横須賀市浦賀の旧跡・神社仏閣を歩く(その39):浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)2/3
「異国船とペリー艦隊の来航」展示コーナー。近づいて。「異国船とペリー艦隊の来航江戸時代後半になると、日本近海に異国船が頻繁に姿を見せるようになります。ペリー艦隊来航以前の浦賀にも、6回・7隻の異国船がやってきています。浦賀奉行所は、その異国船との応接に当たるとともに、台場(砲台)を築いて海防に努めました。ただし、奉行所の役人は少人数だったため、有力諸大名が増援する体制が組まれ、会津藩や川越藩など様々な藩が江戸湾防備を担当しました。嘉永6年(1853) 6月3日、4隻からなるアメリカのペリー艦隊が浦賀沖に現れました。2隻の蒸気船は、黒煙を吐き、外輪を廻して逆行するという離れ業を見せ、異国船に慣れた浦賀住民もビックリしました。ー触即発の危機かと思われましたが、香山栄左衛門ら与カ・同心の尽力で、久里浜海岸で国書を受領するという形で、とりあえず難を逃れました。しかし、翌嘉永7年1月、ペリー艦隊は再び来航し、横浜で日米和親条約が結ばれ、日本は開国の道に進むことになりました。」「江戸後期、異国船渡来年表」。嘉永6年(1853年)のペリー来航前の「19世紀前半浦賀に来航した異国船」をネットから「19世紀前半浦賀に来航した異国船」の絵図。ブラザーズ号:1818 (文政元)イギリスマンハッタン号:1845 (弘化2 )アメリカサラセン号:1822 (文政5 )イギリスモリソン号:1837 (天保8 )アメリカビットル艦隊:1846 (弘化3 )アメリカマリナー号:1849 (嘉永2 )アメリカ「ブラザース号を取り巻く警備船の図黒船初来航となった「浦賀湊蕃船漂着図」(国立公文書館所蔵)をもとに作成した模型。文元(一八一八)年江戸湾では、鎖国後初めての異国船の来航、船将ゴルドン以下九名の乗組員で交易を求めて。来航であった。会津藩は千石船を借り上げ、陣幕をはり対応している、約ニ百年ぶりの異国船を好奇の目で見る人で浦賀は混乱した と.。「浦賀湊蕃船漂着図」(国立公文書館所蔵)とブラザーズ号:1818 (文政元)イギリス。「黒船(サスケハナ号 建造 1850年) 縮尺1/80 製作 最上 満「黒船 サスケハナ号縮尺 1 / 80(最上 満 製作)総トン数 2,450トン排水量 3,824トン船 長 257フィート(約78.4m) 幅 45フィート(13.7m)速 力 12.5ノット乗組員 平時230人 戦時306人構造:外輪式スチーム・スループ、木骨、木皮 帆 :3本マストパーク型船体:木造船体に腐食防止の黒いタール塗り砲 :9門「ハイネ画「ペリー久里浜上陸の図」(横須賀自然・人文博物館所蔵)」。そしてこちらは「鳳凰丸」👈️リンク。幕末に江戸幕府によって建造された西洋式帆船。幕末に日本で建造された洋式大型軍艦のなかで最初に竣工した。蒸気船の急速な普及のため旧式化し、実際には軍艦ではなく輸送船として使用された。鳳凰は聖天子が国を治める時に現れる想像上の鳥で、「鳳」が雄で「凰」が雌を指す。「鳳凰丸(建造 1854年)縮尺 1/50 製作 最上 満」「鳳凰丸縮尺 1 / 50 (最上満製作)排水量 約600トン船 長 20間(約36m)幅 5間建 造 1854年(浦賀)構造:竜骨、肋材と外板、内張り、吃水線下を銅板仕上げ帆 :幕府の所属を表わす黒の一文字船体:朱塗りに黒のストライプ砲 :10門」「ふね遺産認定書横須賀市殿幕末建造木造帆装軍艦 鳳凰丸我が国の技術役人と船大工によって建造された大船建造解禁後初竣工の様式帆船」・・・・・略・・・・・ふね遺産二十号(非現存船第一号)に認定致します。」