7287466 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Category

Freepage List

Comments

Favorite Blog

春の東海道をゆくツ… New! オジン0523さん

ベランダの花(ヨウ… New! 隠居人はせじぃさん

【花々が一斉に咲き… Gママさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん
noahnoah研究所 noahnoahnoahさん

Headline News

Archives

Calendar

2019.06.27
XML

『旧東海道を歩く』ブログ 目次

『東海道舞阪宿脇本陣』を後にし。旧東海道に戻ると右手奥に津波の避難タワーが見えた。
タワーは鉄骨構造で、屋上の海抜は約12.6m、収容人数は約150人だと。



そして前方には、浜名湖の湖面が見えて来た。



突き当りの交差点手前左側にあったのが『西町常夜灯』。



「 舞阪には往還道路沿いに三つの常夜灯があるが、ここは正面が両皇大神宮、西面が
秋葉大権現、東面が津嶋牛頭天王、南面が文化十年二月 吉日、願主西町中、と彫られており、
この常夜 灯は文化十年に建立されたことがわかる。
舞阪宿では文化6年(1809)西町より出火、宿の大半を焼く大きな火事があり復興に
大変難儀をしている。当時火防せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いにより
この常夜灯が建立されたもので、その世話は現在も西町の人たちに引き継がれている。 」



『東海道夢舞台「舞阪宿」』道標が『西町常夜灯』案内板の隣に。



道路を渡った左側にあった『舞阪宿の渡船場、本雁木跡(ほんがんげあと)』。
「江戸時代、舞坂宿より新居宿までの交通は渡船であり舞阪側の渡船場を雁木といった。
雁木とは階段状になっている船着場のことをいい本来は「がんぎ」と読むが舞阪では
「がんげ」といっている。 ここは東海道を旅する人が一番多く利用した本雁木跡で東西15間、
南北20間の石畳が往還より海面まで坂になって敷かれていた。またここより新居へ向かう
船は季節により多少変わるが、関所との関係で朝の一番方は午前4時、夕方の最終船は
午後4時であった。」



旧東海道は右折して真っ直ぐ浜名湖湖岸沿いに延びていた。



我々は旧東海道を離れて湖岸の岸壁に向かうと右手に『常夜灯』が。



『舞阪魚市場入口』から見た国道1号線『浜名大橋』。



岸壁を進むと左手に『史跡 北雁木(きたがんげ)』と『常夜灯』が。



「ここは浜名湖今切渡しの舞坂宿側の渡船場跡で明暦三年(一六五七年)から寛文元年
(一六六一年)にかけて構築されました。その後、江戸時代には災害で幾度か
修復されています。両側の石垣の白い部分は昭和二十八年の台風で石垣が崩れたため
積みなおしたものです。雁木とは階段状になっている船着場のことをいいますが、
地元では「がんげ」と昔からいっています。舞坂宿には三ヶ所の渡船場がありましたが、
一番南側は主に荷物の積み降ろしをした渡荷場。真ん中は旅人一番多く利用した主要渡船場で
本雁木と呼ばれています。この北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、
往還から幅十間(約十八メートル)の石畳が水際まで敷きつめられています。」



『史跡 北雁木(きたがんげ)』の先は石畳の坂になっており浜名湖の湖面に通じていた。
かつての石垣・石畳の一部も残っており、往時を偲ぶことができたのであった。



『東海道五十三次 舞阪 今切真景』の絵画か?



