(佐次郎)は、子息舜太郎を同校に学はせただけでなく、経済的援助を惜しみ
ませんでした。同塾の寄宿舎は、同家の家屋の一部を提供したもので、同家の徳を慕って多くの
卒業生が卒業後も訪れています。元内閣総理大臣吉日茂も同塾卒業生で、若き日に三觜
ハ郎石衛門(佐次郎)へ宛てた書状に「錦地(耕余塾のあつに羽の地)は小生の第ニの故郷」と記して
います。
同家1 4代となる舜太郎(1867 ~ 1953 )は明治40年に合併した藤沢町で町会議員(大正3年から
1期4年)、同町学務委員(大正8年から1期4年)を務めていますが、地方財界に進出し、地域開発も
手がけるなど地域の発展のために尽くしました。明治後期の藤沢では、全国の地方商業都市と
同じく地方銀行が設立されますが、舜太郎は藤沢に本拠を置いた「関東銀行」に出資して取締役
(重役)になり、またJ R相模線の前身である相模鉄道(大正6年設立)では、取締役から2代社長
(大正12年~ 14年)を務めています。地域開発では羽鳥山に「別荘的住宅」羽鳥山住宅を開き、
昭和初年に分譲を開始しています。
明治早期に13代ハ郎石衛門(佐次郎)によって建てられた三觜家住宅は、現在三觜舜太郎の孫娘で
ある◯◯京子氏が所有され、三觜家の名代として継続して守ってきています。」


「登録有形文化財
第14ー0182ー0184号
この建造物は貴重な国民的財産です
文化庁」



わがまちの文化財~仏像と石造物を中心に~展」。



わがまちの文化財~仏像と石造物を中心に~展
趣旨

私たちが暮らしている明治地区に残されている仏像や石造物について近年明治地区においては
大規模マンション建設や宅地化が進み、石造物の移動や逸散が危惧されることから2019年に
明治地区の辻堂神台・城南・羽鳥と大庭及び稲荷地区の一部にわたり、その現況を再調査し、
石造物と地域住民とのつながりや歴史的意義について後世に伝えることを目的に実施し
「明治地区石造物調査報告書(明治地区郷土づくり推進会議歴史文化部会)」としてまとめました。
石造物の多くは、江戸時代の庶民信仰の対象として造立され、露座で数百年の風雪に耐え先人の
祈りを伝えてくれています。
明治地区には、まだ多くの石造物が残されており、現在では主に神社や寺院の境内に移設され、
大切に保存されています.しかしながら年月の経過こ伴い、失われていくものも多くあります。
今回、石造物調査報告書より主なものを取り上げ、表題「わがまちの文化財~仏像と石造物を
中心に~」として企画展示しました。」

「藤沢市明治地区の石造物
   鶴見大学文学部文化財学科 教授 緒方啓介
藤沢市の石造物ついては、昭和58年度から平成五年度までの10年問にわにり実施された
藤沢市文化財総合調査によって、ほぼ全市域の悉皆調査が終了しており、その成果は
『籘沢市文化財総合調査報告書(以下、『報告書』と省略する)第一集から第十集により出販
されている。
当時、藤沢市文化財保護委員長をされていたのが石造物の研究者であった故服部清道博士であった
ため、藤沢市では数多くの石造物や建造物や有形民族文化財として指定を受け、保護されている。
筆者は、当時神奈川県社会教育指導員として藤沢市教育委員会に嘱託職員として在籍し、文化財
総合調査の事務局兼調査員として仕事をしていた。
今回、明治地区郷土づくり推進会議が行った石造物調査は、明治地区の辻堂神台・城南・羽鳥と
大庭及び稲荷地域の一部にわたり、その現況を再調査し石造物と地域住民の生活とのつながりや
歴史的意義を周知して、後に伝えることを目的としている。明治地区の石造物については、すでに
平成元年刊の『報告書』第四集に所収されているが、すでに30年を経過している。この間の
明治地区では大規模マンションや宅地化が進み、石造物の移動や散逸が危惧される点からも、
今回の調査は意義のあるものといえる。
今回行われた石造物調査は、明治地区に残される石造物のごとく一部の確認調査にとどまって
いるが路傍で風雨にさらされる石造物は日々劣化している現状が確認された。また開発などで散逸
したり盗難にあう石仏も出てくる可能性も考えられる。これらを最小限に防ぐ対第にしては、日々
地域住民が先人の残した歴史遺産に敬意を払い、未来に守り伝えていく気持ちを忘れないように
することが大切である。」