「咸臨丸」「咸臨丸幕府が海軍創設のためオランダに注文した木造軍艦で1857年(安政4年) 9月日本に回航し咸臨丸と命名された。長さ49メートル、幅7. 8メートル、3本マスト、砲12門。1860年(安政7年)正月、軍艦奉行木村摂津守、艦長格勝麟太郎。日米修好通商条約の批准書交換を目的とする使節・新見豊前守らの乗ったアメリカ艦ポーハタン号の随行艦として浦賀を出港した。咸臨丸は我が国の軍艦としてはじめて太平洋を横断し、37日間を要してサンフランシスコに到着、5月5日無事浦賀に帰港した。翌年には小笠原開拓に従事、以後幕未の動乱に活躍し、明治維新後は北海道開拓使の輸送船として就航した。」近づいて。「江戸湾測量嘉永6年6月(1853年7月)浦賀沖にペリー艦隊が来航しました。ペリーは次の来航に備えるため、浦賀沖に停泊した翌日からベント大尉率いる測量船を山し、江戸湾の水深や潮流を測量し始めました。この測量をしながら、鎖国以来超えることのできなかった観音崎をシーザーのローマ攻略のポイント、ルビコン川にたとえてルビコン岬、岬を超えると真っ先に見える島、猿島をペリー島、ここに広がる入江をサスケハナ湾というように、アメリカ風の地名を付けていきました。」「ペリー艦隊制作 江戸湾測量図 1854年 オリジナル」をネットから。ペリー提督が神奈川、浦賀に上陸し神奈川条約を締結した1854年に測量した江戸湾の水深図です。左上にBay of Yedo as surveyed by the officers of the US Expedition to Japan in1864と記されています。横浜、浦賀、品川、川崎、千葉県五井、鋸山、勝山の地名が記されています。右下には、伊豆の下田から千葉県の洲崎、小湊、大東崎まで描かれています。サイズは、33cmx25cmで、薄手の紙に石版で刷られています。「江戸湾西岸:モーリーその他士官らによって1854年に測量」をネットから。「浦賀の誕生」、「三浦按針と国際貿易港浦賀」、「天下一の干鰯問屋(ほしかどんや)」案内。「浦賀の誕生ー原始・古代・中世の浦賀ー豊かな自然と温暖な気候に恵まれた浦賀には、約9,000年前から人々の生活が営まれていたことが数多くの遺跡や貝塚によって知ることができます。平安時代の未期から鎌倉時代にかけて三浦一族が活躍する頃になると、「浦川」(現在の久比里のー画)が重要な湊としての役割をもつようになりました。室町時代になると、現在ある寺の大多数が開かれています。そして戦国時代、小田原の後北条氏が東叶神社の裏山(明神山)に房総の里見氏に対抗する浦賀城を築き、水軍の基地としました。これに伴い、船大工や鍛冶屋、櫓屋など、船を建造・修理する職人たちも浦賀へ住居を構えるようになり、これらの人々の生活を支える町ができていきます。これが現在の浦賀へと続く第一歩でした。」後方中央に「弥生時代(後期)甕形土器」その右に「弥生~古墳時代 壺形土器」。「三浦按針と国際貿易港浦賀徳川幕府が成立すると、三浦半島は将軍の直轄地(天領)となり、代官・長谷川長綱が愛宕山の下に陣屋を構え、半島一円を支配しました。また走水と三崎に船改め・番所を置き、江戸湾の防衛に当たらせました。徳川家康は、江戸に近い浦賀の湊に外国商館をつくり貿易港にしようと考えました。この時の外交顧間が英国人ウィリアム・アダムス(三浦按針)で、逸見に領地を与えられ、浦賀に屋敷を構え、スペイン船などを誘致して貿易を行いました。