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カテゴリ:JINさんの農園
そして「聖徳記念絵画館」への入口に到着。
「明治神宮外苑案内図」。 現在地はココ。 右手に巨大な常緑針葉樹林樹・ヒマラヤスギ(ヒマラヤシーダー)が聳え立っていた。 ドーム型屋根の「正徳記念絵画館」を見る。 「あるけあるけ 日本ウォーキング協会は、東京オリンピック開催中の1964年(昭和39年)1 0月17日に、 ここ新宿区の明治神宮外苑絵画館前から世田谷の東京五輪記念世界青少年キやンプに向けて 第1回大会を開催しました。 私たちは、運動発足40周年を記念して、八田一郎初代会長による機関紙の題字「あるけあるけ」を 掲げ、ウォーキング運動発祥記念碑といたします。 2004年(平成16年) 10月1 /日 (社)日本ウォーキング協会」「明治神宮外苑の舗装 明治神宮外苑の舗装は、東京市(当時)でも大規模で本格的加熱アスファルト混合物を用いた 舗装であり、1926年(大正15年)1月に完成しました。 この工事は、我が国においてワービット工法を採用した最初の工事であったばかりでなく、 アスファルトは国産品(秋田県豊川産)を使用し、当時の最新鋭機による機械施工が 行なわれました。 この舗装は長い年月の使用に耐え、左図の濃色の箇所(下の写真)が66年間(1992年改良)に わたって車道として使われてきたことは、驚嘆に値します。また、この案内板の前の舗装は 当時のまま現存しており、日本における車道用アスファルト舗装としては最古のものです。 「当時の工事概要 ワービット工法について (1)発注者:明治神宮造営局 粗粒度アスファルトコンクリートを (2)施工面積:59,096m2 下層に敷き、上層には富配合のアスファルト (3)施工費用:167,135円 モルタルを薄く敷均し、上下層を同時に転圧して (4)工期:1924年5月~1926年1月 仕上げる工法 (5)監督者:工学博士・藤井眞透」 左前方に「明治神宮外苑 一角獣 国旗掲揚塔」を見る。 左手奥に「外苑いちょう並木」と「東京クリスマスマーケット 2023」の会場が。 「国旗掲揚塔」と「ユニコーン像」を逆光で。 狛犬に代えてスコットランド王国の象徴であるユニコーンを用いたものかと。 額に一角を持ち、牡ヤギの顎鬚、ライオンの尻尾、二つに割れた蹄が特徴。 廻り込んで。 「国旗掲揚塔」。 大正15年、明治天皇と昭憲皇太后を讃えるために建てられた絵画館。 神宮外苑の名物、イチョウ並木の真正面に位置し、シンメトリーの洋館。 白亜のドームをもつ重厚な建物は、全体が花崗岩でおおわれ、入口や床はすべて天然の大理石を 使っているとのこと。 明治天皇を中心に成し遂げられた、維新の大改革、その輝かしい時代の勇姿と歴史的光景を史実に 基づいた厳密な考証の上で描かれた80枚の名画が館内に。 一流画家による優れた芸術作品であり、政治、文化、風俗の貴重な歴史資料でもある と。 起工 : 大正8年(1919)3月5日 竣功 : 大正15年(1926)年10月22日 設計 : 一般公募156点の1等小林正紹氏の原図を基に明治神宮造営局において修正しました。 構造 : 鉄筋コンクリート造り、外壁は岡山県万成産花崗石、画室を除く壁面、中央大広間は、 国産大理石と一部タイルを使用しています。 規模 : 長さ 東西112メートル 南北34メート 高さ 中央ドーム頂点 地上32.1メートル 両翼 地上16.7メートル。 「角池」越しに「聖徳記念絵画館」を見る。 「聖徳記念絵画館」が「角池」の水面に映り込んで。 巨大な「白松」の樹。 「シロマツ 白松 中国名:白皮松 分布=中国(湖北・陝西省(せんせいしょう)を中心とした北部から西部地域) 日本では比較的珍しく、中国では王宮、寺院などに多く植えられています。」 「聖徳記念絵画館」は明治神宮外苑の中心施設で、明治天皇の事績を描いた絵画を 展示する美術館。明治神宮造営局の実施計画により大正15年に竣工。 