秋の神宮外苑、麻布、増上寺を歩く(その11):増上寺-1
そして「増上寺」前の日比谷通り・「増上寺前」交差点に到着。増上寺の正式名称は「三縁山広度院増上寺」ご本尊は阿弥陀如来・南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)交差点から巨大な山門・「三解脱門」を見る。「増上寺」は、浄土宗の七大本山の一つ。酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建され、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与して来た。17世紀中頃の増上寺は、広大な寺有地に120以上の堂宇、100軒を越える学寮が甍ぶきの屋根を並べる、巨大な寺であった。当時は、3000人以上の学僧の念仏が、全山に鳴り響いていたと言われている。苦難の明治期と戦災を乗り越えた増上寺は、昭和49(1974)年に悲願の大殿再建を果たす。宗祖法然上人八百年御忌をお迎えするにあたって、平成21(2009)年には圓光大師堂と学寮を、平成22(2010)年には、安国殿を建立した。長い年月をかけて、境内諸堂宇が整い、復興が成ったとのこと。東京都港区芝公園4丁目7。「三解脱門」をズームして。間口10間4尺5寸(19.5m)奥行5間(9m)高7丈(21m)の二階建て構造。さらに左右には三間(約五・四メートル)の山廊を有している。この巨大な門は1622年に将軍の大工頭によって建造された。この門は増上寺創建時から残っている唯一の建造物。この門の正式名称である「三解脱門」は、貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろか)の三毒からの解放されてご本尊の阿弥陀如来さまの元へと向かい極楽浄土へ入るための門を意味しているとのこと。高さ21メートルの門の二階部分(現在一般には公開されていません)には、釈迦如来の像が安置されており、この像のかたわらにはそれぞれ異なる表情を浮かべている二菩薩と十六羅漢(釈迦の最も献身的な弟子)が控えている。これらの像は江戸時代(1603–1867)初期の作であると考えられている。下層に寄棟屋根、上層に切妻屋根を持つこの門の凝ったつくりは、仏教が日本に伝来した6世紀頃の中国の建築様式を参考にしたもの。二階部分の欄干のシンプルなデザインは、日本的な建築美学を反映しています。鮮やかな朱塗りのこの門は、江戸(現在の東京)を代表するランドマークのひとつであった。三解脱門には、通常お寺の入り口に置かれている2体の恐ろしい顔をした仁王像がない。これは、増上寺が浄土宗の寺院であるためで、浄土宗は救いを求めてやってくる全てのものを歓迎しているのだと。10年間かけて行われる三門の改修工事は、2025年4月に着工が予定されているとのこと。「三解脱門」の扁額は「三縁山」。横断歩道を渡り、「三解脱門」前に巨大な立札が。「大本山増上寺 浄土宗開宗八百五十年慶讃 勧進 法要奉修 令和六年四月」と。「勧進」とは「寺社・仏像の建立(こんりゅう)・修繕などのために寄付を募ること。」。「今月の言葉👈リンク西岸の上に人有って喚んで言わく汝、一心正念にして直に来たれ我よく汝を護らん衆て水火の難に堕せんことを畏れざれ 「三心料簡および御法語」法然上人」と。「西に向って旅をしている人がいます。するとその人の前に突然河が現われます。河幅は100歩程であるが、南は焼えさかる火の河、北には水の河が渦巻いていた。その水火の河の分かれ目に1本の白い道が西岸まで通じている。その白い道は幅が4、5寸であるが、常に炎と波浪が襲いかかり渡るにはあまりにも危険であった。後を振り返れば多くの賊徒や猛獣たちがこちらに向かって迫ってきている。絶体絶命のこの人は、どちらに向かっても死を免れることはできないと意を決し、どうせ死ぬならこの危い細い白道を進んでいこうと決心したのです。すると東岸から「この道を真っすぐ進んでいきなさい。死ぬことはありません。もしここにとどまれば必ず死んでしまうでしょう」と語る声がした。また西岸からは「心を定めて直ちにこちらに渡ってきなさい。私はあなたを必ず護ります。水火の河など恐れてはなりません」と語る声がした。東から「行け」西から「来い」と励ましの声がしたので旅人は、疑いや不安の心が消え決然と白道を進んで、西岸つまり極楽浄土にたどり着きました、という譬え話とのこと。「三縁山 広度院 増上寺浄土宗の七大本山の一つ。三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじようじ)が正式の呼称です。