その期間は10年ほどで、来航したスペイン船は6隻でしたが、長期間滞在する船員たちで賑わい教会が建てられるほどでした(関東では他に江戸に2か所あるのみ)」「浦賀湊絵図(文化~文政期頃 1810午代)江戸時代、与力だった中島清司か浦賀港全景を描いたもの 中島清司永豊画(中島家所蔵)」「干鰯問屋干鰯とは、鰯を天日干しにして造られた肥料で、主に東海近畿地方の農家で綿花や密柑の栽培に使用されました。江戸時代、浦賀には奉行所の設置、黒船の来航といった歴史的事象を経験する以前から干鰯問屋などの多くの豪商が存在し、港町、そして商人の町として大いに繁栄しました。干鰯市場のにぎわいを再現した60分の1のジオラマや幕府が干鰯問屋を救うために出した高札、(お触書)など、干鰯問屋なくしては語れない浦賀の文化を展示しています。」中央に「干鰯」、左に「干鰯」を利用して栽培した綿花。「干鰯」。「干鰯とは鰯を天日に干して作った肥料。大坂を中心に生産量が増してきた綿花栽培に欠かせないものであった。また、鰯を大釜て、ゆで、しぼってでた油が行燈油として利用される「魚油」、魚油をとった残りを天日で干したものを「〆粕」といい、干鰯と同じく畑の肥料として利用された。」「天下一の干鰯問屋江戸時代の初期、関西(特に紀川)から鰯を求めて、たくさんの漁船が関東にやってくるようになりました。これは、近畿地方を中心に綿作が発達し、最適な肥料としての干鰯を求めてのものでした。そして、近海で水揚げし加工した干鰯を関西へ帰る廻船に積む仲買業者として、東浦賀に干鰯問屋が生まれました。最初15戸だった問屋は最盛期には倍に増え、一時は全国の干鰯商いを独占するほどにまでなりました。干鰯問屋の数が増えるにつれて船の出入りも多くなり、これらの船の安全を図るため、幕府は湊の入り口に燈明堂を設けました。その維持管理費などの経費は当初幕府の負担でしたが、元禄期からは東浦賀の干鰯問屋が肩代わりし、明治維新までその灯をともし続けました。」「燈明堂江戸時代初期の慶安元年(1648年)、幕府の命により石川六左衛門重勝や能勢小十郎頼隆らによって築かれました。廃止されるまでの200年以上の間、燈明堂は幾度かの暴風、台風、大地震に見舞われながらも修復や建て直しを繰り返し、灯台の役割を果たして来ました。現在の建物は平成元年(1989年)に復元されたものです。その果たした役割により、横須賀市の指定を得、神奈川県の三浦半島八景に指定されています。」手前には、「燈明堂の瓦(燈明堂北側の土台附近で堀出)」次に「浦賀ドック」展示コーナーへ。「浦賀ドック」展示コーナー。【浦賀ドックの町へ】、【湊町浦賀の繁栄】「明治維新を迎えた慶応4年(1868)閏4月、浦賀奉行所は解体され、やがて船改めの業務も終了します。明治3年(1870)、それまで東西に分かれていた浦賀村が合村して新しい浦賀村となります。その後、同9年(1876)に浦賀町となり、同22年(1889)には市町村制の施行にともない大津・走水・鴨居を併せた新しい浦賀町が誕生し、昭和18年(1943)に横須賀市と合併するまで自治体としての役割を果たしました。明治6年(1873)築地町に水兵練習所(後に浦賀屯営と改称)が置かれ、明治22年(1889)からは陸軍の要塞砲兵練習所に引き継がれました。明治30年(1897)、その跡地に消賀ドック(浦賀船渠株式会社)が設立され、以後、浦賀は港と商業の町から工業の町へと変わっていきます。」「奉納 ◯◯丸 明治廿八年 浦賀湊 万屋清左衛門」「江戸時代、湊町として栄えた浦賀には、諸国から多くの廻船が寄港し、おびただしい商品が水揚げられ、多数の商家と土蔵が立ち並ぶ、賑やかな町場に成長していきました。