3430144 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

碁法の谷の庵にて

碁法の谷の庵にて

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2007年05月24日
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
 山口県光市の母子殺人事件の裁判がいよいよ大詰めに近くなってきた。

 まあ、おそらく判決がどちらに転んだとしても最高裁に上告がなされるのは目に見えているが、最高裁がひっくり返すのはよほど例外的なことであるのは事実(その意味でも最高裁判決は珍しかった)であるとだけ言っておこう。判決予想は禁句にしておく。


 さて、光市裁判が安田好弘弁護士を中心とした弁護活動を巡って日本中を巻き込んだ大論争になったのは記憶に新しい。



 さて、法廷で全く死刑制度の当否を語っていないのに「死刑廃止目当て」などというような弁護団に関する批判の大半が的外れである事は、これまで散々に語ってきたところである。

 仮に「弁護の動機」が死刑廃止論にあるとしても、「実際の弁護がどうであるか」によって弁護の評価が決められるべきであろう。法廷活動に全く出ていない動機を捕らえて口汚く物事を非難できるような超越者など日本に数えるほどしかいないはずである。


 少なくとも、最高裁に入って以降弁護団が法廷で死刑廃止論をぶったなどという話は聞いたことがない。今日の差し戻し初公判でもそれに類する事を行ったという情報は流れていない。
 それどころか最高裁審理の際には主任の安田弁護士自身が、法廷で死刑廃止を考えるのは弁護士失格と言明している(昨年5月8日の東京新聞特報欄)のであるし、そうでなければ著名事件で無期懲役への減刑判決を勝ち取るなどということはできっこない。また年報死刑廃止2006年に書かれた、安田弁護士が最高裁に提出した書面や弁論要旨にも、死刑制度廃止云々など一言も書いていない。(他の事件と比べて死刑は不均衡という主張はあったが)
 法廷に全く出ていない死刑廃止論と弁護団を結びつけて、ことさらに死刑存廃論に議論を誘導するような言説をはき続ける人たちは多いが、遺族の本村洋氏も含め、少しは現実を見据えるべきではないか。安田弁護士らの弁護の方がまだ「証拠」という現実を見据えた議論をしていると私は思っている。
 ・・・もっとも、差し戻し審の「儀式だった」云々の主張は私でも引いたが。被告人がそれに近い事を言い出したとしか思えないが、もうちょっと言葉遣いを選べなかったかという気はしないではない。被告人に振り回されているのだとすれば、本当に弁護団は大変である。まさか弁護団がそう言えと言った訳でもあるまい。そんなことを言ったって、それなりの証拠がなければ到底裁判所には信じてもらえないだろう。
 
 おりしも先日、「日本の黒い夏」の監督である熊井啓監督がなくなった。私も映画を見たが、映画の中では、弁護士らが現場をはっきり見て神部(モデルは松本サリン事件の犯人と疑われた河野義行さん)の無実を確信する光景があった。そして、現場を見ずに鵜呑みにして冤罪を産んだのは、マスコミであった。今の「弁護士は死刑廃止論のために動く」という一方的決めつけをしている状況は、まさしく日本の黒い夏と通じるものがある。


 ちなみに、弁護団が面倒を見るなら更生云々の主張もいい・・・と言っていたのは本村氏であるが、そもそも冤罪事件で警察・検察が疑った人間の面倒を見ているのかどうか、場合によっては間違って有罪判決を出した裁判所がそうしているのか、仮釈放の決定をする地方更生保護委員会が期間中の再犯の場合その手の責任を取っているのか、冤罪事件を検察審査会に持ち込んだ被害者や遺族、検察審査会や保護司らが責任を取っているのか、捜査に不手際があった警察が責任を取っているのかなどなど、犯罪者を検挙・訴追する立場や、犯罪者の面倒を見る権限や義務を持つ人たちがどうしているのか、考えてみるとよい。
 責任などほとんど取っていないのである。無罪判決の場合はまだ刑事補償という手があるがそれも部分的金銭的救済に留まる上にその他の救済は不十分である。その他はフリーパスである。
 そういうのをすっ飛ばして、処罰の具体的内容について特別公的な立場や職権があるわけでもない弁護団にばかりそんなのを求めることがいかにめちゃくちゃであるか、一目瞭然というものである。あるいは、「更生を主張すること自体おかしい」という意味の逆説的主張なのかもしれないが、それは弁護の自殺だろう。採用できるはずもない。

