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カテゴリ:JINさんの農園
この日は5月3日(金・祝日)、前回訪ねる事が出来なかった、西浦賀にある
「千代ケ崎砲台跡」そして「ポンポン船」に乗り「東浦賀」に渡り、「東浦賀」の名所旧跡を 巡ることとする。 早朝6:40過ぎに自宅を出発し小田急線、横浜市営地下鉄を利用して 京急「上大岡駅」へ。そして特急「京急久里浜」行きに乗り「京急久里浜」駅に向かう。 前回、「ペリー上陸記念碑」から引き返す際に、訪ねたかった場所があったが、時間的に 無理と判断し、次回に訪ねようと考えていたからである。 ![]() そして8時前に「京急久里浜」駅に到着。 ![]() 「京急久里浜」駅の改札口を振り返って。 ![]() 東口に出て、「平作川」に向かって散策開始。 ![]() 右手奥にあったのが「はろーど久里浜」商店街。 ![]() そして「平作川」に沿った国道134号に出る。 ![]() 「国道134号」は、起点の横須賀市から、三浦半島や湘南地方を海岸線に沿って通行し、 国道1号との接点である、終点の中郡大磯町に至る路線で、神奈川県の海岸線を東西方向に 結んでいる一般国道。 「国道134号」の起点が、横須賀市内の東京湾沿いの横須賀市三春町二丁目の国道16号で あることを初めて知ったのであった。 ![]() 横須賀南警察署(旧浦賀警察署)久里浜交番が右手に。 ![]() そして「国道134号」が「県道210号線」、「県道211号線」と交差する 「夫婦(めおと)橋」交差点。 なぜ「国道134号」に「線」を付けないのでしょうか? 国道の路線名や起終点、経由地を規定した「一般国道の路線を指定する政令」において、 各国道の路線名は「〇号」と、「線」が付けられていません。 したがって国道においては、「国道1号」などと「線」を付けない表現が正しいことを 以前に知ったのであった。 ![]() 複雑な道路標識をズームして。 この交差点で直角に曲がる国道134号、そして県道210号線、県道211号線の表示が。 県道210号線は夫婦橋で平作川を渡ると国道134号・神奈川県道211号久里浜港 久里浜停車場線と合流、両道路との重複区間となり、平作川右岸を進んで終点・ JR久里浜駅に至る。 県道211号線の起点では神奈川県道212号久里浜港線から分岐し、暫く海岸沿いに北東へ 向かったのち開国橋付近から平作川に沿って北西へ進む。夫婦橋では国道134号・神奈川県道 210号浦賀港久里浜停車場線と合流し、両道路との重複区間となってJR久里浜駅前へと至る。 ![]() 「国道134号」には面白い道路名「尻こすり坂通り」と。 1853年、開国を求めにアメリカからやってきたペリーが初めて日本の地を踏んだのが、現在の 横須賀市久里浜。ペリー上陸の地から車で5分ほど、国道134号線沿いに「尻こすり坂通り」と いう標識が掲げられている。急坂のため荷車を押して坂を通ると、荷車の後部が擦れてしまう ことから名付けられたという。「尻こすり坂通り」の全長は約3.3km とネットから。 さすがに、歩行者の尻こすりではなく荷車の尻こすりであるようだ。 ![]() 横断歩道を渡ると前方・夫婦橋のたもとに高さ2.1mの笠塔婆型の 石塔が立っていた。 ![]() 「内川新田開発記念碑(うちかわしんでんかいはつきねんひ)」。 内川新田開発記念碑は砂村新左衛門政次が、万治3年(1660年)から8年を費やして完成した 内川新田開発工事の記念碑である。 ![]() 「横須賀市指定史蹟 内川新田開発記念碑 昭和四十三年五月十日指定 この石碑は砂村新左衛門政次が、万治三年(一六六〇)より寛文七年までの八か年を ついやして苦心のすえに完成した内川新田開発工事の記念碑である。 碑文によれば、内川入海の新田工事は、労苦の積み重ねで、ことに水門建設は難事業であった ことが知られ、完成にさいし、神仏の加護に感謝する思いがしるされている。 この新田開発によって当初は三百六十石余りの生産高が得られ、さらに数年後に二百二十五石の 増加があったという。 本市内における最大の新田工事であり、また久里浜の発展過程を知る貴重な史跡である。 砂村新左衛門は当時、土木事業の数少ない指導者で、江戸の砂村新田、横浜の吉田新田など多くの 新田開発にその手腕を発揮した。 