東浦賀に新井町・新町・州崎町・大ヶ谷町・築地古町・西浦賀に築地新町・谷戸町・宮下町・町、田中町・紺屋町・蛇畠町・浜町の町場があり、各町は自治組織によって運営され、祭礼を執り行いました。商家のほかに、旅籠・料理屋・湯屋・髪結などが軒を並べ、「洗濯屋」と呼ばれた遊郭もありました。相撲をはじめ芝居、人形浄瑠璃などの寄席興行が盛んに行なわれました。俳諧や和歌を興ずる結社もあり、句集や歌集も出版されるなど、高い教養をもつ文化人も輩出しています。」「浦賀屯営碑明治8年8月(一説では明治6年)に東京芝新銭座(現在の東京都港区浜松町)から、浦賀に移ってきて、明治9年9月1日に『浦賀水平屯集所』となる。『水平練習所』や『浦賀屯営』、『横須賀海兵隊』などの名称が何度も変更されているが、明治海軍が艦船の運用と海上における戦闘要員(水兵)を養成するための屯集所というは通じて同じ目的だったこの碑は現在、旧浦賀ドック構内にあり、現在公開されていない。また浦賀屯営があったとされる場所は築地新町(浦賀ドック構内)の一部。その内情は良く分かっていなく、病気などで海上勤務ができない兵隊が屯営入りする”屯営や生きた士官の捨てどころ”などと伝えられていたが近年の研究によって、日本各地から集まった優秀な人材を育成した機関だったことが判明しました。」「浦賀ドックでつくられた船たち」「浦賀ドックでつくられた船たち戦前(一部)」。「浦賀ドックでつくられた船たち戦後(一部)」。「浦賀ドック?ドック?浦賀ドックは、主に造船と船の修理を行う工場で、船以外にも鉄骨などの生産も行う総合工場でした。浦賀ドック創業前の日本では、大型の民間船の修理と検査は海軍のドックを利用していました。明治30年代初頭、浦賀と横浜に相次いで民間のドライドックができた後、民間船の修理と検査は、海軍のドックではなく民間のドックを使うよう国が取り決めを行いました。併せて、民間船を定期的に検査するような取り決めも行われました。『ドライドック』とは、船が入った後にポンプで水を抜き船底がむき出しの状態で修理や検査を行う施設です。病院でおこなう体をくまなく調べる検査を『人間ドック』といいますが、「船が長い航海のあと点検・修理のためにドックに入るように、人間も定期的にドックに入る必要がある。」という考えに由来するといわれています。」「俊英たちが集った浦賀《山口辰弥 工学博士》(安政3年~昭和2年 出身地:江戸)横須賀造船所の付属校を卒業後、フランスの「エコール・サントラル」を経てシェルプールの造船学校へ正規留学し、卒業。この造船学校は、フランスの最高学府でも上位成績者しか人れない難関校と言われた。帰国後は、黌舎教授、海軍造船総監、浦賀船渠株式会社の所長として活躍。なお、エコール・サントラルは、東京帝国大学工科大学初代総長の古市公威の母校でもある。《緒明菊三郎・実業家》(弘化2年~明治42年 出身地:伊豆戸田)西洋式帆船のヘダ号建造に参加した緒明嘉吉の子で、のちに海運王と呼ばれる。幼少期から父の元で造船業を学ぶ。父の死後、上京し洋式造船に乗り出す。明治16年(1883年)品川沖に緒明造船所を建造する。さらに、海運業を始める一方、浦賀造船所の創業に尽力。中央図書館のある小高い丘は、彼が所有していたことから「緒明山」と呼ばれる。」「浦賀ドックの誕生」と「浦賀ドックのあゆみ」、「ドライドックの作り方」。「浦賀ドックの誕生《浦賀にできた国内最大級の民間工場》浦賀は古くから湊として栄え、今から301年前の享保5年(1720年)には奉行所も設けられました。