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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.05.15
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

高麗橋を渡り暫く歩くと右手にあった小さな堂は『秋葉山常夜燈』。
御堂には、青銅製の秋葉山常夜燈が安置されていた。



そしてその先直ぐ左手に『菊川の里』道標。
日坂宿まで一里・3.9km。



次の路地を左に曲がると鳥居と満開の桜が迎えてくれた。



『菊川神社』と石鳥居。



島田市菊川711にある『菊川神社』社殿。



従来、菊川地内に産土神として祀られてあった
①菊川 550 番地鎮座、村社宇佐八幡神社
②菊川 711 番地鎮座、村社若宮八幡神社
③佐夜鹿 217 番地鎮座、駒形神社
④菊川 1472 番地鎮座、津島神社
の 四社を合併して現在地に菊川神社を創立、昭和三十五年(1960)十一月十五日
宗教法人法による神社 を設立登記した。
御祭神は応神天皇・ 仁徳天皇・ 須佐之男・ 木俣大神 。



境内には『菊川稲荷神社』も。



満開の桜が青空に映えて。



東海道道標の先に建屋の壁全面に描かれた『昔をしのぶ 間の宿 菊川』案内絵図が。
「間の宿(あいのしゅく)は、日本の近世に当る江戸時代の主要街道上で発達した施設の一種。
宿泊は禁止されていた。宿場と宿場の間に興り、発展した休憩用の施設である(一部例外あり)。
宿場間の距離が長い、峠越え等の難路である等、旅人に多大な負担を強いる地勢があると、
係る地点には需要に応える形で便宜を図る施設が自然発生的に興るものであるが、その様にして
宿場と宿場の間に興り、発展した休憩用の施設が「間宿」である。
ただし、宿場としては非公認であって、公式には宿ではなく村若しくは町とされ、旅人の宿泊は
原則禁じられていたので旅籠(はたご)は存在しないし、駕籠や人足、伝馬を扱う問屋場も
なかったがあくまでも名目上・表向きの事であった。
間宿として異例であるが、東海道の金谷宿 - 日坂宿間にあるここ菊川宿の様に、徳川幕府による
宿駅整備以前から存在していたものが何らかの理由で指定から外され、間宿となった場合がある。
この場合もやはり、宿泊だけは許されなかったが、大井川の川留めなど諸事情により旅人の
宿泊施設が足りなくなった時等は、宿泊が公認された。
尚、間宿より小規模な施設を立場(たてば)と言い、所謂“峠の茶屋”等がそれである。
間の宿のなかには立場が発展したものもある。」



案内絵図の斜向かいに広場が。



『間の宿、菊川』。
「間の宿は、本宿と本宿の中間にあって、人足の休憩所や旅人の休憩に便宜をはかって
作られました。普通、2宿間の距離は3~4里に及ぶ時に間の宿を置きますが、
金谷宿と日坂宿の間のように1里24町でも、急所難所が続く場合は特別に間の宿 
「菊川」 が置かれました。
間の宿では、旅人の宿泊は厳禁されていました。川止めの場合でも、菊川では、金谷宿の
許可がないと旅人を泊めることは出来ませんでした。また間の宿では、尾頭付きの本格的な
料理を出すことも禁じられていました。
そこで生まれたのが菊川名物の 「菜飯田楽(なめしでんがく)。大井川の激流を渡り、
金谷坂を登りきった旅人には、ひなびた里の味でもさぞかしおいしかったことでしょう。
なお、下菊川おもだか屋・宇兵衛の茶屋の菜飯田楽は格別おいしかったと言われています。
この店には御殿と呼ばれた上段の間があり、尾州家からの下賜品があったそうです。」



広場の入口に昔を偲ぶ多くの石碑や案内板が設置されていた。



『菊川由来の石』。
説明板の足元にある石には、菊の文様らしきものが。



「その昔附近から菊花紋の石が数多く出土されました。その石は菊石と呼ばれて、
川の名前を菊川と名付け、地名も生まれました。
白菊姫の伝説による菊石は北之11km位の処にある佐夜鹿公民館の傍にあります。」



