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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.06.09
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

次に『中泉歴史公園』を訪ねた。
『中泉歴史公園』はJR磐田駅から徒歩10分程の場所にある公園で、かつては当地の
武将・旗本・代官として、今川家〜徳川家に仕えた「秋鹿家」のお屋敷があった場所。
現在残るこじんまりとした池泉回遊式庭園はその遺構。
この屋敷は近代には「中泉遊廓」となり、この池泉回遊式庭園は料亭「開莚楼」の庭園にも
なったとのこと。その後現在は「中泉歴史公園」として整備・公開されていると。



『徳川家康と中泉御殿』
徳川家康の鷹(たか)狩り好きは良く知られているが、JR磐田駅南側に
「御殿遺跡公園」がある。天正15(1587)年ごろ、家康は中泉府八幡宮神主の
秋鹿(あいか)氏から献上されたこの地に鷹狩りの際に使う中泉御殿を築いた。
天正18年になると、家康は豊臣秀吉の命で関東への国替えとなるが、中泉の1千石は、
その後も「在京賄料地」として安堵(あんど)され同御殿も廃止をまぬがれた。
本拠の江戸と大坂を結ぶ東海道のルートを、中泉御殿を経由するように変更。
鷹狩りの休憩・宿所としての使用だけではなく、秀吉死後の関ケ原の戦いでは同御殿から出陣、
大坂冬の陣でも軍議が開かれるなど、軍事的に活用されたことが指摘されている。



当該地は平成4、5年に発掘調査を実施し、大規模な堀と土塁が発見された。
古絵図を見ても、大池を背後にした広大な敷地は、まさしく城郭構えであることが分かる。
「御殿」は家康没後に廃止され、建物は近隣の寺院などに払い下げられた。
その表門が同市見付の西光寺に移築され、主殿と裏門は同市中泉の西願寺などに移築されたと。
遠江国は幕府幕府直轄領となった。家康の死後、中泉御殿の北東に隣接する地には、
「御陣屋」と呼ばれる中泉代官所が造営されていると。



『二代将軍 徳川秀忠公』と書かれた幟。
大阪冬の陣を終えて帰還する元和元年二月七日、
此処秋鹿屋敷に本陣を置き父家康公と対面したと。



園内には秋鹿家の歴代当主が愛した庭園が整備・保存されていた。



鮮やかな新緑が拡がっていた。



注目すべきは公園のベンチ。
なんと遊廓時代に妓楼の門柱として使用されていたものをベンチとして再利用しているのだと。



旧東海道に戻り浜松宿に向かって歩く。



右手の中山米店脇の筋入口に『弘法大師堂 磐田郡新四國 二十五番札所』と書かれた石柱が。



先に進んで行くと小さな弘法堂が。



『お弘法さま』と刻まれた石碑。



奥には日魯大菩薩が安置された祠が。



『ニオイバンマツリ』の花であろうか?
花が紫から白へ花色が変化し、さわやかな芳香がある花。



左手に、今年創立69年になる『磐田キリスト教会』。



右手の『中泉交流センター』。



中泉交流センター入口には『旧東海道』と刻まれた石碑も。



交流センター前には『江戸時代の中泉絵図』が。



こちらは『大正時代の中泉』。
『​中泉軌道👈リンク』という鉄道が走っていたようだ。



夢舞台東海道道標『中泉』。
豊田町 宿境まで六町
見付宿 宿境まで二十三町



旧東海道はこの先で県道261号線と合流。



左手のフェンスの中に小さな祠が。
この祠の前の坂が「大乗院坂」といいこと。
この坂の途中に、あったお寺が「大乗院」とのこと。
坂の北の台地一帯は「御林」と呼ばれ、明治22年に開業した「中泉駅(現在の磐田駅)」の
ホームが、このあたりに設置された工場でで作られた赤煉瓦で築造されたとのこと。



小さな祠がありました。



『大乗院坂界隈』。
旧東海道のこの坂を「大乗院坂」という。この坂の途中に山伏の寺「大乗院」があった。
そこに祀られていた地蔵菩薩像・阿弥陀如来像とも現存する。
大乗院北の台地一帯は「御林」と呼ばれ、明治22年に開通した中泉駅のホームは、
この地(現 千寿酒造)に設置された工場で作られた赤煉瓦をもって築造された。
磐田の「煉瓦発祥の地」である。
この北側の道(細江線)は開通した中泉駅より豊田町池田までの「中泉軌道」跡である。
昭和25年5月19日の「空襲」によりこの坂の南北に4発の被爆があり、8名の死者をだした。
現在地の東二十米の位置に推定樹齢約二百年、樹高二十三米、目通周三.六五米の黒松の
「大松」があったが、昭和二十七年に伐採された。




合流地点から旧東海道を振り返る。



『くろん坊様』
「黒坊大権現は、旧東海道筋で、現在地の西約百米(現磐田化学正門)の田んぼの中にあった
祠を移したもので、咳や熱病の神様とされています。
インド人の旅僧が手にかけられて金品を奪われてしまったので、土地の人々が手厚く葬ったものと
いわれており、毎年十一月三日が縁日とされています。   磐田化学工業㈱大松の会」

磐田化学工業㈱が管理されている模様、現在では『くろん坊様』は差別用語では?



