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碁法の谷の庵にて

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2007年04月22日
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カテゴリ:法律いろいろ

 最近、香城敏麿先生、石丸俊彦先生、渡部保夫先生、佐伯千仭先生など、実務家出身の法学者あるいは実務家でもあった法学者が次々となくなられている。

 石丸先生には私も刑法を早稲田の教室で教わったことがあり、法曹育成にはけっこう貢献したと聞いている。特に冥福を祈りたい。
 佐伯先生は刑法学者の大長老のような人だった。昔の有名な判例を見ると弁護人に名前があったり。
 香城先生は福岡高裁の長官になった実務家だが、理論にも精通した刑事法学者で、憲法解釈にも精通していた。
 渡部先生は刑事事実認定について著名な著作がいくつもある。



 さて、前置きしたところで今日は実務家の先生方が作り出す法律――判例という世界の一般論である。


 日本では、判例が大きな威力を持っている。最高裁判所などが裁判例を出すと、実務家などはその研究に奔走したりする事も少なくなく、最高裁判所の調査官が改めてその判例について一定の解説をする。

 判例は、判例の基本となった法律が変わらない限り生きている。
 つまり、戦前の大審院や控訴院の判例であっても、現代に通用するのである。もちろん、憲法や刑事訴訟法、民法の家族法などは内容に至るまでガラッと変わってしまったのでほとんど意味がない。だが、民法の財産に関する法律や刑法なんかは戦前からほとんど変わっていない。だから、大昔の判例がぽろっと出てくることもある。



 では、判例は法律的にはどんな力があるだろうか。

 まず、法律的には、力のある判例は高裁または最高裁以上である。
 では、高裁や最高裁の判例に違反したら何が起こるか。


 まず、裁判所法4条では、同じ事件について、上の裁判所が法律判断をした上で下級審にもう一度審理を差し戻す場合を想定している。裁判において、証拠の提出や立証というのは、一定の法律解釈を前提に、その解釈に当てはまる・当てはまらないと言うゴールを目指してなされるのがごく普通である。
 つまり、一定の法律的な判断を前提に審判しないと、せっかくやってきた裁判が全くあさっての方角を向いた裁判になってしまうかもしれない。
 そして、法律的な判断を裁判所がミスった事を理由に当事者が正しい裁きを受けられなくなる理由はない。そうなったときに全部最高裁で裁いた日には最高裁がパンクするので、必要に応じて差し戻す。山口母子殺人事件の差し戻しも、高裁の判断が誤っていた、しかし高裁までのそれは高裁の間違った判断を前提に裁判がされたものだろう、ということで差し戻しがされたわけである。こと刑事裁判など差し戻すのが原則と考えられていると言うわけである。
 この場合には、上の裁判所の判断に違反する事が許されず、下級審を拘束する。



 だが、一般に判例は判決が下された事件とは別の事件について問題にされる。

 起こる事は、「上告・抗告の理由になる」。
 つまり、判例に違反しているといって上告すれば、裁判所が判断してくれるというものだ。

 ・・・実はこれだけである。念には念を入れて、法令データ提供システムに「判例」と打ち込んで検索してみたが、判例の持つ「力」はそれだけだった。
 上告理由として裁判所が「受け付ける」ための要件には確かになる。しかし、その先、その「判例の通りに判断する義務」はない。それどころか、高裁・地裁・簡裁・家裁に至るまで、判例に反したからと言ってそれだけで違法となることはなく、あくまで「法律の解釈適用を誤ったから違法」なのである。

 また、判例に従ったら無罪だったからやったら判例が変更されて有罪になる・・・ということだってありうる。犯罪があった後に法律を改正して改正後の法律で重く裁くのは罪刑法定主義違反だが、判例変更で有罪にすることは問題ないと裁判所は考えている。(学説上は批判的な見解もあるようだが)

 事件によっては、地裁判決だから効力はないんだ、と大騒ぎしている人がいるけど、高裁や最高裁判決だって似たようなもんだということである。極論すれば、こんな先例ありますよってだけ。で、そういう意味なら最高裁も地裁も変わらないともいえる。実際、地裁や簡裁の判決でも、これと言って先例が他にないような事件ではけっこう大切に扱われる
ばっと思いつく限りでも、

 牧会活動事件(牧師が学生運動で警察に追われていた少年を匿ったのが信仰の自由の見地から無罪、神戸簡判昭和50・2・25)
 死刑囚弁護放棄事件(「死刑囚に慰謝料を支払わされた弁護士」で扱った判例、当時から割りと話題になったらしい、東京地裁昭和38・11・28)
熊本丸刈り訴訟(公立学校における丸刈り強制の可否が争われた判例、熊本地裁昭60・11・13)
二風谷ダム判決(アイヌ民族にとってその尊重が謳われた判決、札幌地裁平成9・3・27)
横浜の安楽死の判例(安楽死や尊厳死について裁判所がその見識を示した判例、横浜地裁平成7・7・28)
ハンセン病隔離の国賠訴訟(隔離政策をやめなかった立法の不作為が賠償の対象になった例、日本初かも、熊本地裁平成13・5・11)

など。単なる社会的注目に限らず、法律学としてもかなり注目されている判例であるが、牧会事件は簡易裁判所、その他は全部地裁の判例である類似の事件が最高裁まで上がってこなければ、これらも「司法がどう考えたか」ということで参考になるところ。

 いわれてみれば簡単なことで、裁判官は憲法と法律と良心に従うと憲法にでかでか書いてあって、「判例」はそこにはない。判例のとおりにせよと裁判官の法解釈に干渉する事は、下手をすると違憲というようなことも考えうる。



 ただし、である。

 法実務界においては、やはり最高裁と地裁では、どうしても判例の「威力」も異なっているのが厳然たる事実である。
 最高裁判所は法解釈学を専門に扱い、裁判官はもちろん学者や検察官・弁護士など幅広く知識を集めているのに対し、地裁は事実認定をはじめとする「事件処理」を行うという性質上、どうやったって地裁判決より最高裁の方が重視されるのは、考えてみれば当たり前のことでしかない。地裁・高裁の判例は、あくまでも最高裁に上がってこなかった事件がどう判断されたかを見る一つの例でしかない。
 
 司法の世界に入り込めば、否応なく判例と触れ合う事になるし、判例を無視して勝手な理屈を構築すれば、よほどの事をいえないと馬鹿にされるのがオチである。日本の判例に「法律的な」拘束力はさほどのものはないといっても、実際上の威力は超強力である。
 その辺を意識して判例を読むと、また違った点が見えてくるかもしれない。
 





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最終更新日  2007年04月22日 14時55分14秒
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