『宗行卿詩碑 日野俊基歌碑』
「源頼朝の死後、鎌倉幕府の力が弱まり公家と幕府の対立は表面化し、承久3年(1221)
後鳥羽上皇は幕府追討の院宣を出し軍事行動を起こした。京都方はあえなく敗れ計画に
加わった中御門中納言藤原宗行は捕えられ、鎌倉へ送られる途中の七月十日菊川の宿に
泊まり死期を覚って宿の柱に次の詩を書き残した。
「昔は南陽県の菊水 下流を汲みて齢を延ぶ 今は東海道の菊川 西岸に宿りて命を失う」
承久の変から約百年後の、正中の変で日野俊基は捕えられ鎌倉への護送の途次、菊川の宿で、
宗行の往事を追懐して一首の歌を詠んだ。
「いにしえも かゝるためしを 菊川のおなじ流れに 身をやしづめん」
間の宿菊川は史跡とロマンの里である。」



右の石碑(日野俊基歌)
『古も かゝるためしを 菊川の おなじ流れに 身をやしづめん』
左の石碑(宗行卿詩)
『昔南陽懸菊水 汲下流而延齢 今東街道菊河 宿西岸而失命』
(昔南陽県の菊水下流を汲みて齢を延ぶ今東海道の菊川西岸に宿りて命を失う)



奥にあったのが『菊川の里会館』。



『金谷宿の昔ばなし』のボードも。
・「八挺鉦(やからかね)」
(八挺鉦を打ち鳴らして投げ銭を受ける大道芸をする美少年と少女のお話。)
・「与茂七越し」
(東西の急坂を難なく行き来する与茂七、権七という名コンビの駕籠かき名人のお話)



そしてこちらは『​名物「飴の餅」のこと​​』⬅リンク。



近くで工事中の473号バイパスの案内板も。



斜向かいの民家のシャッターに、矢の根鍛冶が大きく描かれた家が。
『矢し根鍛冶 五條才兵衛之図  慶長―元禄』
ここは、その昔矢の根鍛冶をしていた才兵衛の家であったとのことです。
才兵衛は古くからの矢の根鍛冶でしたが、『掛川誌稿』によると貞享以後断絶したらしく、
その後矢の根鍛冶の職は別家の清次郎へと引き継がれたようです。
矢の根とは弓矢の根、すなわち矢尻のことで、菊川の里に硬くて鋭利な矢尻をつくる者がいる
ことが、書物などによって知らしめられ当地の名物となっていました。
矢の根鍛冶清次郎は、参勤交代で街道を通る大名行列に献上しては、その優秀さを誇って
いたといいます。その後、泰平の世となって矢の根の需要がなくなり、五條清次郎は土地を
離れましたが、代々伝えられたと思われる矢の根鍛冶「秘伝書」は、今も菊川の旧家に
大切に所蔵されており、この地には「鍛冶屋敷」という往時を偲ぶ地名が伝えられています。



旧東海道を進んでいくと『小夜の中山 登り口』が現れた。



四郡の辻から僅かな石畳を登った先に『青木坂』の登り口があった。



『四郡の辻道標』
佐墅郡、山名郡の文字が。



『歴史ろまんコース』、『小夜の中山』、『火剣山』の案内板が青木坂の入り口に。



青木坂登り口から先は、これまでの峠でもあまりなかった心臓破りの急坂が続いていた。



そして茶畑が広がって来た。



坂の左手は、緑一色の茶畑が広がっていた。



更に上り坂が続いていた。



日坂の宿と菊川の里の境界表示板。
すなわち、ここが島田市と掛川市の市境である。
ここから先には、「小夜(さよ・さや)中山峠」にちなんだ和歌や俳諧の碑が続いていた。