開山は明徳4年(1393)、浄土宗第八祖 酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建され、文明2年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきた。江戸時代初期、増上寺法主第十二世 源誉存応(げんよぞんのう)上人、後の「観智国師」が徳川家康から深く帰依を受け、手厚い保護を受けた。慶長3年(1958)に現在の地に移転し、徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。その規模は、寺領一万石余、二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動のほか文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を所蔵している。」「三解脱門慶長十六年(一六一一)に徳川家康公の助成により、江戸幕府大工頭・中居大和守正清によって建立され、元和八年(一六二二)に再建されました。この門 は、増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で、重要文化財に指定されています。三解脱門の名は、煩悩から解脱した覚りの境地を開くための三種の修行、「空門」「無相門」「無願門」からなる「三解脱門」に基づいています。また「三門」と通称されています。建築様式は三戸二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、見事な美しさを見せています。その大きさは、間口十間余(約十九メートル)奥行五間(約九メートル)高さ七丈(約二十一メートル)の二階建て構造。さらに左右には三間(約五・四メートル)の山廊を有しています。上層部(楼上)内部には、中央に釈迦三尊像、脇壇に十六羅漢像 が奉安されています。」「三解脱門」の前には「日比谷通り」その先には「芝公園 8号地」の緑が。この「三解脱門」前の「日比谷通り」を正月2日、3日には箱根駅伝のランナーが爆走したのであった。寺号標石「浄土宗 大本山 増上寺」。「三解脱門」の左右に延びる棟には計四つの花頭窓が。反対側から「三解脱門」を見上げる。「三解脱門」に吊るされている飾り。名前は??最上部には、徳川家の菩提寺なので三つ葉葵の寺紋が。中央部には「魚がし」の文字。一番下には「(魚)壱場」漁業関係の会社からの奉納品であろうか。同じものが隣にも。「江戸切絵図」を「ネット」👈リンク から。「芝口南西久保 愛宕下之図」に描かれている。 拡大図。「東京名所芝増上寺之図」。明治32年(1899)8月10日 と。広重『東都名所 芝増上寺』。そして「三解脱門」を潜り境内へ。正面に巨大な「大殿」。「増上寺 境内 案内図」。翌日12月2日、大殿本堂内にて開かれる「増上寺蝋燭能」のポスター。演 目:狂言 「仏師」 野村又三郎 能 「船弁慶(前後之替)」 梅若泰志 と。「タイムカプセル」標。「宗祖法然上人御降誕850年慶讃タイムカプセル記念建設の標昭和57年浄土宗宗祖法然上人御降誕850年を慶讃し、この勝縁・恵まれた子供達の夢や希望を大切に育むことを目的としタイムカプセルに収蔵し埋設し、上人降誕900年を迎える50年後を待っております。勝縁に接することの出来た子供達は勿論のこと生あるものの幸せが永久しへなることを祈ります。南無阿彌陀佛 大本山増上寺 第85卋 心誉康隆」「浄土宗 大本山 増上寺」案内板。中央に配置案内図。「沿革浄土宗の七大本山の一つ。三縁山広度院増上寺が正式の呼称です。開山は明徳四年(一三九三年)、浄土宗第八祖 酉誉聖聡(ゆうよしょうにん)によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、慶長三年(ー五九八年)に現在の地に移転しました。文明ニ年(一四七〇年)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与し大きく発展してきました。江戸時代初期、増上寺法主十ニ世 源誉存応上人、後の「観智国師」は徳川家康公から深く帰依を受け、手厚い保護もあり増上寺は大隆盛へと向かって行きました。徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。その大きさは、寺領ー万石余、ニ十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動の他文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を保管しています。