建物の中央に、ドーム屋根を戴く吹抜の大広間をおいて左右に絵画室を配置した構成で、外観は 花崗岩による重厚な仕上げとし、内部は大理石やモザイクタイルで壮麗に飾る。 「聖徳記念絵画館」は、わが国最初期の美術館建築で、直線を強調した造形表現により、記念性の 高い重厚な外観意匠を実現しており、高い価値が認められる。またドームのシェル構造や絵画室の 採光などに先駆的な技術が取り入れられており、わが国の建築技術の発展を知る上でも重要である。 「聖徳記念絵画館」前から「外苑いちょう並木」を振り返る。 「角池」、「国旗掲揚塔」越しに「外苑いちょう並木」方向を。 ズームして。 さらに。
「樺太国境画定標石」。 「樺太国境画定標石 時 明治三十九年六月~四十年十月 所 樺太日露境界 明治三十七、八年の日露戦役の講和条約でカラフトの北緯五十度以南は、日本の領土となりました。 その境界を標示するため、日露両国委員は、明治四十年九月四基の天測標と十七基の小標石を 建てて境界を確定しました。 この境界標石は、外苑創設に際し、明治時代の一つの記念物として、樺太庁が之を模造し外苑に 寄贈したものです。当時苑内北方隅の樹間に在りましたガ、この度、全国樺太連盟よりの、これが 顕影周知方の篤い要望に応えて、絵画館前の現地に移し整備配置しました。 日本側の菊の紋章の背面には露国のの紋章が刻んであります。 又、聖徳記念絵画館の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)には、両国委員が境界標を建設する光景を 史実に基づいて描いた絵画が展示されております。 昭和五十四年六月二日 明治神宮外苑」「聖徳記念絵画館」の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)は、両国委員が境界標を建設する光景を 史実に基づいて描いた絵画であると。 再び「聖徳記念絵画館」を振り返って。 正面に「国立競技場」の姿が現れた。 ここの両脇にもヒマラヤスギが。 「国立競技場」に向かって進む。 右手には案内板が2枚。 石碑そしてその後ろには松が。 「御鷹の松」碑 澁澤榮一書 時年八十又七」 「此の松昔は霞乃松とて名高く徳川三代将軍放鷹のをり樹下に憩ひて鷹の名をそのまゝ遊女の松と 呼ばれしが又御鷹の松とも稱するに至れり當時の古松は枯れてこれは二代目なりと云ふ元は北方 五十間の地境妙寺境内に在りしを大正八年此処に移植したり 大正十五年七月 明治神宮奉賛會」 「お鷹の松(おたかのまつ) 大正7年(一九一八)明治神宮外苑競技場(現・国立霞ヶ丘競技場)造成のために買上げた 霞岳町の敷地内に境妙寺という古寺があった。昔、徳川三代将軍家光(一六○三〜一六五一)が 鷹狩の途中この寺に休息していたところ、江戸城から飛び去っていた、「遊女」と名づけた愛鷹が 飛んで来て、庭前の松の枝に止まったので家光は大へん喜び、この松をその鷹の名をとって 「遊女の松」と名づけたと伝えられる。後の世の人々が「お鷹の松」或いは地名をとって 「霞の松」とも呼んだ。碑文にある二代目の松(樹齢推定二○○年 高さ四メートル)は 昭和三十九年、東京オリンピック開催のための拡張工事の際に取り去られ、碑石は競技場代々木 門内に移設されていたが、このたび現在地に移し、新たにこれに黒松を配したものである。 昭和五十四年十月 明治神宮外苑」」 「国立競技場」からの入口にあった「聖徳記念絵画館」案内板。 近代日本のあけぼの、壁画に見る幕末明治の歴史 徳川幕府を改め、日本史上空前の、大改革が断行された、明治維新。西欧の諸国が300年を 費やした近代化を、明治天皇を中心に、僅か40年ばかりで成しとげた、輝かしき明治の時代、 世界に誇る、館内展示の80面の名画か語る日本近代化への飛曜の姿、歴史事件の数々。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2024.01.16 08:25:50
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