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碁法の谷の庵にて

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2006年06月29日
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カテゴリ:法律いろいろ
 山口の殺人事件で話題になったものの一つに、「量刑相場の話がある。
 つまり、犯罪の量刑について、「人一人殺せば無期懲役が関の山、2名では死刑にならない」というような量刑相場で司法が動いていることに、相場の中身批判に限らず相場で動くこと自体に批判が集まっているようだ。

 そこで、今日は司法の「相場」について話をしてみよう。


 一般社会にも、一定の相場がある
 典型的なのは不動産や芸術品などの金額の相場だ。相場があるから鑑定士と言う人たちが必要になる。
 契約のタテマエで言えば、お互いが合意した上であれば、純金1トン(ちなみに時価だと14億くらい)を100円で売ったってかまわないし、何の変哲もない紙切れ1枚を1億円で売ったっていい。(税務署が税金逃れと目をつけることはあるかもしれないが・・・)
 逆に、紙切れ1枚を1億円出すから売れといっても、1兆円じゃなきゃやだといって売らないのも自由である。

 こういうタテマエから極論すれば金額に相場なんかいらない売りたきゃ売れ買いたきゃ買えともいえる。
 だが、それでは芸術品を手に入れる人や所有する人が困ってしまう。買い叩きやぼったくりが横行するだろう。
 だから、ある程度「これくらいなら出す」と言うのを標準に、相場が出来上がっている



 そして、ご多分にもれず、司法の世界にも相場は数多い。

 民事裁判であれば、慰謝料の額や過失相殺の割合に至るまで、大体過去の判例の積重ねによる相場が出来上がっている。
 両目の視力が0.05以下になったら労働能力喪失率は○○%で慰謝料は○○円とか、信号が点滅状態で飛び出してきて轢いたら過失は歩行者○割、車○割というのに至るまで詳細に定まり、こうした基準は公表もされている。
 刑事裁判でも、相場はごく普通にある。裁判員制度の実施に合わせて国民の量刑意識を調査したアンケートで出したとある殺人の事案の場合一般市民の判断した量刑は死刑から執行猶予付きまで分かれていたのに対し、裁判官の出した量刑は大体同じ所に集中したという。



 最初から結論を言ってしまうと、私は相場の中身を厳しく吟味することは必要であると思うものの、やはり司法に「相場」というのはどうしても必要なものだと思っている。


 まず裁判官の能力の問題がある。それは別に日本の裁判官が無能、というわけではない。
 例えば、慰謝料。つまり目に見えない人によって千差万別の精神的損害が慰謝料だが、それを金額に直すなど、はっきりいって最初から無理がある。
 だが、被害を受けているのは事実だし、被害の解決は原則として金銭でやると言う法の建前があるから、ムリヤリ金額に直して何とかしているのが本当のところである。
 刑罰だって同じだ。日本の広ーい犯罪の法定刑の内部でどれがいいか、なんて、そう単純に読めるはずがない。人命にせよ自由にせよ財産にせよ、死刑や懲役・罰金で返ってくるなら目安になるが、残念なことに返っては来ない。
 こんな世界では、何らかの目安がなければ裁判官だって困り果ててしまう。一定の相場を作って、それを元に考えざるを得ない。

 ついで平等の問題がある。
 どの裁判官に当たったから勝ち、どの裁判官に当たったから負けなんていう事態は、裁判官が日本に複数いて、その職権行使の独立が保障されている以上必ず起こる。もちろん職権行使の独立は少数者の基本的人権を守るための憲法上の要請(憲法76条3項)であって、止めるべきだ、などとは絶対にいえない。
 しかし、あまりそういう不公平な事態が起こるとなると、司法の信頼にも関わる。日本人は不思議と公平を重んじて、ややもすると公平のためなら全体が不正義には目が行かないことさえあるという所感は私自身にも何となくある。
 そういうわけで、日本では判例が絶大な影響力を持ち、相場を形成することによって、判断がやたらとぶれる事態を回避してきている。それによってある程度裁判の公平性が保たれることになる。
 ことに、あの裁判官に当たったせいで死刑になりました、などという事態は絶対に避けなければならないことから、死刑の適用についてはどうしても相場の威力が高くなってくる。

 最後に予測可能性の問題。
以前した話と共通するが、裁判の結果が予測できる、というのは、紛争解決のために非常に重要なこと。
 民事裁判では、裁判の結果が予め分かるならわざわざ裁判なんかしない。交渉のために弁護士を雇うことはあっても、例えば交通事故なら予想できる裁判の結果に従って金銭を払い、裁判以前に一件落着させる。それなら裁判の費用を追加で支払わされることもないし、検察官も先に支払ったことを知れば反省していると認めてくれて刑事裁判の方で起訴をしなかったり、裁判官も量刑を引き下げてくれる
 刑事裁判そのものでも意外と重要のようだ。量刑が不満だと言って上の裁判所に訴えている間も、被告人は結局身柄を拘束されている。これで上の裁判所が訴えを退けたら、裁判をやっている間の身柄拘束は丸損である。もっとも、有罪判決でも、裁判をやっている間閉じ込められていたことについて懲役の日数に数えてあげましょうということは普通のことだが、全部数えてあげましょうというのはなかなかないようだ。
 私は無実だ!と言うのならともかく、事実を認める場合で上の裁判所に持ち込んでも相場的にどうにもならないなら、意地を張らずにおとなしく服役してさっさと出てきた方がいいという計算だって、それはそれで重要である。



 裁判員制度でも、おそらくこれまでの相場は結局生きてくると思う。
 日本の広―い犯罪の法定刑の内部でどれがいいか、なんて、そう単純に読めるはずがない裁判員ならその一点がスパッと分かるなんてことはなおさらあるわけがない。
 何せ基準はひろーい法定刑しかないのだ。治療代が1000万円かかったから1000万円、利息が法律で年5%と決まってるから5%というような分かりやすさはどこにもない。

 実際裁判員裁判のリハーサルで量刑を争点にしたら、裁判員にとっては雲をつかむような話に結局評議はまとまらず、結局過去の似たような事例の量刑はどんなもんですか、という声が出てそれで判断されるという、何のための裁判員か分からない事態も聞いたことがある。

 

 全能ではない裁判官、全能ではない裁判員を助けるため、全能ではない裁判官の判決など予想できない当事者をたすけて見通しを与えるため、人々が求める公平のため。そうした要請が、司法の相場にはある。


 
相場で司法が動くことを批判するより、相場の内容を吟味することが重要なのではないだろうか?





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最終更新日  2006年06月29日 13時46分50秒
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