ささやかなお祝い..
目も覚めるような木々の紅葉をジグザグに 抜ける登山鉄道に乗ること30分、 小さな温泉町に辿り着いた。 奈津と夫の雄司、そして、小学校に あがったばかりの雄太郎、この家族3人が、 この温泉町のFホテルに来るのは3年連続になる。 実は、今回の旅行は奈津の童話作家デビュー記念の ささやかなお祝いなのである。 奈津たちが初めて来たのは、3年前のゴールデンウイークだった。 たまたま案内されたFホテルの部屋は、 有名な女流作家の名前がついた部屋だった。 部屋のベッドの横には、彼女の代表作が3冊積まれていた。 旅行気分に浮かれた雄太郎が、走り回って、 どうしようもなかったので、奈津は気になりつつも 本に手をつける間もなく、その日は暮れて行った。 そのころの奈津には、雄太郎が幼稚園に上がって少し暇ができたら どうしてもチャレンジしたい夢があった。 近所の本屋さんが主催している童話作家の養成スクールに 通って、1冊の童話を作ることだった。 夫の雄司も 「へえ、おまえが童話を、それはいい。楽しみにしてるよ」 と大賛成してくれた。 でも、いざスクールに通うとなると、奈津は不安になった 「わたしは、いつも3日坊主。何一つやり遂げたことないし」 そう悩んで、スクールに通うのを延ばし延ばしにしていた時に たまたま、このホテルの部屋に泊まることになったのだ。 「何かの縁かしら」 雄太郎を寝かしつけてから、雄司に話しかけた。 雄司は、窓の外のライトアップされた夜の紅葉を眺めながら ワインを飲んでいた 「縁かもしれないね」 ほろ酔い気分の雄司は、微笑んだ。そして、 「明日は、俺が雄太郎の面倒をみるよ・・・芦ノ湖にでも 連れていくから・・・この部屋で、書いてみたら?」 「ほんと・・・そうしようかしら」 「ひょっとしたら、俺の嫁さんは、 童話作家になるかもしれないな。こりゃ、いいや」 そう言う雄司は、いつも仕事でイライラして表情とは 大きく変わって、久しぶりにリラックスした様子だった・・ 雄司の飲んでいたワインを1杯頂いてグッと飲み干したせいか、 奈津はぐっすり眠れた。 夢の中の奈津は、一生懸命に童話を描いていた。 たぶん、雄司と雄太郎は、手をつないで芦ノ湖に出かけたのだろう。 スラスラと驚くほど筆は進み、1本の童話ができあがった。 アフリカのジャングルに住む勇敢なオス猿とメス猿の恋物語だった。 「できたわ、できた・・・今日の夜には雄太郎に読んであげるの 早く帰ってこないかなあ・・・」 奈津は、胸躍る気分だった。 その時、部屋をノックする音がした 「あら、誰かしら。まだ、帰ってこないでしょうし」 奈津がドアを開けると、 「初めまして」 にこやかな顔で微笑む上品な女性が立っていた。 その女性は言った 「できたかしら?」 「え?」 奈津は何のことか分からない。 「童話よ・・ちょっと見せて・・・」 「は、はい」 奈津は言われるままに女性に、描きあがったばかりの 童話を差し出した。 「あらあ、すてきじゃない・・・あなたなら、立派な 童話作家になれるわ・・・」 ・・・・・・・・・・・・・ 夢から覚めた奈津は、ベッドの横にある本を手に取って、 パラパラと読んだ。 そして、巻末にある女流作家の写真を見て 「ああ・やっぱり・・」 と声をあげた。 そこには、夢で見た女流作家と同じ顔の女性が写っていたのだ。 「おい、俺と雄太郎は行って来るからな」 我に帰った奈津の前には、雄司と雄太郎が リュックサックを背負って立っていた。 「じゃあな、傑作を楽しみにしてるぞ」 「おかあさん、じゃあね」 「気をつけてね」 こうして、夫と息子を見送った奈津は 夢の中で書いたとおりの童話を書き上げた。 その童話が1冊の本になったのは 、旅行から帰った奈津が、スクールに通い 何度も何度も書き直して、当時4歳だった雄太郎が 小学校にあがった3年後の秋のことだった。