嘉永6年(1853年)にはペリー来航の舞台になるとともに、その脅威から洋式軍舟監の必要を悟り、翌年には、浦賀奉行所与カ中島三郎助を中心に日本最初の西洋式の軍艦である「鳳凰丸」が建造されます。日本における造船所の誕生です。そして明治30年(1897年)、「浦賀船渠」(通称浦賀ドック)という造船会社が設立されます。浦賀ドック誕生前の日本では、大規模工場は、国が設立して運営する官営工場が主流でした。これに対して、浦賀ドックは民間が設立、運営する民間工場でした。浦賀ドックは、創業当時、わが国でも最大級の民間工場であったと考えられます。そのため、全国から優秀な人材が集められ、帝国大出身者はもちろんのこと、海外の大学校を卒業した社員もいたほどでした。国内に2つしかない浦賀と川間のドライドックは、世界的にも珍しい赤レンガのドックで、当時の人々もその壮麗さに驚いたことでしよう。」「ドライドックの作り方①ドックの入口になる海域に仕切りの堤防をつくる。《締切堤》②堤防の仕切りの内側にある海水を取り除く。③①と②の作業と同時に本体になる部分を渠頭部から掘削していく。④掘削が終わった所からドックの底から形を整え、石やレンガ、コンクリートなどで作っていく。⑤ドックの底が完成するとドックの壁を底ができたところから同じように作っていく。⑥④~⑤の作業を繰り返してドックの入口まで作業を進める。⑦仕切りの堤防を撤去し、海水をドックに進水させる。⑧ドックの前部分の海域地盤を所定の深さまで浚渫(海底をさらって土砂などを取り除く)する。⑨浮戸(フローティングゲート)を船で⑩完成です! 連れてきてドックの入口に設置する。」「咸臨丸の修理」「浦賀ドックと浦賀の街並み《浦賀ドックとともに誕生した重要な道路の物語》浦賀ドックの誕生と拡張は浦賀地域の都市形成にも大きな影響を及ぼしました。下の写真では、ドックの造成工事に伴って山が削られ、浦賀の重要な道路が誕生していることがわかります。」「浦賀ドックと町の変遷明治33年に操業を開始した浦賀ドックは、干鰯問屋などで栄えた商業港だった浦賀を工業港に変えます。従業員のための病院や生協、社宅、娯楽施設、人港する船の船員のための宿泊施設などがつくられ、ドックの繁栄が町の中心的存在となり、活気あふれる商店街が形成されていきます。大正時代に入ると関東大震災が発生。浦賀工場から出火し、浦賀の町は山崩れとその火災で甚大な被害を受けます。町と浦賀ドックは互いに協力し、早急に復興しました。浦賀は空襲の被害に遭わなかったことから、戦後すぐに工場は再開し、町は賑わいを戻していきました。その後、時代の流れとともに造船業は衰退し、工場の撤退へと向かいます。明治期以降の浦賀の町の変遷は、ドックの盛哀と共にあったといえるでしよう。」「ポンプ室(煙突筒身建立)」「軍艦吾妻入渠」。「船渠掘削工事(海側) 明治30年代」。「1号ドック」。「浦賀船渠株式会社社歌/浦賀ドック音頭 LPレコード浦賀船渠60周年を記念してつくられたレコード。当時一流の作曲・作詞家に依頼し、社歌には三崎生まれで浦賀船渠に学徒動員で浦賀ドックで働いたことのある新進気鋭の歌手・三浦洸一を採用している」。「進水式で使われた鋼球(未使用)ヘッド、軟石ケンの代りに、直径90mのボールべアリング(鋼球)を無数に使用する方法である。ヘッド進水の難点を補うために考え出された最良の方法であり、現在、大型船にまで広く採用されている。設備費は最も高いが、消耗度は少なく、進水性能も安定している。進水台構造等はヘッドの場合と全く同じである。」「営業案内 浦賀船渠株式會社」。