寛文七年十二月十五日に歿し、その墓は当地の正業寺(しょうごうじ)にある。 平成八年一月 横須賀市教育委員会」 ![]() 碑の表面、中央に「南無阿弥陀佛」、右に「霊巌寺」へ 左に「大誉(花押)」とあった。 碑文は次の通り。 「相州三浦内入海新田並八幡原新畑見立此門樋成就処年々舟鼻及破損八ケ年致 苦労尽 工夫時依蒙仏神夢想而今此以石柱成就畢水神往護為子々孫々諸人現当二世安楽也 寛文七丁未年三月吉日 砂村新左衛門尉政次 敬白」 。 ![]() 右側には夏、紅色の花が咲くキョウチクトウの花が刻まれていた。 ![]() 「内川新田開発記念碑(うちかわしんでんかいはつきねんひ)」の近くにあったのが 「久里浜の歴史を知ろう(夫婦橋の由来) 久里浜は江戸時代まで森崎や公郷(くごう)、池田、衣笠近くまである大きな入り江で上げ潮に なると海水が奥まで入る温地帯で葦が一面に生えていました。この湿地帯に1660年頃 砂村新左衛門という人が、内川新田と呼ばれる新しい川畑をつくりました。 しかし、中央を流れる川はいくども洪水をおこし、そのたび田畑は荒らされ作物は収穫 できませんでした。この洪水を防ぐため上手にたくさんの松の木を植えたり、橋を作ったり しましたが何回も上手は崩され橋は流されました。しかし、たくさんの困難な状況を乗り越えて、 作物が収穫できる新田が完成しました。また、川の中央に中州を作り海水が新田に入らないように 掛戸(かけど)という水門を作り、その上を人が行き来できる2つの橋を架けました。 この橋は2つの橋であることから夫婦橋と呼ばれるようになりましたが、関東大震災で中州は壊れ 現在のようにひとの橋になりました。中州には水門が完成したことを記念する碑がありましたが、 現在の場所に移築されました。 また、当時の夫婦橋は現在の人道橋の近くにありました。私たちは、多くの人々の労苦が しみ込んだ夫婦橋の由来を忘れてはなりません。 令和3年(2021年3月) 久里浜地域運営協議会 久里浜の文化を考える会」 ![]() 関東大震災前の中州のある「夫婦橋」の姿。 大正時代絵葉書より(絵葉書提供 久保木実様) 1825年ごろの記録によると、一つの橋の長さは約30m、幅は2.4mであった。 材料は丸太を使い、橋の上には土砂を敷き詰めていたとのこと。 ![]() 「かながわの橋100選」と。 ![]() 現在の「夫婦橋」を見る。 「夫婦橋」は、3径間連続変断面鉄筋コンクリート道路橋で、昭和29年に建設された。 橋長33mで、河口の久里浜港にも近く、浦賀港と久里浜、三浦市方面とを結ぶ要路にある橋。
親柱の上に照明灯が。 ![]() 「国道134号」の横断歩道を渡る。 ![]() 「夫婦橋」。 ![]() その先にあったのが「夫婦橋風景」と書かれた案内柱。 ![]() 「昭和五十二年市制施行七十周年記念 横須賀風物百選 夫婦橋風景」。 ![]() 「夫婦橋 夫婦橋には300年以上の歴史があります。新夫婦橋をいつまでも大切に使ってください。 この橋はいつ頃からかかっているのでしょうか。 橋の歴史は、およそ330年前(1667年)の内川新田開発工事までさかのぼります。この工事で 造られた、海水の逆流を訪ぐ水門が夫婦橋の始まりです。 当時はどのような橋でしたか。 昔は中央に中洲があり、ニつの橋が夫婦のように仲良く架かっていました(現在の人道橋あたり)。 また、1825年頃の記録によると、ひとつの橋の長さは約30m、幅は24mほどでした。 材料は丸太を使い、橋の上には土砂を敷き詰めていました。 夫婦橋の「人柱伝説」とはどのような話ですか。 昔の夫婦橋(水門)は、平作川の洪水で幾度も流されていました。そこで貧しい人夫の美しい娘が 「神の怒りを鎮めるため」犠牲となって、橋の下に埋められました。 その後、夫婦橋は大雨が降り続いても流されなくなったという悲しいお語です。 実話はどうかはわかりませんが、昔から多くの人々が、平作川を治め、夫婦橋を守るために 大変苦労してきた様子を伺うことができます。 旧夫婦橋は「かながわの橋100選」に選ばれました。 神奈川県では、県民の皆さんに神奈川を見つめ直し、郷土への関心をより深めて頂くため、 昭和51年度から「かながわ50選・100選シリーズ」を始めました。 平成2年度には、第15回目として「橋」をテーマに選定を行い、「地域のシンボルとして住民に 新しい夫婦橋のデザインはどのようにして決められましたか。