『阿仏尼歌碑』
登り坂の途中にある島田市と掛川市の境標を越えると右手の民家前に鎌倉中期の歌人
阿仏尼の歌碑があった。 



碑には、阿仏尼が記した紀行文 「十六夜(いざよい)日記」 の一節 
『雲かかる さやの中山 越えぬとは 都に告げよ 有明の月』 と刻まれていると。
「雲のかかる 小夜の中山を越えたと、都の子供らに伝えておくれ、有明の月よ。」



『衣笠内大臣(きぬがさないだいじん)歌碑』。
更に急坂を登って行くと左手の木の間に鎌倉時代の歌人衣笠内大臣の歌碑があった。 



『旅ごろも 夕霜さむき ささの葉の さやの中山 あらし吹くなり』。
「旅姿に夕霜が身に凍みるここ小夜の中山の峠道は一面の笹原で、笹の葉をならして
木枯らしが吹き渡ることだよ。」



右手に『久延寺(きゅうえんじ)』の表示があったので訪ねる。



立派な山門。



境内の老木も街道に張り出して。



『山門』を正面から。



掛川市指定文化財『久延寺境内』。
「久延寺は、真言宗の寺院で山号は佐夜中山。
本尊は聖観音で、昔、住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、子は成長して親の敵を
討つことができた。これはひとえに本尊の加護によるものである」という
夜泣石の伝説に因み、子育て観音と称される。
慶長5(1600)年、掛川城主山内一豊は、境内に茶亭を設けて、大坂から会津の
上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。
右の絵は、天明6年(1786)に尾張藩士 高力種信が東海道の風物を描いたものの
一枚である。久延寺とその西に並ぶ飴屋などが描かれていて、当時の風景を
知ることができる。」



大学山久延寺『本堂』。
天平年間、三位中将良政が勅命によって蛇身鳥を退治して当寺を建立したと伝えられる。
開基は行基菩薩と伝えられるが、戦国時代の度重なる兵火により古文書はなく寺暦は定かでない。
宗派:高野山真言宗  所在:静岡県掛川市佐夜鹿291  本尊:聖観世音菩薩



『鐘楼』。



『手水舎』と『地蔵堂』。



『夜泣き石』。



『伝説 小夜の中山夜泣石』。
「その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り
中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が
通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。
その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあった
丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石を
「夜泣石」と言った。
傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ
立派な若者となり大和の国の刀研師の弟子となった。
そこへ轟業右衛門が刀研ぎにきたおり、刃こぼれがあるので訊いたところ、
「去る十数年前 小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と
言ったので、母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。
その後、弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う。
文化元年 滝沢馬琴の「石言遺響」より」



『金次郎像』であっただろうか。



『芭蕉句碑』。
「馬にねて 残夢月遠し 茶のけむり」



『茶亭跡の碑』。
山門をくぐって西側、手水舎の裏手に接待茶亭跡の碑が。
これは 松平土佐守が、家康を接待した山内一豊の史実を後世に伝えるために建立したもの。
慶長5年(1600)掛川城主 山内一豊は、境内に茶亭を設けて、大阪から会津の
上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。
関ヶ原の合戦の後、山内一豊は功績を認められ、土佐二十万石に栄転したと。



『西行の 命の山ぞ ふきのたう     太田鴻村』



久延寺の前の駐車場の奥に在った『接待茶屋跡』。



『接待茶屋跡』石碑。
鎌倉時代・永仁年間(1300年頃)から旅人の求めに応じて茶などを接待し、
旅人の憩いの場となっていたといわれる。



「鎌倉時代・永仁年間(1300年頃)から旅人の求めに応じて茶等を接待し、旅人の
憩いの場となっていたという。芭蕉の「馬にねて 残夢月遠し 茶のけむり」の句も
この辺りで詠まれたものといわれています。」



『接待茶屋跡』碑の横から見た一面の茶畑。



                                ​その3​  に戻る。

                  ・・・​つづく​・・・






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Last updated  2020.05.01 11:50:07
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