「船渠掘削工事(山側) 明治31年代」。「浦賀船渠株式會社第壹號舩之圖」。「浦賀船渠株式会社創業総会決議録明治29年浦賀船渠株式会社が創業する際に取締役などを決議した時の記録。層々たるメンバーに地元の有力者の臼井の名前が連なっている」近づいて。「浦賀ドック」。学研 ずかん ふね(1968年/昭和43年発行)表紙は浦賀ドックの進水式の様子ジャパンダリアは当時あった海運会社・ジャパンラインが昭和42年1月に竣工した全長232mの大型タンカー。この頃になると超大型タンカーの時代に入り、浦賀ドックでは手狭になって来た頃である。この船が出来た時の会社の名称は「涌賀重工業」でした。ガラスケースの中、中央には「竣工記念酒枡浦賀ドックで使われた枡は地元の酒屋が用意し、竣工記念の席では酒樽(四斗樽/約72リットル)が振る舞われる際に関係者に配られました。」左に「護衛艦たかなみ 部隊識別帽」前方には「船が進水式・竣工式で配られた記念品ネクタイピン、カップ」「2003年3月13日 朝日新聞最期の艦船 100年間お疲れさま浦賀ドック住重側 1号ドック保存検討横須賀市浦賀町の通称「浦賀ドック」(現・住友重機械工業浦賀艦船工場)で12日、最後の建造艦船となった海上自衛隊護衛艦が完成した。これで1世紀以上にわたり日本の造船を支えてきた浦賀ドックの業務は終了し、3月末の閉鎖に向けた施設内建物の撤去が始まる。住民の一部から博物館としての跡地利用が提言される中、住重側は同日、歴史的価値の高い一部の施設の保存を検討していることを初めて明らかにした。千隻以上の艦船を建造してきた浦賀ドックが最後に送り出したのは護衛艦「たかなみ」。午前11時から始まった引き渡し式には、海自や米海軍、住重の関係者ら約千人が集まった。今後は9万6千平方メートルの敷地にある工場施設の撤去作業と並行して、市と跡地利用の検討を進めるという。浦賀ドックの跡地利用をめぐっては、周辺住民の一部が、クレーンや船台などをすべて保存して博物館にすることを強く訴えてきた。これに対して住重側は12日、れんが造りの1号ドックと、その両脇に建てられたクレーン2基を保存する方向で市側と検討することを表明。ほかのクレーン5基や船台などは撤去するとしている。1897年に造船会社「浦賀船渠」として設立されて以来、地元では「浦賀ドック」の通称で親しまれてきた。その後、合併を繰り返し、1969年に住友重機械工業浦賀艦船工場となった。青函連絡船や練習帆船「日本丸」などの艦船建造をはじめ、国会議事堂の鉄骨工事、米空母ミッドウェーの改造工事、横浜ベイブリッジや明石大橋の製作などにかかわってきた。」海上自衛隊の「護衛艦たかなみ(JS Takanami, DD-110)」以前に訪ねた時の写真から。「たかなみ」は、中期防衛力整備計画に基づく平成10年度計画4,600トン型護衛艦2239号として、IHIMUに発注され、住友重機械工業追浜工場で2000年4月25日に起工され、2001年7月26日に進水、その後、住友重機械工業浦賀工場において艤装の後、2002年8月20日公試開始、2003年3月12日に就役し、第1護衛隊群第5護衛隊に編入され横須賀に配備された。「最後に作られた船、たかなみ2003年(平成15年) 3月12日、浦賀ドックで最後の建造となる護衛艦「たかなみ」が竣工され、同月31日浦賀工場は閉鎖しました。浦賀で生まれた「最後の船・たかなみ」は現在も現役で活躍する自衛隊たかなみ型護衛艦の1番艦として活躍中です。