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JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.03.14
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

旧東海道沿いの民家の縁側が様々な手作りの民芸品が展示棚になっている旧家。
『鈴鹿・亀山まちかど博物館』。亀山市野村町23-2。
明治の終わり頃に建てられた町家を改装した連子格子の家。
昭和レトロを始めいろいろな骨董品を展示していた。



『水車小屋』。



野村3丁目17の先の交差点を渡る。



交差点を渡ると左手に『明治天皇御召替所跡』が。



『御召替所跡』。



「明治天皇御召替所跡 内池家主屋
明治13年5月、明治天皇が東京から山梨県を行幸され、続いて三重県で伊勢の内宮と外宮を参拝された。東京へ帰る途中、高田山専修寺や、鈴鹿郡亀山を行幸された。亀山では陸軍の大阪鎮台の様子を見分された。その折、ここ内池家で御休みになり、御茶料として3円を下された。



この付近の名所観光案内図。



更に進むと、右手に『野村一里塚跡
があった。



『史跡 野村一里塚』。
ここは江戸日本橋から数えて105里目、京都三条大橋から20番目(三条大橋から約83㎞)の
一里塚である。



『史跡野村一里塚』碑。
一里塚は、江戸時代のはじめ、徳川幕府が江戸日本橋を基点とし、街道に沿って一里ごとに
設けさせた里程標で、塚を築き、その上に樹木を植えた。
この一里塚は、東海道の一里塚の一つとして築造されたもので、もと街道をはさんで
南北に塚があったが、大正3年に南側のものは取り去られ、北側の塚のみとなってしまった。

塚の上には、目通り幹囲5m、高さ20mの椋(ムク)の木がある。
本県における旧東海道においては桑名宿から坂下宿の間に12ヵ所の一里塚が設置されていたが、
いま、残るものは、この一里塚だけであり、わが国交通史上、貴重な遺跡として、
昭和9年1月22日、国の史跡として指定された。




この塚上には、目通り幹囲5m、高さ20m、樹齢400年を越えた椋(ムク)の木が。
南塚は大正12年に倒されてしまったと。



春になり新緑で覆われた時の姿を見てみたいのであった。



更に雨に路面が濡れた旧東海道を西に進む。
野村一里塚を過ぎると、道幅は車1台しか通れないような細い道筋へと変わった。
そして町名は「布気町」に。



黒ではなく茶色の連子格子の旧家が左手に。



『野尻』バス停の空き地の角には掲示板と遺跡を示す白い標柱が。



『亀山藩大庄屋内田権四郎昌克旧宅跡』。
「打田家は江戸時代初め頃 近江国(滋賀県)から野尻村(布気町)に移住し、代々いくつもの
庄屋をまとめる大庄屋を努めた。現在地から東海道を挟んだ北側にその屋敷があった。
内田権四郎昌克(1641~1758)は元禄15年(1702)亀山領に関する記録集『九々五集』を
編纂した。」



その先にも2階建て板塀の歴史ある建物が。



『東海道 道標』。



『毘沙門天』手前のT字路。



『毘沙門天 本堂』。ここは亀山市布気町。



扁額には『毘沙門天』。



境内の石仏群。



T字路を右折し進む。



左手にあったのが『布気皇舘太(ふけこうたつだい)神社』の『一の鳥居』。



「布気皇舘太神社
神 紋  揚羽蝶
鎮座地  亀山市布気町一六六三番地
御祭神
天照大御神    建速須佐之男命
豊受大神     品陀和氣命
猿田彦大神    稲田比賣命
伊吹戸主大神   高御産業日神
宇迦之御魂神   手刀雄命
大名牟遅神    手置帆負命
菅原道真     火之迦具土神
火之夜勢速男命  帯中日子神
宇都志國玉神   廣國押武金日神
木花佐久夜比賣命 五男三女神
天宇受賣命
祭 祀 例 祭  十月十五日
         獅子舞 丑、辰、未、戌の一月一日から三日
由緒 
延喜式巻九「伊勢国鈴鹿郡19座並小布氣神社」とあり、垂仁天皇18年の創始にかかる
式内社です。
社名の皇舘とは、垂仁天皇の御宇、天照大御神が忍山に御遷幸の折、大比古命が神田・神戸を
献じたことに由来し、野尻、落針、太岡寺、山下、木下、小野、鷲山の七ヶ村を
神戸郷といいました。
九々五集巻第六上には、「高野大神宮 関氏より続テ亀山御城主御氏神三社之内 
神辺七郷惣社ノ宮(略)宮地長長八十間横百間」とあり、また同書の巻第九の巻末に
記述の「舘殿御由来」には「抑勢州鈴鹿郡神戸庄皇舘多賀ノ宮は豊受皇太神宮の荒魂の御神なり。
夫レ神戸と申侍るは人王十代崇神天皇七かのへ寅歳奉勅命て諸国所々に御舘を改め其郡の
宗廟として荒魂の卸神を社の神戸なり」とあります。
布気皇舘太神社は、時代によっていろいろな名で村人に親しまれたが、明治41年近郷の小社
小詞を合祀し、現在の社名となりました。」



