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JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.12.13
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カテゴリ:国内旅行
次に訪ねたのが「具志頭(ぐしちゃん)城跡公園(具志頭グスク跡)」。
公園の周囲をめぐる道を海側に回り込んだ先に、石段があった。



近づいて。
この石段の先にあるのが「暗御門(くらしんうじょう)」。
「暗御門」は尚巴志の三男、具志頭王子の墓だと言われ、具志頭城跡の真下にある。
沖縄戦では米軍の港川上陸に備えて自然洞穴を拡張して構築された陣地壕である。



しかし案内板には
クラシンウジョウのご利用に関して
この壕は地権者と具志頭区の同意のもと自然体験学校が管理することとなりました。
壕の見学に関しては有料となりましたので人壕のご希望の際は下記までご連絡ください、'
無断での入場に関しましては固くお断りいたします。
ただし、拝所等の利用については除きます」と。
よって「​暗御門​」👈リンク を訪ねることは諦めたのであった。



よって公園の周囲をめぐる道を廻り込んで「具志頭城跡公園」に到着。
案内板によればこのグスクが築城されたのは十四世紀初頭とされ、英祖王統第二代大成王の
三男である具志頭按司によるものだといわれているようです。しかしグスクの跡はほとんど
残っていなかった。
その代わり、広々とした公園内は戦跡公園として整備されており公園内には「甲斐の塔」、
土佐の塔」、「具志頭村の慰霊碑」があったのだ。
最初に「甲斐の塔」へ。



「甲斐之塔」(山梨県)。
所在地  八重瀬町具志頭
設置    1966 (昭和41 )年11月8日
面積    761m2
合祀者数  22,048柱
                (沖縄戦戦没者524柱、
               その他諸地域戦没者21,524柱)
設置社   山梨県
清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団
      ☎098-997-2765
      Mail:heiwakinenzaidan@heiwa-irei-okinawa.jp
      HP:http://heiwa-irei-okinawa.jp



山梨県 甲斐の塔」。



甲斐の塔
所在地   沖縄県島尻郡八重瀬町具志頭
建立年月日 昭和41年11月8日
敷地面積  761m2
合祀者数  22,063柱(平成29年8月現在)
      (沖縄戦戦没者551柱、その他諸地域戦没者21,512柱)
塔建立の経緯
「甲斐の塔」は、先の大戦における山梨県関係戦没者を慰霊するため、昭和41年11月8日に
「山梨県出身大東亜戦争戦没者慰霊塔建設委員会」が山梨県産の原石を用いて建立したものです。
以来、甲斐の塔維持管理委員会(山梨県、山梨県議会、山梨県市長会、山梨県町村会、
山梨県市議会議長会、山梨県町村議会議長会、一般財団法人山梨県遺族会の7団体で構成)が
維持管理にあたり、毎年11月8日を「甲斐の塔」慰霊巡拝の日と定め、遺族代表者と関係者により
碑前で慰霊祭を行ています。
当地選定の経緯
八重瀬町(旧具志頭村)は山梨県出身の戦没者が多かったところです。そこで、山梨県南巨摩郡
身延町(旧中富町)中山出身の山中幸作氏が、私費を投じ、昭和28年6月1 5日、当時の天野久
山梨県知事の筆になる石碑を当地に建立し、沖縄戦で戦死した山梨県出身者の慰霊祭を
行いました。こうした経緯から当地が選定されたもので、この石碑は現在も「甲斐の塔」の
敷地内にあります。
同氏は建設会社の社員として沖縄に滞在中、慰霊のため、この石碑を含む5基の供養塔を各地に
建立しました。その後、同氏は昭和33年に御逝去されましたが、山梨県では、その功嘖を讃え
昭和3 9年に感謝状を贈呈しています。」



「慰霊顕彰碑」と「戦没者名簿刻銘板」。



反対側。



「慰霊顕彰碑」。



「碑文
この慰霊塔は過ぐる大戦に於いて、本土防衛の第一線として百万県民が肉親を失うという
多大な犠牲を強いられ無念の最後を遂げられた戦没者の鎮魂と恒久平和の願いを込めて
七千余村民の総意で建立されたものである。
その霊域に具志頭村遺族会、創立40周年記念事業として新たに慰霊顕彰碑と戦役者御芳名を
建立し平和の礎となられた犠牲者の遺徳を忍び感謝の誠を捧げ末永く後世に語りつげられること
祈念申し上げます
    平成五年六月吉日建立
           具志頭村遺族会」