1️⃣大殿(本堂・宝物展示室) Daiden (Hondo: Main Hall)1階 信徒の法要受付及び控室2階 大本堂 本尊阿弥陀如来をお祀りしています3階 仏間(道場)地下1階 宝物展示室「2️⃣安国殿徳川家康公の念持仏として有名な、秘仏「黒本尊阿弥陀如来」が祀られています。黒本尊は家康公が深く尊崇し、そのご加護により度重なる災難を除け戦の勝利をおさめ、天下統一の大願を成就したという霊験あらたかな阿弥陀如来像で勝運や、厄除けの仏様として江戸時代以来、広く人々の尊崇をあつめています。◆正月15日・5月15目・9月15日に黒本尊御開帳(正五九祈願会)◆各種御祈願・水子供養をお受けしております。◆お守り・お札・お土産等を扱う札所がございます。」「3️⃣圓光大師堂法然上人の御身柄が奉安されております。」4️⃣徳川将軍家墓所徳川家の菩提寺として現在6人の将軍と皇女和宮さまをはじめ、各公の正室・側室、そして子女の墓所があり、かっての栄華を偲ばせています。5️⃣貞恭庵(ていきょうあん)皇女和宮さまゆかりの御茶室。6️⃣光摂殿(こうしょうでん)1階 講堂3階 大広間(天井絵が飾られています。非公開)7️⃣慈雲閣(じうんかく)1階 多目的施設2階 開山堂 開山上人をお祀りしています。8️⃣増上寺会館会館2階に寺務所がございます。「聖観世音菩薩」。どこにも逃げ場がなくなった時、人の目には地面が近いと映ってしまうのだろうか。それとも絶望のせいなのか。炎と煙に追い詰められた宿泊客が9階あるいは10階から飛び降りる衝撃的な映像が目に焼き付いている。1982(昭和57)年に東京であったホテルニュージャパンの火災。亡くなった人は33人、そのうち飛び降りて命を落とした人は13人にも上る。首都のど真ん中で発生した大惨事。ずさんな防火体制が明らかになり、経営者は厳しく責任を問われて実刑に服した。その悲惨な火災で亡くなった人たちの慰霊のために建てられたのが、大本山増上寺(東京都港区芝公園4丁目)境内にあるこの「聖観世音菩薩」の像である。像がここに設置されたのは遺体の仮安置所になり、仮通夜も行われた縁とのこと。お顔をズームして。台座には「聖観世音菩薩ホテルニュージャパン罹災者のみたまとこしえに安からんことをお祈りして」と刻まれていた。そして台座の裏には「昭和六十二年(1987)二月八日株式会社 ホテルニュージャパン取締役社長 横井英樹 建之」と。先ほど解ったことであるが、横井英樹氏は死者33人を出したホテルニュージャパン火災で1993年(平成5年)11月25日に禁錮3年の判決が最高裁で確定。これにより勲七等及び記章を褫奪された。1994年(平成6年)から八王子医療刑務所で服役したが、1996年(平成8年)に仮釈放となり、1997年(平成9年)には刑期を終えているとウィキペディアより。よってこの「聖観世音菩薩」は裁判で争っている時期に建立したものであろうか。この「聖観世音菩薩」を建立した時の心境はいかに?「仏足石」。近づいて。「仏足石仏足石は仏の足うらの形(千幅輪相)を石に彫りつけたもの、インドでは仏像が刻まれる以前は仏足石や菩提樹などで釈尊を象徴的にあらわし、人々はこれらを仏として礼拝した。この仏足石は、当山第70世福川行誠上人の代、山内宝松院松涛泰成上人の発願により明治14年5月に建石されたもので、側面には仏像、経文、由来などが刻まれている。」そして「魚供養之碑」。「魚供養之碑魚がしに会社を起こし、水産物を商って37年ひたすら業界の発展と社会への貢献を志し、困難を克服して現在に至った足跡を顧みるとき、感慨ひとしお無量なるものがある。今日あるは、水産物とりわけ魚類のおかげであることに思いをいたし、深い感謝をこめて、ここに魚供養碑を建立するものである。願わくは、生業を同じくする人々よ、しばし歩みをここにとどめ、彼らのために感謝の祈りを捧げられんことを。 昭和60年3月8日 千代田水産株式会社」「お~いお茶わたしの街の未来の桜プロジェクト祝一千本目 十一代目 市川海老蔵丈市川ぼたん氏、堀越勸玄氏 合同植樹」。「ブッシュ槙」。「ブツシュ槙(コウヤマキ)米国第41代ブッシュ大統領が副大統領として昭和57年4月24日来日の際、増上寺に参詣し、記念としてこの樹をお手植されました。」「詠唱発祥の地」碑浄土門主 心誉康隆淨土宗吉水講「詠唱発祥の沿革浄土宗は, 終戦直後の昭和21年, 国は焦土と化して, 身も心も路頭に迷う人々に心のやすらぎと生きる希望を与える教化活動と して, 時の浄土宗教学部長 吉水智承師を中心に, 古くて新しい詠唱, 浄土宗吉水講をこの地増上寺境内に開きました。