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JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.03.10
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カテゴリ:国内旅行
久能山東照宮の楼門を潜り振り返って



右手にあったのが「家康公御手形」。
(i家康公三十八歳の時のもの)
推定身長 一五五cm~一五九cm程度
御手形を写した色紙は授与所にて一五〇〇円で頒布しております。」



家康公御手形
天正八年
(1580)辰十一月ニ日家康」と。
自分の手を重ねてみると意外と小さいと感じたのであった。
手形には知能線と感情線がつながった一本の線がはっきりと。
これはますかけ線と呼ばれるもので、「天下取りの手相」としても知られているのだと。
現代でもこの手相の持ち主は、天下を支配するほどの天運・強運の持ち主が多いとされて
いると ネットには。



楼門の狛獅子(右)。



お顔をズームして。



楼門の狛犬(左)。




お顔をズームして。



楼門の先、左手にあった仮設の建物は何であっただろうか?売店?



極彩色の楼門・右側を見上げて。



極彩色の楼門・左側を見上げて。



中央の蟇股の獏(ばく)の彫刻。



右の蟇股。



左の蟇股。



久能稲荷神社」と「厳島神社」は 合殿され楼門を入った右手に建っていた。



朱の鳥居が並ぶ。



久能稲荷神社(左)
御祭神  保食神
御例祭日 4月9日
東照宮の創建前から 久能山頂近くに鎮座していたが 明治年代に暴風で社殿が倒壊し 現在地に
遷座したという。

厳島神社(右)
御祭神  市杵島姫命
御例祭日 6月17日
明治期の神仏分離により 元辨財天が厳島神社になったという。



おもと」園。



おもと奉納 平成二十八年五月吉日
平成28年5月10日家康公を祀る久能山東照宮へおもとを奉納
公益社団法人日本おもと協会名誉会長青木慶祐他日本おもと協会会員13名おもと品種44種、
本数152株をお祓い所周辺に地植えしました。
植え付けたおもとの品種は
薩摩富士・外輪山・東天光・桜島・太陽殿の虎・雪中の松・残雪・五大州・駿河富士・福の光・
錦秀の松・霧島・白峰・曙・阿賀野川・天光閣・聖光都の図・紫雲楽・他と。



久能山東照宮全景



家康梅」。



家康梅 奉納 丸子梅園」。



家康梅
奉納者 丸子梅園
静岡県駿河区丸子
徳川家康公は“梅”をこよなく愛され、中でもこの「家康梅」は水戸の初代藩主頼房公
(家康公第11男)の出産を祝い、無事成長を祈り家康公自らお手植えされたと伝わる。
当初は浜松城内で栽培されていたが、後に水戸に移され、その後静岡の丸子梅園にて
接ぎ木して育成したものを由緒深き久能山東照宮に植樹されたものである。」  



「家康梅」の花。



手水舎」を正面から。



近づいて



そしてこちらは「河津桜」か?



久能山東照宮「神厩(しんきゅう)
家康の愛馬を飼育するために建てられた厩舎。
その昔、愛馬は夜になると家康の神廟の脇で休み、朝になると厩舎で餌を食べていたそうです。
ある朝、馬が厩舎に戻らなかったため神廟を確認したところ、静かに眠ったままの姿で見つかり、
その話を聞きつけた名工、左甚五郎が愛馬そっくりに彫刻し、この厩舎に納めたと伝えられて
います。



近づいて。
「神馬 縁結び・子授け・安産・無病息災」と。



金網越しに。



金網の隙間から。
名工、左甚五郎が愛馬そっくりに彫刻
し、この厩舎に納めたと。



久能の唐椿(トウツバキ)



久能の唐椿(トウツバキ)
中国の雲南省、貴州省、江西省の原産でナンキンツバキ、カラツパキとも呼ばれる。
延宝元年〈1673〉にわが国に渡来したと言われている。
八重・濃赤色の花は四月頃開く。唐椿は日本の椿とは植物分類上全く別種であり、繁殖は極めて
困難であるが長命・強健であるという。
     奉納者 静崎園 川口厚夫
      平成十ハ年三月」



花が咲くと(ネットから)。



石段の途中から「河津桜」越しに石鳥居を見る。



石灯籠が並ぶ。



「久能山東照宮 五重塔跡」。



三代将軍家光の命により建立された五重塔は30mを超えるもので久能山のシンボルだったが、
神仏分離令を受けて明治6年に取払われ、現在は礎石が残るのみ
ここでも、明治の廃仏毀釈、神仏分離の影響を受けていたのであった。



五重之塔 舊跡」碑。



五重塔跡
三代将軍家光公の建立て高さ約三十米輪奐(りんかん)美を極めたものである。
明治六年神仏分離で取払われ現在は在りし日を偲ぶ礎石を残すのみ中央の朝鮮蘇鉄は駿府城本丸
より移植したものてす。」



正面から。



残存する久能山五重塔の明治維新直前・直後のカラー化写真をネットから。
明治39年(1905)にカラー化 、大きさ : 26×38cm。



五重塔跡」横には奉納された酒樽が並ぶ。
東照宮の参道に展示されているは、「菰(こもだる)」と呼ばれるもの。
この酒はまこもという植物で編んだ「菰(こも)」と呼ばれるむしろのようなものをまと
っているため、「菰」または「菰冠(こもかぶりだる)」と呼ばれます。
ただし、現在はまこもをわらや別の素材で代用することが多くなっています。
菰は、もともと、江戸時代に上方(大阪や京都など)から江戸に船で酒を運ぶ際、大きな酒樽が
壊れないように巻いていたものであった。
表面には他の銘柄と区別するために、それぞれの銘柄が特徴的な文字や絵を描いたのですが、
そのデザインがユニークでインバクトが強いことから、店頭に並べられるなどして広告
や装飾の役割も担いました と。



