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カテゴリ:JINさんの農園
「常福寺」を後にして、県道210号線・「浦賀通り」手前を左に入り南に進む。
左の狭いコンクリートスロープを上っていくと石鳥居があった。 その先の、獣道の如き山道をゆっくりと一歩一歩上っていった。 途中石段の如き道もあった。 そして5分ほどで「旧浦島稲荷」の社殿にようやく辿り着いた。 眼下には「常福寺」の南側の墓地が見えた。 社殿の内部は七福神の石造が確認できたが、それ以外は何もなかった。 遷座先は不明。 引き返して、慎重に獣道を下り、県道210号線・「浦賀通り」に向かって進む。 ブロック壁の中に石碑が。 「椿地蔵大菩薩」と。 県道210号線・「浦賀通り」沿いにあったのが「浦賀の蔵」。 「浦賀の蔵 浦賀は干鰯を始め多くの品物を全国に売りさばく町として賑わい、今でも東西の浦賀に 残っている15棟前後の蔵に昔の名残を見ることができます。 蔵は大切なものを盗難や火災から守るもので、壁の厚みが一尺ほどあり、耐火建物として様々な 工夫がされています。 浦賀には江戸後期に造られた漆喰塗り土蔵と幕末・明治期に造られた石蔵(房州石を使用)が 混在しています。 土蔵は漆喰の外壁が関東大震災で被害を受けたため周囲にトタンを巻いており、外からでは 分かりにくくなっています。石蔵は比較的そのままの形が現在も残されています。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」 その先、県道210号線・「浦賀通り」の奥にあったのが小さな「吉岡稲荷大明神」。 この神社は、縁結びや商売繁盛などのご利益があると。 横須賀市西浦賀2丁目13。 社殿を正面から。 扁額「吉岡稲荷大明神」。 「浦賀通り」を北東方向に進む。 その先、右手にあったのが、新装なった「蔵」の如き建物が。 横須賀市西浦賀2丁目13−11。 ここにも海鼠壁の上に「鏝絵(こてえ)」が。 白波をズームして。 その先、狭い路地を右に入ってみると、「愛宕山公園」への近道のようであったが この先は通行止めのバリケードが設置されていた。 さらに進むと路地・西浦賀1丁目の角にあったのが「浦賀の廻船問屋(萬屋清左衛門家)」。 「廻船問屋跡 賀で「廻船問屋」とは、船を持たずに御番所に詰めては、奉行所の役人たちの指示で、荷改めを していた下田と東西浦賀の105軒の問屋のことを言います。 また、米穀・酒類・塩等の問屋を営みながら、自己の廻船を所有して瀬戸内海より東北地方 までの広範囲にわたって商いをしていた商人たちのことも廻船問屋と言います。 そして、その主な者は一番組水揚商人となり、蛇畠町、紺屋町、宮下町等に店舗を構え、多くの 蔵が海岸に建ち並び、一大問屋街をなしていました。 幕末の頃、彼らの所持する廻船は、東西浦賀で約60艘を数え、宮井家もそうした問屋の最も古い 一軒でありました。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」。 そして右折して「愛宕山公園入口」に向かって進む。 「紺屋町(地名の由来) 西浦賀一丁目のこのあたりを紺屋町といいます。 日本では、昔から衣服の染色には紺色がよく使われてきました。 明治の中頃に、西叶神社の宮司・感見宗之助が編集したと推定されている「浦賀中興雑記」に よれば、小川善五郎という人がこの地で紺屋(染色業) を始めたことに、この町名は由来すると あります。 この付近には、咸臨丸出航の碑や中島三郎助招魂碑などがある桜の名所・愛宕山公園があります。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.05.05 05:48:25
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