合流後の県道261号線を進む。



左手には、若い頃何度か訪れた磐田化学工業㈱が。
そしてその先には高砂香料㈱も。



祝川に架かる『一言橋』を渡る。
武田信玄との「一言坂の合戦」のとき敗色濃厚だった徳川家康が、当地にある一生に一度、
一言だけ願いを聞き届ける観音様(「一言観音」)に戦勝を願ったところ、急に戦況が
有利になったとの伝承がある、らしい。「一言観音」は、この少し北側に位置します。
「一言坂合戦」の史跡等は、国道一号線・「一言」付近にあるようです。



そして『万能橋』交差点を直進。



下を流れる『寺谷用水』。



左手にあったのが『名残松
が。



名残松の直ぐ先の変則十字路の右手筋に道標が建っていた。
右は 「見附」、左は 「宮之一色一里塚」、道標の奥へ向かう方向には 「一言坂戦跡」 とある。
一言坂戦とは、元亀3年(1572)徳川家康が武田信玄との戦いで、浜松城へ退却する途中
一言坂で追いつかれたときの戦いである。



道標から程なく右手に『宮之一色一里塚跡が。
ここは江戸日本橋から数えて63番目の一里塚であり、現在の一里塚は昭和46年に
復元されたものであると。
「江戸時代になると、東海道や中山道などの街道が整備され、これにより多くの人々が安全に
旅することができるようになり、荷物も多く、早く届けられるようになりました。
一里塚は、旅人に距離を知らせるために一里(約4キロ)ごとに、街道をはさんで両側に
一基ずつ作られました。一里塚の上には、榎や松などが植えられ、その木蔭は多くの旅人の
休憩する場所となりました。また、かごや荷物を運ぶ料金の目安としても利用されたようです。
ここ宮之一色一里塚は、東海道の起点である江戸(東京都)日本橋から数えて
63番目の一里塚です。現在の一里塚は昭和46年に復元されたものです。
当時は、西に間の宿といわれた池田宿と天竜川の渡船場を、東に見附宿をひかえて、さぞ多くの
旅人や荷物が行き交ったことでしょう。一里塚の西に点在する松並木がその名残を
今に伝えます。」 
説明文の右に、「旅人の様子を描いた図」、下には「東海道と歴史の道」が描かれていた。



『一里塚の跡』石碑。



『東海道と歴史の道』。



別の角度から。
昭和46年に復元された一里塚。



前方左手に常夜燈が見えた。



『宮之一色秋葉山常夜燈』。
一里塚跡の先、左手筋の入口角に秋葉山常夜燈が建っていた。
この常夜燈は、文政11年(1828)に建てられたもので、竜の彫り物があるので 「竜燈」 とも
呼ばれている。風除けに燈籠の周りを板で囲み、上部は明かりが漏れるように格子になっている。



「この常夜燈(灯籠)は平成八年部分改修しました。その棟札から文政十一年(一八二八年)に
建てられたものとわかりました。 竜の彫り物があるので「竜燈」と呼ばれ数ある灯籠の中でも
大変貴重なものです。 風よけに灯籠の周りを板で囲み上部は明かりが漏れるように格子に
なっています。「陸の灯台」として暗闇を照らしていたことでしょう。 毎年自治会の代表が
可睡斎にお参りし「秋葉総本殿」のお札をこの灯籠に奉納しています。
地域の安全と火防の守り神として多くの人々から慕われ崇敬されています。
旧東海道、一里塚、松並木、秋葉灯籠のある宮之一色へようこそ。よい日・よい旅を・・・。」



見事な龍の彫り物。



更に旧東海道を進む。



道路を左折して『松向寺』を訪ねた。



『神宮山 松向山』の『山門』。



『本堂』
 静岡県磐田市宮之一色413にある曹洞宗の寺。
松向寺は、元和5年(1619)の創建で、現在の本堂は元禄14年(1701)に建立された。
境内には子育地蔵尊・延命地蔵尊などがある。



永代供養塔?



境内から山門を。



『うなぎ』の文字が気になったがグッと我慢。



松向寺を出て、豊田川を越えると左手に名残松が数本立っていた。



こうした案内碑を随所で見かけた。



しかし、「東海道松並木」も「並木」というほどにはいかず、道路沿いに足元をアスファルト
で固められた「松」がポツンポツンとあるだけ。




磐田市立豊田南小学校前を通過。​つづく


                          
                              ​その1​  に戻る。

                   ・・・つづく・・・






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Last updated  2020.05.01 12:16:21
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