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カテゴリ:JINさんの農園
海岸通りから1本山側の道を「鎮西八郎為朝神社」に向かって南下する。
横須賀市雨水マンホール蓋。 幕末に浦賀に来航したペリー提督と黒船をデザインし、市内の雨水及び合流のマンホール蓋に 使用しています。ペリー率いる黒船が浦賀に来航した1853年、当時の人々は大きな船体を見て 大変驚きました。4隻の船をお茶の銘柄に掛けて「太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった 四杯で夜も眠れず」と風刺したほどです。この黒船の来航後、日本は長い鎖国から開国へと 向かうこととなります。現在横須賀市では、ペリー来航や開国を記念した多くのイベントが 行われています。幕末を混乱の渦に巻き込んだ一大事。その主役のペリーも、黒船も、 現在では開国のシンボルとして市民から親しまれています。 と「日本マンホール蓋学会」のHPから。 ![]() そして「鎮西八郎為朝神社」前に到着。 横須賀市西浦賀4丁目3−7。 ![]() 「為朝神社」の案内表示は破れて。 ![]() これであろうか!? ネットから。 「為朝神社(ためともじんじゃ) 祭神 源為朝公 御神徳 疱瘡除け 航海安全 例祭 六月第ニ土曜日 宵宮祭 (奉納舞 虎踊り) 日曜日 神輿渡御」![]() 「為朝神社」は浜町(西浦賀4丁目)の鎮守で、その名のとおり源為朝を祀っている。 「浜町 (地名の由来) 西浦賀4丁目のこの辺り(為朝神社)を浜町と言います。文字通り、浦賀湾に面した磯浜の 広がる地域であったことから付いた名称です。浜町は元は広い範囲を占める「川間」の 一画でしたが、漁を業とする人々の集落として発展し、この名称になりました。 この地に伝わる「虎おどり」は、奉行所が伊豆の下田から浦賀に移った時に一緒に移ってきた 下田の廻船問屋の人々が演じたものと言われています。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」 ![]() 靖国鳥居の前には、台石に町内安全と刻まれた安政3年(1856)建立の 「秋葉山常夜燈」が。 ![]() 灯籠の火袋に力強い為朝の顔と笹竜胆(ささりんどう)が。 ![]() 石鳥居越しに「為朝神社」の拝殿を見る。 祭神は源為朝。 浜町(西浦賀4丁目)の鎮守になっている。 寛政12年(1800)頃、浜町の漁民が、海に漂流していた木像を引き上げ、地蔵堂に安置したのが はじまりだといわれます。そして功が多く、鎮西八郎為朝の像であったといいます。 創建は文政期(1820年代)であり、航海及び疱瘡除の神様として信仰を集めていました。 源為朝は源頼朝の父の弟にあたり、保元の乱で父・為義とともに戦って敗れ、伊豆大島に流罪と なりました。 為朝は、その強弓を恐れられ腕の筋を切られて大島に流され、流人生活の果て、許されることなく 没しました。古来より、悲劇の武将の怨念を恐れ、神として祀ることによって、逆に災いを転じて 福をもたらすと考えられてきました。 後世に疫神として、疱瘡神とし、当時人々に恐れられていた疱瘡の病を、為朝の怨霊の力で なおしてもらおうと期待していたのです。 この地に伝えられている「虎踊り」は、伊豆下田から 伝えられたもので、 県の無形文化財に指定されています。 毎年6月、為朝神社祭礼が行われます とネットから。 ![]() 右手にトタン屋根の「手水場」。 ![]() 「県指定重要無形民族文化財 国選択無形民俗文化財 横須賀の虎踊 所在地 横須買市浦賀四丁目(浜町) 指定年月日 昭和五十一年(一九七六)十月十九日 選択年月日 平成十六年(二〇〇四年)二月六日 虎踊は、享保五年(一七二〇年)、奉行所が伊豆下田から浦賀に移った時に伝えられたと いわれています。 近松門左衛門の「国姓爺合戦」における和藤内の虎狩りの場面を取り人れた芸能で、ここ 為朝神社に特設舞台をつくって演じられます。 