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カテゴリ:JINさんの農園
「飯田橋ラムラ(RAMLA)」のアーケード中央通路を歩き、再び「牛込橋」に出る。
![]() そして「神楽坂下」交差点を渡り、神楽坂1丁目を歩く。 ![]() 「外堀通り」を「飯田橋」交差点方向に向かい、途中左折して、先日歩いた「軽子坂」を上る。 ![]() これは前回の写真。 「軽子坂 この坂名は『新編江戸志』や『新撰東京名所図会』などにもみられる。 軽子とは軽籠持(かるこもち)の略称である。 今の飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠 (縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいた ことからその名がつけられた。 平成十五年三月 新宿区教育委員会」![]() そして最初にあった狭い路地を左折して「軽子坂」側から入る。 ![]() ここが「神楽小路」と。 神楽小路は、狭い路地に、洋食屋、ラーメン屋、蕎麦屋、飲み屋、スナックなど飲食店が 所狭しと密集して並んでいた。 ![]() 「神楽小路」は神楽坂下を神楽坂上方面に上って最初の路地で、外堀通りと平行する神楽坂通りと 軽子坂(通り)を結ぶ小路。 神楽坂の幾多の小路中、神楽を冠する小路であるから、神楽坂の小路の親分格なのであろう。 ![]() 左手にあったのが「神楽小路 みちくさ横丁」。 「みちくさ横丁」の入り口は、神楽小路に面し、みちくさ横丁自体は袋小路であった。 看板に「神楽小路・みちくさ横丁」とあるように、みちくさ横丁はあくまで神楽小路の一部 なのであろう。 ![]() 短い横丁であるが、「みちくさ横丁」は昼間でも昭和の匂いの残る実に個性豊かな味わいのある 横丁であった。 会社帰り、この辺りでみちくさして、なかなか帰らない・帰りたくないサラリーマンが、今宵も 沢山いること間違いなし。 ![]() みちくさ横丁の奥から神楽小路方向を見る。 昼間はそば屋さんがメインのようであるが、夜ともなればスナックやバーなどが営業して いるようであった。 ![]() 右手の行き止まりの路地は「神楽小路横」と。 ![]() 「神楽小路」には小さな料亭の如き店も。 ![]() 「神楽坂通り」に出て「神楽小路」を振り返る。 立派な「神楽小路」と書かれた標識が立っていた。 この後、他の横丁を訪ねたが、この様に毅然と自己主張する標識はなく、神楽坂最初の小路 として大事にされている小路なのであろう。 ![]() 「神楽小路」入口の反対側近くにあったのが1869年(明治2年)創業のうなぎの老舗「志満金」。 明治2年の創業当時は、日本に数件しかなかった牛鍋の店だったと。 ![]() 最近のうなぎ店にありがちな甘いタレではなく、昔ながらのキリッとした辛口で、サッパリする 味わいは至高 と写真と共にネットから。 ![]() 残り少ない後ろ髪を引かれながら「神楽坂通り」を上って行く。 ![]() ここ右手にも行き止まりの路地が。名前はあるのか?? ![]() ネットで調べて見ると、神楽坂の地図👈リンク と、路地、通り、横丁、小路、坂と石畳の解る 地図がありましたので、アップさせていただきます。 ![]() 神楽坂通りは「早稲田通り」とも呼ばれている。 ![]() こちらが「釈迦の手」のあるビル。 「釈迦の手」は、神楽坂にあるリラクゼーションサロン。 スタッフは、あん摩マッサージ指圧師や鍼灸師などの国家資格を取得。 タイ古式マッサージ、ヘッドケア、フットケアなどのメニューがあるとネットから。 ![]() その先を右手に折れ「神楽坂仲通り」へと歩を進める。 ![]() 「神楽坂仲通り」と。 ![]() ズームして。「Kagurazakanaka-dori」とも。 ![]()
![]() 左手の急な石段の先が「芸者新道」。 地図には「芸者新路」と書かれてあったが。 ![]() 石段を上って行く。 ![]() 入口右手にあったのが「九頭龍蕎麦」本店👈リンク。 福井の郷土料理と、おろし蕎麦でおもてなしをするお店 北陸の風土が育んだ 一本筋の通った料理とこだわりの福井の酒で 心身ともに満たされる食のひと時を楽しんでもらえることを願っている 【店長のメッセージより】 ![]() 「九頭龍物語 むかしむかし、奥越前(福井)のある村に働き者の若者がおったとさ。 あるとき村は 大変な干ばつにみまわれこのままでは農作物が 干上がりそうだった。 隣りどうしの村々、人々は我さきにと、水を奪い合った。 「上で水堰き止めんなえれ」(上で水を止めんなよ) 「ほんなもんしるけ!」(そんなもん知るか) 「あや~」(阿呆) 「うってー事いてんなや」(馬鹿なこと言ってるんじゃないよ) そうこうするうちに 鋤や鎌を持ち出して とうとう大げんかになってしまった。 それを見ていた若者は 川の大神様に祈り続けた。 「うららみんな本当はなかようやっとんじゃったのに」(みんな仲良くやっていたのに) 「なんとかしておくねーの」(どうか何とかしてください) 大神様は村の有り様を知り 「今こそ、九頭龍、おまえの出番だ。村の人々のために働きなさい」 そう言って 長年岩に閉じ込めていた 荒くれ九頭龍を放免された。 ![]() 大神様に許された九頭龍は 力いっぱい岩を破り 雨を降らせた。 村人たちは九頭龍に 心から感謝し 一生懸命力を合わせて働いた。 なんと、その年は 村始まって以来の、豊作だったそうな。 