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カテゴリ:JINさんの農園
伊東市にあった「佛現寺」の散策を続ける。
こちらが「佛現寺」の「旧山門」。 江戸時代の1831年に建立された本来の山門で、現在は裏門のような感しとなっているが、 元々はこちらが正面で、題目碑が建ち、仁王門・常経殿・御草庵毘沙門堂(紫雲殿)・釈迦本佛殿が 一直線に並んでいた。 ![]() 「旧山門」の扁額は「海光山」。 ![]() 金網の隙間から「阿形像」。 ![]() 「吽形像」。 ![]() 「津波犠牲者の供養塔」が並ぶ。 ![]() 「津波犠牲者の供養塔 ここに津波による犠牲者の供養塔を護持しています。これらの石塔には、悲惨な津波災害で 亡くなった方たちへの慰霊の歴史が刻まれています。 大正十二年(一九二三)九月一日午前十一時五十八分に発生した関東大震災では、震度六の 烈震の後、十数分で沿岸各地に津波が襲来し、地元の玖須美地区で一〇五人の犠牲者がでました。 また、江戸時代の元禄十六年(一七〇三)十一月二十三日未明の大地震でも、当時の和田村の範囲で 一六三人もの犠牲者がでました。後列の自然石の供養塔(写真①)と五輪塔(写真②)は関東大震災 犠牲者への供養塔で、前列二基の自然石の供養塔が元禄地震津波の犠牲者への供養塔(伊東市 指定文化財・写真③④)です。 これらの供養塔は、津波による悲しい災害を伝えるとともに今生きる我々に津波災害 への警戒の必要を教えています。」 ![]() 「津波犠牲者の供養塔」を正面から。 ![]() 「胎児供養塔」。 ![]() 「日蓮聖人謫居之跡」。 ![]() 「日蓮聖人謫居之跡」 文応元年(1260)当時乱れていた日本国を法華経によって救わんと、救国の書「立正安国論」を、 鎌倉幕府に建白したがいれられず、弘長元年5月伊東配流となり、地頭八郎左衛門尉の預かり として、この毘沙門堂に謫居、四恩抄・教機時国抄を著し、始めて「法華経行者」を宣言、 弘長3年2月赦免となる。 爾来、ここに祖師堂を置いたが、明治初年大火に遭い、昭和27年現在の地に祖師堂を移築した。 昭和40年5月、紫雲殿・常経殿・法華経塔を建立、草庵跡がこヽである。 法華経の故にかヽる身となり候えば、行住座臥に法華経を読み行するにてこそ候へ。・・・ これらの経文を見るに、信心を起し身より汗を流し、両眼より涙を流す事雨の如し。 海光山 霊跡本山 佛現寺」云々(四恩抄) ![]() 「紫雲殿」を斜めから。 ![]() 反対側から正面に廻り込んで。 ![]() 扁額「紫雲殿」。 ![]() 「釋迦本佛殿」。 ![]() 「釋迦本佛殿」の前、「紫雲殿」の後ろには、中央に日蓮、その左右に弟子の、日朗、日昭、日教の 供養塔があった。 日朗と日昭は、日興、日向、日頂、日持と共に、六老僧と呼ばれ、弟子の中でも中心人物である。 ![]() 「日朗上人供養塔」。 ![]() 「日昭上人供養塔」。 ![]() 「日教上人供養塔」。 ![]() 扁額「釋迦本佛殿」。 ![]() この後、境内に戻り廻り込んで「釋迦本佛殿」を裏側から。 ![]() 正面に廻り込んで再び。 ![]() 「法華経法塔」。 ![]() 「御草庵毘沙門堂紫雲殿」を裏側から。 日蓮四大法難のひとつである40歳での配流時に、3年の時を過ごした比沙門堂の旦庵跡。 ここで『四思抄』『教機時国抄』を著し、”法華経の行者”を自覚し宣言したと伝わる。 1965年にここに紫雲殿・常経殿が建立された。 ![]() 相輪に龍が巻き付く。 ![]() 「伊東港」の姿が見えた。 ![]() 境内の奥に駐めた車に戻り「本堂」を見る。 ![]() 珍しい花の形のアジサイを楽しむ。 ![]() ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.06.23 12:33:12
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