こちらが本物。
舞坂から次の荒井までは舟渡しで、海上一里を行く「今切れの渡し」といった。
今までの徒歩での陸路の旅とは異なり、束の間の憩いのひとときでもあったようだ。
冬の舞坂の港の図であるが、水面に突き出た山、手前には大きな帆、更に手前の沢山の杭が
遠近をよく表わす。遠景には冬の白い富士山、青い海が爽やかに描かれている。



国道1号線『浜名大橋』をズームで。



防波堤の先にはこれから歩く『弁天橋』が見えた。



北雁木跡の斜向かいに『那須田又七顕彰碑』が建っていた。



「那須田家の先祖は、豊臣氏に仕えていましたが、大阪の役の後、舞坂で農業を営むように
なりました。又七は、天明4年(1784)の生まれで、子供の時から聡明でした。勉学に励み、
16歳で舞坂宿問屋場の書記となりました。その後、村役人・宿役人を長く勤めました。
産業振興に努め、海苔養殖の基盤を作りました。飢饉の時には、私財を投じて救済事業を
行いました。その人望と功績により名字帯刀を許され 「袱紗刀爺」 (ふくさがたのやや)
と呼ばれました。嘉永3年(1850)66歳でなくなりました。安政5年(1858)その業績を
永く伝えるため、顕彰碑が建立されました。」



そして再び旧東海道を進むと、『弁天橋』手前左にも『常夜燈』が。
台座下部に「京に五拾七里ニ拾六町 舞阪宿」 のプレートが貼られていた。



赤い欄干の『弁天橋』を渡る。



南浜名湖に浮かぶ弁天島のシンボルタワーとして高さ18mの大鳥居が造られたのは昭和48年と。



再び国道1号線をズームで。
構造形式は、PC5径間連続有ヒンジラーメン箱桁橋。橋梁全長631.8m、有効幅員9.0m。
最高地点は海抜31 m。中央支間長は240 mにおよび桁橋としては建設当時には
世界最大支間であり、2004年(平成16年)の江島大橋開通まで日本最大の支間長を誇ったと。



弁天橋東側から弁天島温泉のホテル・マンション街を見る。
江戸時代には,今切の渡しで舞坂宿から新居宿まで一里半(約6km)の距離を約二時間の
舟便によっ渡ったが、現在では国道1号で渡ることになる。
『東海道五拾三次之内 荒井』
舞坂の今切の渡しから荒井に向かう、浜名湖の舟渡しの風景です。遠くに見える向こう岸には
箱根と並んで厳しい、規模の大きな関所が待っています。
ふき流しをはためかせ、二本の毛槍を高々と飾り立てた船は大名一行で、お供の船が続いて
渡っていました。
遠くに関所の建物が見え、間もなくのんびりとした短い船旅が終わろうとしています。



舞坂から赤い弁天橋を渡ると弁天島である。そこは、温泉や海水浴、つり、潮干狩りなど
が楽しめるリゾート地となる。
浜名湖を眺めながら弁天橋を歩いたのであった。



この時は、干潮であり海に向かって流れる湖水。
正面が「今切口」の所で、遠州灘とつながっている。上を国道1号線バイパスの
『浜名大橋』が「今切口」を越えて行くのであった。
浜名湖は約500年前の地震で太平洋とつながり塩水が入り込み、汽水湖に変わったのだ。
今切口という名前は「いつ切れた?」「今切れた」という会話から「今切口」と名づけられたとか?
次回はこの『浜名大橋』を車で渡りたいのであった。



干潮の時間で鳥居の基礎も顕れて。



『田畑家の弁天島別荘跡』
1898年浜松に生まれ、1889(明治22)年の東海道線全線開通に伴って、浜松の
資産家たちは弁天島に別荘を持つようになり、造り酒屋であった田畑家も弁天橋の
たもとに別荘を造りました。
水泳ニッポンの父田畑政治(たばたまさじ)は幼少期から浜名湖で自然に泳ぎを覚え、
水泳に親しむようになりました。
朝日新聞の新聞記者として活躍したのち、朝日新聞東京本社の代表取締役就任。
同時に日本水泳連盟や日本体育協会などの要職に就く。水泳選手の育成にも尽力。
長い道のりを経て戦後の日本にオリンピックを誘致した功労者。亡くなるまで(享年85)
水泳に限らずスポーツ振興に生涯を捧げた。まさに水泳ニッポンの父・タバタマサジ。
大河ドラマでは後半の主人公として阿部サダヲが演じるのだと。