村人たちを助けた九頭龍は その後も川に住み 村人たちを守り続けた。 そうして いつのまにやら村人たちは その川を九頭龍川と呼び 九頭龍は五穀豊穣の神様として いつまでもいつまでも、大切に祀られたとさ。 めでたしめでたし ![]() その先、右手にあったのが鴨料理専門店「鴨匠」👈リンク。 ![]() 左手にあったのが「炭火焼肉 神楽坂 牛ます」👈リンク。 ![]() 4店の店舗がある建物の壁には「芸者新道 Rosy」と。 ![]() 突き当たった路地が「本多横丁」。 右手に折れ「軽子坂」の先の方向に進む。 ![]() ネムノキに似た花であるが名前は?緋合歓(ひねむ)? ![]() 花に近づいて。 ![]() 「本多横丁 江戸中期から明治初期まで、この通りの東側全域が旗本の本多家の邸地であった」 ![]() 引き返して、神楽坂通りに向かって進む。 ![]() 石畳が一面に敷かれた「本多横丁」。 ![]() 「本多横丁 その名の由来は江戸中期より明治初期まで、東側全域が旗本の本多家の邸地であったことによる。 御府内沿革図書第十一巻切絵図説明に、本多修理屋敷脇横町通りとあり、往時は西側にも 武家屋敷の立ち並ぶ道筋であった。なおこの本多家は、碌高1万5百石をもって明治を迎えた 大名格の武家と伝えられる。 神楽坂界隈は明治以降、縁日と花柳界で知られる商店街として発展し関東大震災後より昭和初期 には、連日の夜店が山の手銀座と呼ばれる賑わいをみせ、この横町も、多くの人々に親しまれる ところとなった。 後の太平洋戦争末期には、この地も空襲により焼土と化したが、いち早く復興も進み、やがて 本多横丁の旧名復活を期して商店会発足となった。 石畳の路地を入れば佳き時代の情緒を伝え、また幾多の歴史を秘めて個性豊かな商店通りとして 歩みを続けている。 昭和60年(1985)7月 本多横丁商店会」 ![]() 右手に「八千代鮨」👈リンク。 ![]() その先、右手に折れ黒塀に囲まれた狭い路地を進む。 ここが「から傘横丁」。 「から傘横丁」は、かつてここにあった店でよく傘が干されていたことに由来していると。 ![]() そして、右に折れて進むと「ようこそ かくれんぼ横丁へ」。 ![]() 通行止めであったので、左手に折れさらに「かくれんぼ横丁」を進む。 この路地内には、東京都で初の五つ子の母の実家がある。この五つ子ちゃんが歩けるように なって、実家の路地内でかくれんぼ遊びをしていたことから「かくれんぼ横丁」と呼ぶように なったと。 また、「かくれんぼ横丁」は、旦那衆が「おしのびで来るから」という説もあると。 ![]() 更に狭い路地に。ここも「かくれんぼ横丁」。 ![]() 次に訪ねたのが「見返り横丁」。名前の由来は定かではないと。 手前にあったのがイタリア料理店「HAJIME NO IPPO」。 ![]() さらに路地を進む。 この先右手にあったのは会席・懐石料理店「牧」。 ![]() その先は行き止まり。 ![]() 階段下にも店のような入口があったが。 ![]() 「旧常盤家本館(石合家住宅主屋)」 国指定の登録有形文化財(建造物)。 昭和25年築で、昭和29年に増築されていると。木造2階建で、瓦葺、建築面積は219㎡。 南面中央の坪庭をコの字型に囲む3棟からなり、唐破風を載せた庇付の玄関を北棟西面に付設。 銘木を多用し、客室の障壁画や浴室のステンドグラスなど豊かな装飾が特徴。 ![]() 「常磐◯」と刻まれた門柱。 こちらのお宅は、昭和40年頃まで待合をされていた建物。 南面中央の坪庭を、コの字型に囲む3棟からなっていると。 玄関は唐破風の庇付きで、銘木を多用し(元材木商だそうです)客室の障壁画や浴室の ステンドグラスなど、豊かに装飾された近代待合の趣が溢れていると。 ![]() 「石合家住宅主屋」の「石合」と刻まれた門柱も。 ![]() こちらは源氏物語の部屋と(ネットから)。 ![]() 唐紙に描かれた源氏物語(ネットから)。 ![]() 「軽子坂」まで戻りさらに西に進む。 ![]() この道は先日お好み焼き「春波」に向かって歩いた道。 ![]() この先の路地を左折。 ![]() ここは「兵庫横丁」。 石畳の路地に老舗の料亭。新宿区まちなみ景観賞も受賞している情緒あふれる兵庫横丁。 戦国時代に牛込城の武器庫(兵庫)があったことが名称の由来とのこと。 ![]() 左手の「和可菜」は閉業したと。 兵庫横丁にある旅館「和可菜」は、昭和の大女優小暮実千代の実妹・和田敏子さんが女将だった こともあり、作家や脚本家たちが缶詰になる旅館として、その筋では有名だった。 横丁内のレトロな雰囲気のこの旅館では、野坂昭如氏や山田洋次氏などが滞在し、数々の名作を 誕生させた と。 2015年末から事実上閉館状態だったが、隈研吾建築都市設計事務所の手で再生予定 とのことで あるが進捗は如何に。 ![]() 右手にあったのが会席・懐石料理店「幸本(ゆきもと)」👈リンク。 創業七十年の歴史ある神楽坂の料亭「幸本」。 ![]() 「第五十回 幸本会」案内。 初めて芸者衆の踊りをお楽しみいただく方にお薦め と。 ![]() 「幸本」の入口格子戸。 ![]() さらに「神楽坂通り」に向かって路地を進む。 ![]() 「坂道、通り・路・道、横丁」 案内図をつくって見ました。 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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