「慰霊顕彰碑の隣に建立されていた「忠魂碑」。



「陸軍大尉中山忠之」の文字が。



「魄粋之塔(はくすいのとう)」。
昭和28(1953)年6月、旧具志頭村によって建立された納骨堂と慰霊碑。



「魄粋之塔」。



「魄粋之塔
所在地   八重瀬町具志頭
設置    1953 (昭和28)年6月
合祀者数  10,150柱
設置者   八重瀬町
清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団
      ☎098-997-2765
      Mail: heiwakinenzaidan@heiwa-irei-okinawa.jp
      HP:http://heiwa-irei-okinawa.jp」



「慰霊塔」。



そして「甲斐之塔」。
太平洋戦争中、沖縄、南方諸地域で戦没した山梨県出身者22,048名を祀る。
うち沖縄戦での戦没者は524名である と。



近づいて。
「この塔は山梨県中富町山中幸作氏が昭和26年6月本土他府県にさきがけて建てた慰霊塔の
第1号である。
当時氏は某建設会社の社員として渡沖し、業務のかたわら苛烈な戦蹟を訪ねまわり郷土山梨県人の
散華の地と聞いては各所に私費を投じて塔を建て、英霊に供養したが、その5基中の1基である。
碑面の「慰霊塔」の文字は山梨県知事天野久氏の書であるが、之等一切の経費は自身の月給を
さいてまかなったのである。
今回全県民の熱意によって「甲斐之塔」が見事落成したのも、正に氏の遺業がもたらしたものと
信じ、本会は氏の遺徳をたたえ顕彰状を贈呈して茲にこれを記したのである。」と。



太平洋に臨む。



光る海。



港川漁港方向を見る。



海に突き出たザ・サザンリンクスゴルフクラブ。



「高知県所有地」と。



「香南市 八重瀬町 姉妹都市」柱。
ここ八重瀬町の姉妹都市は高知県香南市。



「英霊が結ぶ交流
高知県・八重瀬町交流会
土佐の塔(高知県)
◆昭和41年11月22日建立
◆南方地域戦没者 17,713柱
◆沖縄戦での戦没者   832柱」



「第三回土佐の塔参拝記念」碑。



そして「土佐の塔」。



「土佐之塔(高知県)
所在地   八重瀬町具志頭
設置    1966 (昭和41)年11月22月
面積    3,312m2
合祀者数      18,545柱
                  (沖縄戦戦没者832柱、
                  南方諸地域戦没者17,713柱)
設置者   高知県
清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団
      ☎098-997-2765
      Mail: heiwakinenzaidan@heiwa-irei-okinawa.jp
      HP:http://heiwa-irei-okinawa.jp」



「土佐の塔」。



「塔の由来
ここ具志頭の丘は第2次世界大戦の戦跡であり、吾が郷土出身戦没者にゆかりの深い土地として、
また隣接地はかつて津村久茂氏が慰霊塔を建立したところでもあり、今次大戦に散華された
勇士の霊を弔うに相応しい処として、英霊の遺された崇高な御精神を讃えるため全県民の浄財と
郷土産の石材をもって土佐の塔を建てます。
この塔が世界悠久の平和につながり、民族永遠の繁栄をもたらすことを希ってやみません。
茫洋たる大洋、紺碧の空、そして孤島に散華せられた英霊よ、安らかに鎮まりませと祈りつつ
この塔の由来を記します。
昭和四十一年十一月
高知県知事 溝渕増巳
高知県戦没者慰霊土佐の塔建立期成同盟会会長
高知県議会議長 宮本迪」



