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碁法の谷の庵にて

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2007年03月10日
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 今朝は魔法使い(?)になって、襲ってきたドラゴンに雷を落として倒すというドラクエばりの夢を見てしまった。

 さて本題に入ろう。

 先日の「そのとき歴史が動いた」は、イタイイタイ病で被害者を救おうと手弁当で立ち上がった若手弁護士たちの物語。テレビ出演に奔走して自分の言いたいことだけ言いたい放題のどこかの弁護士とは大違いである。


 その辺に関連して、思ったことをば。

 世の中には、そんなんで訴えたって一文の得にもならない(金の取れる・取れないに限らず、手間の割りに儲からない、勝てる見込みが小さい)よ、というようなことで訴えを起こす人たちがいる。また、そういう人たちにくっついて裁判を助ける弁護士の人たちもいる。


 一票の格差訴訟。靖国参拝訴訟。税金の無駄遣いについて返還を求める住民訴訟。

 刑事裁判でも、被疑者の接見交通についてはその手の弁護士たちが国家賠償を起こしてきた。被疑者に接見することは法律上認められているが、他方やむをえない場合に捜査機関が制限することも認められる。しかし捜査機関の制限がやりすぎと評価されるような場合、刑事裁判の中で抗告する手もあるが、実際には国家賠償訴訟で「弁護権侵害」という形でたいしたことのない金額を訴えて違法を認めさせるという手法で行われることが多いのだ。
 更に、警察担当者などの拷問その他を訴える特別公務員暴行陵虐などに対する付審判請求、世間から袋叩きに合っている人たちを弁護する刑事弁護・・・。

 この手の裁判は、別に裁判で勝ったからといって大金が手に入るわけではないし、そもそも勝てる見込みがあるとさえいえないことも少なくない。

 実際問題そういう人たちに世間の人たち(ネット会の住人?)が向ける視線はどちらかといえば冷たいのではないだろうか。左翼人権派だとか、プロ市民だとか、聞くに堪えない罵声を浴びせる人たちもいる。こと弁護士については法曹界が左翼化だなんだと言っている人たちもいる。
 まあ、多くの場合その手の批判は取るに足らない(自分の無知を相手を罵る事で覆い隠しているだけ)のだが、実を言えば、私自身もその手の方々とはあまり係わり合いになりたい感じがしない。



 弁護士は、依頼者に対してどのような態度で接するかが人によって分かれるようだ。
 弁護士という仕事は、法的知識が十分ではない依頼者を導いていくという役割を持っている。その中で、ある程度は依頼者を説得してでも何とかするということが必要になってくることがある。イタイイタイ病裁判がそうだったことは、番組を見ていれば分かるであろう。
 他方で、弁護というのは依頼者のための仕事。依頼者の意思などを尊重し、例え法的にどうであれ依頼者がいいというなら・・・というような人もいる。

そうして、とにかく依頼者の言い分、というより客観的利益にべったりひっつき、とにかく法的知識を提供し、徹底的な決戦に打って出るタイプと(法律以外の解決には消極的)依頼者の考えるところの利益のために法律以外にも落としどころを探るようなタイプが出てくる。
 もちろんこの2つは両極端モデルで、中間型はかなり多いだろう。弁護士の独断専行は許されないし、依頼者にあまりにぺったり引っ付くのもそれはそれで問題がある。大野先生の「楕円の論理」も参照してもらいたい。しかし、依頼者の言い分と法律の定める解決に力点を置くか、客観的に妥当な解決に力を入れるかの程度は千差万別のようだ。


 モデルとして、例えば痴漢冤罪にはまった人たちを見ればどうか。
 依頼者の客観的利益にべったり引っ付くタイプは、徹底抗戦を開始するであろう。勾留謄本を渡せ、勾留理由を開示しろ、黙秘権を教えて前面黙秘させ、準抗告をかけなどと徹底抗戦に出る。
 他方で、落としどころを探るような人たちは、おとなしく認めて軽い罪で済ませてもらうことにさほどの抵抗がない可能性が高い。むしろ、被害者との和解や情状で弁護するなどに力が入ることになろう。


 正直、私自身は、自分がピンチの時には正当な権利行使だからと言ってそれに気をとらわれ、依頼人の利益に目配りができない弁護士よりは、より依頼人の利益に目配りができる弁護士のほうにめぐり合いたいものだ。
 とある強姦事件、判決は無罪だったのに被告人が170日も身柄を拘束され、体まで壊してしまった件があった。裁判所は、この件について「捜査段階の弁護人は黙秘をさせ、いろいろ準抗告をするなどしてがんばったが、結局そのために起訴されてしまい、身柄拘束も長期化した。公判に入ってついた弁護人みたいに事件の正確な見通しがついていればこんなことにならなかった」といい、正当な権利行使を盾に奮闘した弁護人に疑問を投げかけたことがある。

 イタイイタイ病裁判だって、結果的に裁判に勝てたからよかったが、勝てなければ被害者の救済はなく、かえって人々の白眼視にさらされる可能性だってあったのだ。公害訴訟で勝った例すらなかった時代、正直言ってかかる費用という視点から見れば、勝てる見込みが十分にあった裁判とも思えない。



 ところが、ある一定の領域の裁判では、客観的利益のために落としどころを探るようなことをやっていては、そもそも訴えなど起こせない。必然的に、依頼者にべったりひっついて、なんとしてもというような感じで奮闘するような方々でなければ、裁判が続けられないという現象が起こってくる。
 そういった弁護士たちが、イタイイタイ病をはじめとする公害裁判、免田事件をはじめとする冤罪事件、接見交通の刑事訴訟などを争い、不運な陥穽にはまった人たちを救い出してきたということを、忘れてはならないだろう。

 そして、そういった弁護士たちが華々しく活動して勝訴判決をとったりする一方で、奮闘むなしく敗れたり、世間からは唾吐かれているような人たちだっている。名張毒ぶどう酒事件とか横浜事件、近いところでは安田好弘弁護士なんかもその一例だと思っている。



 そういった事件と取り組んできたような人たちにあこがれて弁護士を目指す・・・って人は少なくなってきているかもしれないし、それはそれでいいこと、というより平和の証なのだと思う。でも、そういった弁護士たちはやはり必要性がある。冤罪だって、公害だって、死刑と無期でぎりぎりの攻防をしなければならない事件だって、今なお起こっている。

 
 ピンチのときには、自分の遭遇したピンチに応じた弁護士に出会えるかどうか。よい弁護士にめぐり合いたいものである。





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最終更新日  2007年03月10日 12時53分30秒
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