艦名の由来「高く立つ波」(高波)、そしてこの名を受け継ぐ日本の艦艇とし同じ浦賀で生まれたタ雲型駆逐艦「高波」、あやなみ型護衛艦「あやなみ」(三井造船玉野造船所)に続き3代目に当たります。たかなみは第一線で活躍する海外への派遣に行くことが多い艦船です。」「ミニ企画展示パトリア PATRIA空襲の被害を受けけなかった浦賀ドックは、戦後すぐに造船を再開しました。しかし、海軍の解体・海運業の壊減て大型船の受注がなくなり、手持ちの資材て細々と鍋などの家財や小さな漁船を造って会社を維持していました。ようやく受注にこぎつけても、急激なインフレや資材コストの上昇についていくことができず、なかなか会社の立て直しには至りませんてした。その頃、米ソ冷戦や朝鮮戦争が勃発したことによりアメリカによる対日政策が緩和されます。政府は、自らが全額出資した船舶公団て需要を造り日本の造船業は活気を取リ戻し始めます。昭和31年の「もはや戦後てはない」というキャッチフレーズに乗り、日本の高度成長期と共に浦賀ドックの規模も拡大していきます。当館に展示されている模型「パトリア」も、その時期に造られました。スーパータンカー「バトリア」の誕生についてご紹介します。」「SCENE URAGA昭和34年1月、総額約10億円の資金と1年3ヶ月の月日を投じてマンモス船台の建設工事は完成した。土木関係工事に於いて延べ105,000人を動員、使用鋼材1,200トン、その他を合わせて約6万トンの資材を要した。マンモス船台の完成により、マンモスタンカー「PATRIA」が進水した」「パトリア(PATRIA)船籍:リベリア竣工:昭和34年9月25日竣工船首:ZAS TANKER CORP(イスラエル)DWT:46,283.8LT(積載重量トン数)」浦賀初のスーパータンカー浦賀のDELAVALタービン1番機搭載浦賀発のスーパータンカー(油槽船)40万2707バレル(浦賀プール約178杯分)の原油を輸送浦賀DELAVALタービン1番機搭載油槽船(オイルタンカー)液体の油類をタンクに積んで輸送する船。事故などで液体物質が漏れると甚大な環境汚染になることから、二重構造となっている。世界最大のタンカー ”Seawise Giant” ( 656,000トン)同船は、当初422,000トンのタンカーとして住友重機械追浜造船所て建造されたが、竣工直前に香港企業に転売され、日本鋼管津製作所て船体延長工事が行われた。工事後の船体は全長458.5m、幅68.8 m現在は解体されているが、記録は破られていない。「超大型タンカー時代に向けて、今まであった第2・第3船台を合わせて更に幅を拡張し、昭和34年1月に総額約10億円を掛けて「マンモス船台」がつくられました。当時、世界でも屈指のこの大型船台でパトリアは建造されました。パトリアは、下から積み重ねていくエ法て造られました。建物のように出来上がっていく姿は壮大だったそうてす。」「昭和34年3月24日、パトリアは晴れて進水式を迎えました。三笠宮妃殿下によって支綱切断が執り行われました。」「パトリア」。船首側から。「パトリア号 進水」についての浦賀船渠・昭和34年4月発行の社内報記事。「浦賀船渠 昭和34年4月発行この社報は戦後昭和28年から浦賀船渠(浦賀ドック)で発刊され、ドックで作った船の情報や人事、社内で行われたイベントなどを伝えておりました。この展示している第73号は当時スーパータンカーと呼ばれたサイズのパトリア号の進水式の様子を伝えています。パトリアは浦賀ドックでも大口の受注だったことが紙面からうかがえます。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・