断崖とその先の平らな場所はザ・サザンリンクスゴルフクラブ。



ズームして。
断崖絶壁の海岸が何キロも続く景勝地。



南端には四阿が。



そして、駐車場の近くにあった「具志頭城内之御嶽」。



「具志頭城(ぐしちゃんじょう)」案内板。



「具志頭城
具志頭城は、十四世紀の中期頃に(英祖王統)第ニ代大成王の第三子具志頭按司が築城した
ものと伝えられ、以来、代々の具志頭按司の居城であった。その規模は、およそ
ニ万五千七百平方メートルもあり、沖縄の古城跡の中でも大きい方で、自然の断崖上に
構えられた山城形式にして、連郭式の城である。
この具志頭城の北方すぐ近くには、この城の出城としてのミドリ城がある。
ミドリ城は、玉城城なとの城主からの攻擘に対しての見張所であったと伝えられている。
南側には、高ヤツクヮと呼ばれる見張りヤグラの石垣遺構がある。高ヤツクヮは、南山城や
多々名城なとに対する構えとしての見張台であったと言われている。
代々の具志頭按司は、盛んに海外貿易を行った。その貿易港は、城下を流れている白水川の
下流に広がる内海であったと伝えられている。
   八重瀬町教育委員会」



次に「慶座絶壁(ギーザバンタ)」に向かって「国道331号」を進む。



そして「慶座絶壁(ギーザバンタ)」に到着。
「慶座絶壁(ギーザバンタ)」は、沖縄県南部の八重瀬町に位置する標高40数メートルある
断崖絶壁。太平洋に面した海が一望できる絶景スポットで、まだ雑誌やメディアにあまり
紹介されたことがないので人も少なくゆっくりと観光スポット。
海に落ちる滝が有名な場所でもあり、潮が引いている時には整備されている道路を下り、
下から滝を見上げることもできる。滝と海のコラボは、なかなか他の場所では経験できない
貴重な場所。美しい絶景が見られるギーザバンタは、悲しい歴史がある場所でもあり
太平洋戦争末期の沖縄戦・南部戦線で米軍に追い詰められた多くの人々が身を投げた悲劇の地とも
言われているのだ。よって沖縄戦の際に米軍からスーサイドクリフ(Suicide Cliff=自殺絶壁)と
呼ばれた場所。
石畳の坂道を下って行った。



北方向の絶壁。



南方向の絶壁。



しかし途中からは、道がなく急峻な崖が続いたいたので下に降りるのを諦めた。
前方の水平な場所はゴルフ場・「ザ・サザンリンクスゴルフクラブ」。



ゴルフを楽しむ方の姿も見えた。



この場所もスーサイドクリフ(Suicide Cliff=自殺絶壁)であったのだろうか。



巨岩がゴロゴロと。



慶座の」。
見下ろすが、雑草が生い茂って。



滝の上から少し内陸にいったところには、農業用の地下ダム(慶座地下ダム)がある。
地下水を貯めて周囲の農家が利用している。この貯水容積が小さいので、雨が降ったり
地下水が貯まりすぎて溢れると、滝として海に流れ出ることに。
それがこの「慶座の滝」。



下から見上げた「慶座の滝」をネットから。
水量の多い時のものであろう。



そして近くにあった「慶座井(ギーザガー)」を見る。



「慶座井」案内柱。



「史跡 慶座井(ギーザガー)
慶座井は、八重瀬町字安里(旧具志頭村)に位置する古井戸です。
文久年間(1861~1863年)、首里王府の農村施策に基づき具志頭間切(現在でいう行政区)でも
慶座原を開拓し、新村落の建設を図りました。しかし、慶座原は琉球石灰岩丘陵部台地上に
あることから、水の便が悪く、飲料水や生活用水の確保が開拓の問題でした。
近くにある慶座バンタには、海に面した断崖の中腹から吹き出す滝があり、豊富な水量で海に
流れ落ちていたことから、この水脈を台地上で掘り当て、井戸として利用するために大規模な
慶座井建設工事を行いました。工事は首里王府の監督下で行われ、各村の16歳以上60歳までの
男性が工事の労役に従事しましたが、結局水脈をつきとめることはできず、工事はほぼ失敗に
終わりました。
慶座井は、半円形状に垂直に掘り下げられ、三段構造になっており、内側を「 あいかた積み」の
技法を使って築造しています。
規模・形状は、上部で東西の長さ約35メートル、南北の長さ約15メートル、下部の直径は約7.5
メートル、深さ約10メートルの円錐形を成しています。」



「史跡 慶座井(ギーザガー)」写真をこれもネットから。




                              ・・・もどる・・・


                  ・・・つづく・・・





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Last updated  2022.12.13 09:53:10
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