 弁護士が21人ついたと騒ぐ声もあるが、本件の主任である安田好弘弁護士が強制執行妨害で逮捕されたとき弁護人に名を連ねた弁護士は21どころか2100人、日本の弁護士の10人に一人にも及び、ついには中坊公平前日弁連会長が弁護士の資格を実質返上する事態になった。(安田弁護士の立場的なものもさることながら、起訴された事実が弁護士が通常やっている事なので危機感を感じた弁護士が多かったようだ)。
 社会に耳目を集める冤罪事件や公害事件の類でも多くの弁護士がつくことはある。例えば甲山事件は239人である。最高裁でかなりの主張が退けられている現在、弁護団としても相当に主張を絞らなければならない。ある程度人数が必要だというのも必ずしも理解できないものではない。
 もとより、最高裁から弁護人をしてきた安田好弘弁護士は自分が強制執行妨害で起訴され高裁に係属中(一審は無罪判決だが)の身の上、さらに足立・安田両弁護士は本村氏が懲戒請求中。
 ほかにも、死刑事件はプレッシャーが大きく、経済的に追い詰められたり、体を壊す弁護士もいると聞いている。(ここ参照)それなら、弁護団が多い方がむしろ遅延の言い訳が聞かなくなるという意味もあるのだが。名前を連ねただけというわけではなくかなりの弁護士が法廷に座っていたし。 


 本村氏は、今は死刑があるのを前提に判断されるべきだといっているという。私も全く賛成である。まあ憲法という前提もなくもないが、死刑違憲判決の可能性は現状では限りなくゼロに近いのが実際だ。
 だとすれば、検察vs弁護の対立構造の中で行われる日本の刑事訴訟も大前提として受け入れてもらわなければならない。都合のよい制度だけピックアップするわけにはいかないのである。 
 イギリスの司法は日本からすればほいほいと起訴・ほいほいと判決を出し、黙秘権に制限があり検察の立証責任もゆるいというラフな司法だが、結果として冤罪者死刑執行が発覚してしまって、そのため死刑はほぼないのだ。日本の割とがっちりした司法が揺らいでしまえば、死刑制度の存続に冤罪論からケチがつくことも考えざるを得ない。


刑法についてはそれこそ近代刑法の根幹を覆さんばかりの強烈な哲学を持つ本村氏であるが、それがその刑法の適用の前提となるべき訴訟の基礎の領域に「そのまま」出てきてしまったのは、いろいろな意味で不幸な事であるというべきかも知れない。

 確かに、この事件に関していえば、特に冤罪事件を意識するということはないのかもしれない。最高裁で安田弁護士の主張だって、最高裁ははねつけている。だが、ここで争っているにもかかわらず、簡単にはい冤罪じゃありませんねということがどれほどに人権にとって脅威であるか、また脅威として振舞ってきたかを改めてかみ締める必要があろう。



 本村氏は、既に一遺族の立場を超えてしまっている。
 犯罪被害者の会で理事をし、彼の一言一言が世論を大いに動かす。そういう立場に出てきて、彼は発言している。
 だとすれば、その発言の実現やその発言自体がどういうことをもたらすのか、一度でいいから本村氏には考えて欲しい。だから、今回あえて本村氏の理解への批判を中心に文章を立てた。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2007年05月25日 01時26分47秒
コメント(15) | コメントを書く


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

カレンダー

カテゴリ


© Rakuten Group, Inc.