1、石造物の種類
(1)石仏
*仏像塔
   釈迦・阿弥陀・薬師などの効果、観音・地蔵・弥勒などの菩薩、不動・愛染などの明王などの
 仏像に、無病息災や諸願成就などを祈って造立される。また近世においては、
 蓮弁型に各尊を浮彫りする像塔に戒名などを刻んで墓石とすることが流行する。さらに
 近世には地蔵菩薩への信仰が盛んとなり、街道筋や村の辻に旅人の道中安全を祈って
 地蔵菩薩像を造立したり、「縛られ地蔵」・「とげぬき地蔵」・「子育て地蔵」などの民問信仰
 も生まれた。また地域の伝承などから生まれた「岩船地蔵」や「舟地蔵」などもある。
 その形態は、仏像を丸彫り又は浮彫りにする像塔や尊名を刻む文字等がある。
*六地蔵
 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道を司る地蔵として六体の地蔵菩薩を表す六地蔵
 がある。墓地に造立される六地蔵は死者の追善や先祖供養を目的としたものが多く、路傍に
 造立されるものは村内に厄災が入り込をのを防ぐ目的が多いようである。その形態は、六体の
 丸彫像や浮彫像を横一列に並べるものが多いが、四面や六面の石柱に六地蔵を浮彫りする
 石型もある。
*弘法大師像・相模国準四国八十ハカ所霊場塔
 真言宗の開祖空海の石像は、真言系寺院で、宗祖として安置される。その形態は、右手に
 五鈷杵、左手に数珠をとる丸彫りの弘法大師像で、基壇に造立年や札所名などが記されている。



(2)基碑・墓石
 *五輪塔
 仏教の字宙を構成する「地・水・火・風・空」を表す石造卒塔婆で、平安時代後期から墓石や
 供養塔として各地で造立された。その形態は、下から基壇=地輪、塔身=水輪、笠=火輪、
 受花=風輪、宝珠=空輪の五石ならなる。また古形式のものは各輪に五大を表す梵字を
 刻むのみであったが、室町以降になると地輪に戒名や命日が刻まれるものも多くなる。
*宝篋印塔
 本来は「宝篋印陀羅尼経」を納めた塔であったが、次第に生前の逆修や死者の追善の
   ための供養塔として造立されるようになり、鎌倉時代にはすでに墓碑塔としての性格を備え
 ていた。その形態は、十世紀に呉越王銭弘俶がハ万四千基を造立した阿育王塔が原型と考え
 られる。下から基礎・反花・基壇・塔身・四隅に隅飾突起を備えた笠部・九輪・受花・宝珠
 を表す。
*板碑
 中世を通じて造立された板状の石造卒塔婆で、本来は供養塔の意味が強いものであるが、
 墓石として用いられた例もある。関東地方では群馬県や埼玉県を産地とする緑泥片岩が多く
 用いられる。その形態は、仏教宗派でまちまちで、浄上教系では念仏を刻んだ文字塔や阿弥陀
 三尊などを浮彫りした像塔、密教系では大日や阿弥陀如来などの種子を刻んだ文字塔、
 日蓮宗系では題目を刻んだ文字塔などである。
*無縫塔
 卵塔とも呼ばれる僧侶の墓石で、鎌倉時代に中国南宋から禅僧により請来された形式と
 いわれる。その形態は塔頂円形で、室町時代以降は長卵形の無縫塔が宗派を超えて流行した。



「辻堂神台」の石仏・石碑・石塔

・本立寺 阿弥陀如来像、開祖佛眼院日顕上人像、石像
・伊勢屋墓地 墓碑
・光明真言供養塔



「城南」、「羽鳥」地区。



「城南」の石仏・石碑・石塔

・一の鳥居(大山阿夫利神社)
・大山道標不動尊 大山道標

・二ツ谷稲荷神社 道祖神塔、庚申供養塔、石狗
・山崎家墓入口 地蔵菩薩



「城南」の石仏・石碑・石塔



「城南」の石仏・石碑・石塔(1/2)




「城南」の石仏・石碑・石塔(2/2)



石仏・石碑・石塔の写真。



「羽鳥」の石仏・石碑・石塔(1/2)



「羽鳥」の写真。



「羽鳥」の石仏・石碑・石塔(2/2)



その写真。



「大庭」の石仏・石碑・石塔



その写真。



石造物位置図




調査石造物一覧(1/2)。



近付いて。



調査石造物一覧(2/2)。








                              ・・・もどる・・・



                 ・・・つづく・・・







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Last updated  2023.12.29 09:45:29
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Re:「藤沢地名の会」明治地区(羽鳥・城南)の石造物と史跡を訪ねる(その2)(12/29)   (大阪)森内 さん
1週間程で過去のJin紀行読ませて頂きました(全てではないですが)
感想は「よう続くね」です。
来年も頑張ってください。
ところで藤沢市長はあの「つねさん」ですかね? (2023.12.31 16:51:43)


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