弁天橋を渡り、緩やかなカーブに。



国道301号線に合流する左手にあったのが『辨天神社』。
弁天神社は、江戸時代の宝永6年(1708)今切の渡しの安全を祈願して創建されたと。



『弁天島と天女』。
「昔、弁天島のこの辺りは砂州が新居の橋本辺りまで続き、白砂青松(はくさせいしょう)
「天の橋立」 のような風景が広がっていました。そんな弁天島の美しさに誘われてか、
ある日天女が舞い降りました。村人は大変喜び、社を建てるからここに留まって欲しいと
お願いしました。ところがどういうわけか、天女は駿河の三保の松原へ立ち去って行きました。
それから長い年月が経ち、この辺り一帯は大きな災害に見舞われ、洲埼の一部であった弁天は
湖に取り残されて島となりました。その後、舞坂と新居の間は渡船で行き来するように
なりましたが、江戸時代の宝永6年(1709)今切渡海安全のため、この島に弁天神社が
建てられました。人々は天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしてきました。
御祭神は「市杵島姫命」といい、海上・交通・家内安全・商売繁盛など諸願成就の神として
多くの人に信仰されています。」



石鳥居の『扁額』。



『手水舎』。



昔、弁天島のこの辺りは砂洲が新居の橋本まで続き、白州青松「天の橋立」のような
風景が広がっていた。そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りた。
村人は大変喜び、社を建てるからここにとどまってほしいとお願いした。
ところがどういうわけか、天女は駿河の三保の松原に立ち去って行った。
それから長い年月がたち、この辺り一帯は大きな災害にみまわれ、州崎の一部であった弁天は
海にとり残されて島となった。その後、舞阪と新居の間は渡船で行き来するようになったが、
江戸時代の宝永六年(西暦一七〇九年)今切渡海安全のため、この島に弁天神社が建てられた。
人々は天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしてきた。
御祭神は「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」といい、海上・交通・家内安全、
商売繁盛など諸願成就の神として多くの人に信仰されている。
なお、境内には浜名湖弁天島を詠んだ正岡子規、茅原崋山、松島十湖の文学碑があった。
朱の『弁天神社拝殿』。



『正岡子規 句碑』



『天の川 濱名の橋の 十文字』。



『松島 十湖句碑』。



『月や風や夏しら波の海と湖』



さらにJRに沿った旧東海道を進む。



弁天島駅前交差点を通過。



『弁天島駅』ホームが右手上に。



いつまでも、国道1号線バイパスの『浜名大橋』を追いかける。



中浜名橋東からJR東海道本線、新幹線の線路を見る。



『中浜名橋』。



新幹線が通過。



『中浜名橋』の専用歩道を歩く。



そして中浜名橋を渡ると、浜松市から湖西市に入る。



橋を渡り終わると、右手にキャンピングカーの大きな展示場・フジカーズジャパン 浜松店が
ありしばし散策。
この先の旧東海道歩きの自宅~起点・終点までの移動・現地での宿泊手段として欲しいので
あったが。



その先、右手にあったのが『新弁天神社』。



日本橋から272kmのポスト表示。ここは既に『新居町』



そして3つ目の橋『西浜名橋』が見えて来た。



こちらも専用歩道橋を歩く。



東海道本線には貨物列車が。



『湖西市案内図』



そしてこの日の目的地・『新居町駅』に到着。



車の置いてあるホテルのある鷲津駅まではJR東海道線13:40発を利用した。



そしてJR東海道線車窓からのサンマリンブリッジを見る。



そしてホテルで待っていた旅友Sさんの愛車に戻り、帰路についたのであった。
実は、時間は早く帰路につけたため、途中『新居関所跡』そしてその先の『泉町』交差点
までを散策したが、これは次の『旧東海道を歩く(新居宿~)』にアップすることと
いたします。

                              ​その5​  に戻る。

      ・・・ 旧東海道を歩く(浜松駅~舞阪宿~新居町駅) 完 ・・・





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020.05.01 12:26:03
コメント(2) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.