第一回詠唱講習会が, 松濤基道師, 鈴木錦承師を講師として総本山知恩院に於て開催されたのが同年7月であります。詠唱教化の道が開かれましたが, 奇しくも翌22年12月に浄土宗に宗政の変動が興り, 詠唱教化の道は停滞したかに思われました。しかし, 幾度の困難を乗り越えて, 詠唱は政治を超越し, 念仏教化の道として受け継がれ, 昭和26年9月, 僧和探玄師, 花木順道師,知足園朗師, 池上霊心師を中心に 知恩院吉水講が産声を挙げました。増上寺吉水講は, 昭和55年 善導大師一千三百年遠忌を記念して, 第一回詠唱大会を開催することができました。その後毎年御忌 奉納を続け, 念仏の助業としての詠唱は, 燎原の火の如く, 関東, 中部, 東北, 北海道一円に広まり, 寺院を中心に吉水講の集いが結成され, 新しい念仏信仰が盛り上がり, 今日の浄土宗吉水講の発展に大きな原動力となりました。これは松濤基道師, 菊地道雄師, 北山良祐師, 故鈴木錦承師, 故曽我晃也師及び 詠唱指導普及委員先生のご尽力の賜であり, 講員一人一人の地道な活動と熱意にほかなりません。このたび増上寺吉水講20周年記念大会を開催されるにあたり, 浄土宗吉水講の記念事業として, 「詠唱発祥の地」と題し, 浄土門主 中村康隆猊下吉水講総裁の御染筆を戴き, ここに記念碑を建立することができました。先徳の主旨を受け継ぎ, 吉水龍詠唱を通じて念仏教化の道が全国に弘まることを念願するものであります。 浄土宗吉水講 平成十四年四月二日」「グラント松」。「グラント松米国第18代大統領グラント将軍は明治12年7月国賓して日本を訪れ、増上寺に参詣し記念としてこの樹を植えました。」境内地図を再び。境内から大殿そして東京タワーを望む。左奥の「方丈門(黒門)」の手前にあったのが「土木建築殉職者慰霊塔」。「土木建築殉職者慰霊塔ノ記土木建築事業ハ一國文化ノ象徴産業ノ先躯ニシテ厥ノ能ク山岳ヲ貫キ雲閣ヲ築クや固ヨリ険ヲ犯シ危キヲ怖レス斯ノ高業ニ従フモノ洵ニ平和ノ戦士トモ謂フベシ而シテ不幸ソノ職ニ殪レシモノ豈ニ其ノ英霊ヲ祀リ其ノ幽魂ヲ慰メスシテ可ナランヤ茲ニ全國同業者ノ寄進ニ依リ慰霊塔ヲ建立シテ永ク其ノ菩提ヲ弔ハントス 昭和十二年三月二十一日 日本土木建築請負業聯合會」真っ黄色に咲く石蕗(つわぶき)の花が境内に。そして左前方に「水盤舎」。正面から「水盤」を。「水盤舎この水盤舎は清揚院殿(徳川家三代将軍家光公三男甲府宰相綱重公)の霊廟にありましたが、明治時代の解体・昭和の空襲を逃れ、現在地に移築されました。徳川将軍家霊廟建築を伝える数少ない遺構のひとつです。」歴史を感じさせる石灯籠。手前の巨石は?そして「三解脱門」境内から振り返る。右手にあったのが「鐘楼」そしてその手前に「江戸彼岸枝垂桜」。「為 豊島泰三追善菩提奉納 江戸彼岸枝垂桜平成六年三月吉日」。開花時の写真をネットから。「港区の文化財 増上寺の梵鐘高さ八尺(龍頭を入れると十尺、約3.3m)、径五尺八寸、重さ四千貫(約15t)といわれ、江戸時代の梵鐘としては東日本最大といわれています。椎名伊予吉寛が品川の御殿山で鋳造したもので、延宝7年(1673)に7回目の鋳造で完成したといわれます。その音も大きく、「江戸中へ七分通りは響くなり」などと川柳でよまれました。増上寺の南西には九州の有馬や島津の藩邸があったため「西国の果てまで響く芝の鐘」「てもさても諸国へ響く芝の鐘」などの句もあり、当時の江戸の人々の自慢も、実感を伴っていたことがうかがわれます。平成4年3月30日」。「梵鐘」。ズームして。「鐘楼堂👈リンク寛永十年(一六三三)に建立されましたが焼失、戦後に再建されました。納められている大梵鐘は、延宝元年(一六七三)に品川御殿山で椎名伊予守吉寛により鋳造されました。徳川四代将軍家綱公の意向で奥方の「かんざし」まで寄与され、七回の鋳造を経て完成したもので、江戸三大名鐘の一つに数えられ、東日本では最大級として知られています。その大きさ、高さ一丈(約三メートル)重さ四千貫(約十五トン)の大鐘です。その鐘の音は、時を告げるだけではなく、煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと誘います。江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寬永寺)か浅草(浅草寺)か」・「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」・「西国の果てまで響く芝の鐘」等と詠われ、江戸庶民に親しまれてきました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・