和藤内の登場に始まり、太唐人が引き連れた唐子の踊り、そして虎の出現と虎の舞 (舞台を自由にふるまい数種の芸を披露)と進行し、最後に和藤内が虎を神符で成敗し、見えを 切ります。 虎は親子二体で、親虎には青年、子虎には少年が二人ずつ入り、和藤内は男児、唐子は女児、 大唐人は成人男子が演じます。 記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択された「横須賀の虎踊」は、 浦賀と野比の虎踊が対象です。 令和四年(二〇二二年) 横須賀市教育委員会」 ![]() 「虎踊👈️リンク の概要」 虎の着ぐるみを用いた舞に、歌舞伎や唐人踊りを採り入れた民俗芸能。 虎は親子2体で、虎の頭は本邦880社の神符を貼って作られ、親虎には青年、子虎には子どもが 2人ずつ入り、笛や太鼓に合わせて動く。踊りは、近松門左衛門の「国姓爺合戦」を題材に、 和藤内(男児)唐子(女児)、太唐人(成人男子)たちによって踊られる。 海外舞踊の組み踊り様式を取り入れた唐子踊り、虎の出現で子供が退散して虎が舞台上を自由に 振舞い、それを和藤内が神符で押さえてみえを切り終わる。 別のネットには 虎踊👈️リンクは、獅子舞のように虎の頭をかぶった虎が暴れるように踊る踊りです。 浦賀の虎踊は、享保5(1720)年に伊豆下田の奉行所を浦賀に移した時、共に移り住んだ 町人によって伝えられたといわれます。 昭和51年10月に県指定重要無形民俗文化財に指定され、平成16年2月には野比中村の虎踊と共に 国の「記録等の作成を講ずべき無形民俗文化財」に選択されました。 踊りは、近松門左衛門作の国性爺合戦の主人公、和藤内の虎狩りを題材とします。 和藤内は男児が演じ、女児による「唐子踊り」の後に、大小二頭の虎が登場します。 大虎は成人男子、小虎は未成人男子が扮し、笛、三味線、太鼓、鉦に合わせて「一本杉」 「虎返し」「鶴の飴拾い」「しっちょい」といった芸が披露されます。 やがて、和藤内が叶明神の木札をかかげ、虎を退治して幕となります と。 (※パンフレットより) 「親子の虎」。 ![]() 「和藤内(男児)」と虎。 ![]() 狛犬(右)。 ![]() 狛犬(左)。 ![]() 昭和30年(1955)造立の一対の「天水桶」には源氏の代表紋である笹竜胆(ささりんどう)が。 ![]() 拝殿頭貫の見事な彫刻。 この物語は? ![]() ズームして。 ![]() 扁額「鎮西八郎 為朝神社」。 ![]() 木鼻は横向きの獅子。 ![]() 内陣。 ![]() 「為朝神社」の入母屋造りの拝殿を斜め左から。 拝殿後方に本殿鞘堂の姿が。 ![]() 神輿庫であっただろうか? ![]() ここにも見事な彫刻が。 ![]() 「虎踊」の舞台建設用の足場パイプであろうか? ![]() 「為朝神社」の拝殿の屋根にも社紋「笹竜胆」が。 ![]() その先にも神社の石鳥居が見えた。 ![]() 「花稲荷神社」。 横須賀市西浦賀4丁目。 ![]() 石鳥居の扁額「花稲荷」。 ![]() 真っ赤に塗られた社殿。 ![]() 扁額「詩庫三◯祠?」 ![]() 内陣。 ![]() 浦賀地区には稲荷神社が多いのであった。 お狐様(右)。 ![]() お狐様(左)。 ![]() 石祠。 ![]() そして次に訪ねたのが石段の上にあった、これも「仲稲荷」。 ![]() 「正一位 仲稲荷神社 例祭 二月初午 例祭日 二月十一日 御神徳 商売繁盛」 ![]() 急な石段を上る。 ![]() こちらも真っ赤な社殿。 ![]() お狐様(右)。 ![]() お狐様(左)。 ![]() ここにも石祠。 鳥居は塩ビ製。 ![]() 社殿の内陣。 ここにも沢山のお狐様が。 ![]() 社殿前から石段を見下ろして。 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.05.10 11:44:24
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