一の鳥居の先に並ぶ石燈籠の間の参道を進む。



日本最古の観音霊場「西国三十三所観音霊場」の第三十三番札所で結願・満願の寺として
知られ、春には桜、秋には紅葉の名所として賑わいをみせるという
「谷汲山 華厳寺(たにぐみさん けごんじ)」。
美濃国・現岐阜県揖斐郡揖斐川町にある「西国三十三所観音霊場」。



裏の道路からの入り口。



『布気皇舘太神社 拝殿』。
布気皇舘太神社は、延喜式巻九 「伊勢國鈴鹿郡十九座並小布気神社」 とあり、
神話時代垂仁天皇18年の創始にかかる式内社である。
明治41年に村社に列し近在の鎮守社を合祀したことで、もともと天照大神、豊受大神、
伊吹戸主神(いぶきどぬし)の三神が祭神だったが、明治の合祀で二十三柱を
祀るようになったと。
日本の八百万の神を代表する神々が合祀されているというか、神々としてはベストメンバーなので、
なんでもかんでも叶えてくれるのではと、丁寧にお参りしたのであった。



『拝殿 内部』。



『本殿』。
鈴鹿川北岸の河岸段丘の上に鎮座する。
古く野村布気林(野村の西北部・野尻村との境)にあつたが、文明年間の兵乱によつて衰退し、
のち、現社地の皇館の森に移つたと伝えている。
中世には、神戸郷の神領を管した在地の豪族板淵氏(同村の西北に居住)が当社の祭祀を
経営していた。
文永元年(1264)に関実忠が地頭職として亀山に移住し、亀山城の氏神とした。
享保8年(1723)に吉田家より皇館大神宮の神号を受けた。



『境内社』。



『聖訓』碑。
地元出身の軍人の慰霊碑のようであった。



参道を旧東海道に向かって戻る。



更に旧東海道を進む。



『立場茶屋能古付近』。
『布気皇舘太神社』の先に『立場茶屋能古』があったと言われている。
この辺りには、現在、『神辺簡易郵便局』が建っていた。
『能古茶屋』は、松尾芭蕉の親友である禅僧道心坊能古が開いた茶屋と言われている。
芭蕉は逗留中に 「枯枝にとまりたるや秋の暮」 という句を残しているのだと。



郵便局の建物の前左手に『常夜燈』。
付近に川も無く、大きな道でもないので、何処からか持って来たものと思われる。
しかし年代を感じさせる常夜燈。 亀山市指定史跡。珍しい事に「さざれ石}が使われていると。



下り坂の手前左にあったのが『昼寝観音』。



観音縁起によれば、通称 「昼寝観音」 と呼ばれ、東大寺再建の折りに造られ、奈良より
背負われて各地を巡り、此の地こ伝わったという。また、各地の観音様が集まって
西日本で観音様を巡ってお参りする33カ所の寺を決める会議が開かれた時、落針の観音様は
昼寝をして会議に行かなかったので、33ヶ所の寺に選ばれなかったという。
『落針観音堂



石山観音が祀られた『落針観音堂 内陣』。



『地蔵堂』中には寛政12年(1800)の地蔵菩薩が2体。



境内の『豊田多賀助翁徳之碑』



寺のフェンスには『道標 東海道 亀山宿⇔関宿』が。



坂を下っていくと、左斜奥遠くには鈴鹿の山々が姿を表したのでズームで。



『宇気比神社』案内板。



『東海道 道標』。



逆Y字路の中央に安政6年(1859)の『常夜燈』が建っていた。




                              ・・・​もどる​・・・

                   ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2020.05.02 16:40:47
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