石灯籠の奥の「鼓楼(ころう)」。



創建以来、鐘楼として扱われて来たが、明治時代の神仏分離の際、鐘楼は仏教施設であると
いうことから中身を太鼓に替え、現在の「鼓楼」となったとのこと。



石段上の「久能山東照宮 唐門と透塀」を見る。



八房梅」。



八房梅」案内板。



八房梅(紅梅)」の花。



唐門」を正面下から。



神楽殿」。
久能山東照宮神楽殿は元和3年(1617)に建てられた建物で、木造平屋建て、入母屋、
銅瓦葺、桁行5間、梁間3間、建物全体が朱色に彩色され、瓦と木組の端部、金物が金箔で
彩られています。現在はサッシが嵌め込まれていますが当時は開放的な建物でした。
東照宮に奉納される神楽が行われる施設でしたが、実際には行われず絵馬が奉納される絵馬殿の
ような扱いだったようです。久能山東照宮神楽殿は江戸時代初期に建てられた久能山東照宮の
境内をとして大変貴重な事から昭和30年(1955)6月22日に国指定重要文化財に
追加指定されています。



左に「実割梅(白梅)」。



実割梅(白梅)

DSC01113.JPG

「神楽殿」の内部。



徳川家康公。



「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。」



絵画・家康公像。



「葵の御紋」
葵紋は徳川氏の家紋として有名。もともとは京都の賀茂別雷神社、賀茂御祖神社の神紋だが、江戸時代は葵紋の使用が制限された。また徳川家康が天皇家から菊紋や桐紋の下賜を断って葵紋を使用し続けたことからより格を上げることとなった。
徳川葵:徳川葵紋は、3枚の葵の葉を頭合わせに並べて、通常の太さの丸で囲う。
    江戸幕府の将軍家、徳川家の家紋。日光市日光東照宮の神紋、東京増上寺の寺紋、
    京都市清凉寺の寺紋
徳川家康公:[三つ葉葵―みつばあおい]
      二葉葵の変形紋。「丸に三つ葵」とも言う。俗に言う「徳川葵」。
      徳川御三家では同じ「丸に三つ葵」を使用しているが、葉脈や芯の数など、細部に
      微妙な違いが見られる。植物のフタバアオイには三つ葉のものは非常にまれで、
      三つ葉葵は架空のもの。上賀茂神社の神紋であった葵を正式な家紋としたことから、
      上賀茂神社の出身であったと言われる。家康は威厳を知らしめるために、三つ葉葵に
      限らず「葵」を使用した紋の他家での使用を厳しく禁じた。
岡崎二郎三郎信康公:徳川家康の長男(嫡男)。母は関口親永(瀬名義広)の娘で今川義元の
          姪・築山殿。また、後に安祥松平家の居城の岡崎城主(愛知県岡崎市)を
          務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎 三郎と名乗った
丸に三葉葵:三つ葉葵紋は、徳川家康が三河国(現在の愛知県東部)の岡崎城主だった頃に
      出入りしていた呉服商人「後藤縫殿助」の御紋控書にも記録があり、徳川家康が
      天下人になる前から家紋にしていたことが分かります。
松平三葉葵:徳川将軍家の家紋である三つ葉葵の一種。徳川将軍家の家紋は「三つ葉葵」と呼ばれ、
      徳川家康が江戸幕府を開いた際に家紋として用いました。
水戸三葉葵:徳川家の家紋として知られる葵の一種で、葵の葉を3つ描いた家紋です。              
      微妙な違いがあり、種類が多いのが特徴です。
尾州三葉葵:徳川御三家である尾張名古屋藩徳川氏の家紋。3枚の葵の葉を頭合わせに並べて、
      通常の太さの丸で囲んでいます。尾州三つ葵とも尾州中納言葵とも呼ばれます。
紀州三葉葵:徳川御三家である紀伊和歌山藩徳川氏の家紋。3枚の葵の葉を頭合わせに並べて、
      通常の太さの丸で囲んでいます



葵紋の移り変わり
三つ葉葵紋は、徳川家一門だけが使うことを許されていました。
徳川家一門とは、将軍家と家康公の子孫である4家…御三家(水戸・紀州・尾張)と会津松平家の
ことです。
葵紋は将軍により少しずつ変化しています。
葉の芯の数が減ったり増えたり、並び方が変わったり、茎の太さや形が変化したり
四代目以降の将軍たちが、家康、秀忠、家光の三代の将軍を崇敬し、同じデザインでは
恐れ多いと変化させたそうです。
そして、御三家と会津松平家も将軍家に対し遠慮して、少し図案を変えました とネットから。



そして「神楽殿」の壁の手前にあった展示ケース。



多くのプラモデルが展示されていた。



「プラモデル」のはじまりは静岡から
静岡には『ガンダム』のプラモデルで有名なバンダイの工場をはじめ、青島文化教材社、タミヤ、
ハセガワ、フジミ模型とい。た世界的に名を知られている模型メーカーがあります。
その歴史をさかのぼると、徳川家康公が崇敬された静岡浅間神社の修繕や、久能山東照宮の造営に
際し、日本各地から優秀な職人が集められた事につながります。
職人達は工事が終わった後も温暖で風光明媚かっ、最大12万人の京、大坂、江戸に匹敵する
大都市の駿府に残り、雛人形や竹細工などの木工製品の製作に携わりました。
この技術が昭和に入り、木製の教育玩具や学習教材を生み出し、戦後の木製模型、プラスチック
模型の発展につながったのです。




                                ・・・​もどる​・・・




                 ・・・​つづく​・・










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Last updated  2024.03.11 07:36:20
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