親しまれ、歴史的にも由緒ある橋」としてこの夫婦橋が選ばれました。 道路計画並びに河川改修計画の実施による架替えにあたり、専門家を交えた委員会を設置し、 周囲の景観との調和や、橋が持つ歴史性に考慮したデザインを検討しました。 (夫婦橋景観検討委員会) また、地域の皆様に親しまれ、末長く大切にされう橋であるように、地元の代表の方々より、 様々な意見を頂きました。 (夫婦橋整備実施連絡協議会を設置) 何をイメージしていますか。 親柱や橋詰めの松は、名前の通り仲むつまじく寄リ添う夫婦の姿をイメージしています。全体は 親柱の文字は地元の小学生が書きました。和風で統一し、まるみと親柱の照明灯の色は暖かみのあるものを選びました。 橋の四隅にある親柱には、橋名と河川名を横須賀市立久里浜と明浜小学校児童の皆さんに、心を 込めて書いて頂きました。 橋名 「夫婦橋」 竣工 平成8年3月 工期 平成3年度~平成7年度 橋長 L=37.0m 幅員 W=18.0m(車道10.5m、歩道5.0m+2.5m) 橋梁形式(上部構造)1等橋(TLー20)単純鋼床版箱桁橋 (下部構造)逆T式橋台(直接基礎) 施工者 神奈川県横須賀土木事務所」 ![]() 我が上記写真では解読不明のため、下記写真をネットから。 ![]() 「明治40年頃 久里浜夫婦橋附近の追想 石渡勇画より」とネットから。 ![]() 「夫婦橋の人柱(ひとばしら)の伝説 内川新田をつくるためにかけた橋も、川が大水になるたびに流されてしまいました。こんな事が 何回もつづくと、村の人々の中には、「これは、神様がおいかりであるにちがいない。 神のいかりをしずめるためには、人柱(ひとばしら)をたてなければ・・・。」という話が 出はじめました。 その話はだんだんと広まり、村でも、とくにまずしい家の、美しい娘(むすめ)に、その 矢(や)がむけられたのです。「気の毒(どく)ではあるが、まずしい家のことだから、お金で 何とかなるだろう……。と、村長たちが娘(むすめ)の家に出かけ、「神のためじゃ。 村のためじゃ、ぜひ……。」と両親にお金を出してたのみました。 両親はもちろん、娘(むすめ)もこの話を聞いて、たいそう悲しみましたが、まずしい家のこと、 「神のため、村のためなら……。」と、しょうちしました。 「人柱(ひとばしら)に娘(むすめ)がたてば、きっと神様はいかりをしずめ、願いを聞いて くれるにちがいない。」と、よろこんだ村人たちは、さっそく用意をはじめました。 まず、大きな箱(はこ)をつくり、その中に娘(むすめ)を入れると、箱(はこ)の中に食べ物と 鈴(すず)を入れ、ふたをしめて橋げたの下に、その箱(はこ)をうめました。 それからというもの、村人たちが橋のそばを気にしながら通ると、鈴(すず)の音(ね)が 聞こえてきます。しかし、三日たち、四日たちしていくと、とぎれとぎれで、しだいに小さな音に なり、しまいには、とうとう耳をすましても聞こえなくなってしまいました。 村人たちは、鈴(すず)の音(ね)とともに、娘(むすめ)が天にむかえられたと涙(なみだ) ぐみました。 それからと言うもの、橋の工事もどんどんすすみ、夫婦橋(めおとばし)は、どんなに大雨が ふりつづいても、流されることはなくなったと言う事です。 (田辺悟著「三浦半島の伝説」より」 ![]() 歩行者専用の人道橋を上流側に見る。 昔の「夫婦橋」は現在の位置から約100m上流のこの人道橋の位置にあったと。 ![]() 下を流れる「平作川」の下流側を見る。 ![]() 現在の夫婦橋。 ![]() 夫婦橋を渡る。 ![]() 再び久里浜海岸方向を。 ![]() 久里浜市「消火栓マンホール蓋」 黄色地に水色の横須賀上下水道イメージキャラクター「アクアン」と 赤いはしご車を描き、 下部は青地に消火栓の文字。蓋全面に滑り止めの模様が入っていて、デザインも滑らないように ブツブツで 描かれています。 ![]() 民家の庭の「チロリアンランプ」。 ![]() 近づいて。 別名 「浮釣木(うきつりぼく)」 、「アブチロン」と。 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2024.05.20 18:08:40
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