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碁法の谷の庵にて

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2008年07月27日
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カテゴリ:その他雑考
日本の刑法学は、「犯罪の成否」であるとか、「成としてどの罪であるか」「減刑などの規定はいつ用いられるか」には、ものすごく興味が持たれていますし、司法試験でもまずその辺を問われます。無論、犯罪を裁くにおける大前提はその点ですから、そこをきちんと学ぶ必要があるのは言う必要もありません。


他方において、興味をあまり持たれていないのが、量刑論です。要するに、同じ罪の中でどれくらいのことをやらかせばどれくらいの罪を言い渡すべきなのか、という点においては、あまり研究がされません。刑法学はもちろん、刑事政策においてもさほど重大に扱われることは少ないようです。何百頁もある刑法総論の教科書で、触れられているのは2ページ程度…なんて、珍しくも何ともありません。
例外は、死刑と無期懲役の境目くらいではないのかと思います。それとて、刑法学の教科書にはほとんど書かれていません。


 日本の刑事実務において、有罪無罪や成立する罪が問題になることは少数です。「量刑がどれくらいか」というのが、弁護人や検察官の主要な関心です。実際、刑事弁護実務の本では、「量刑に関してどういうことが主張できるか」というのが20項目以上もずらりと書いてあったりもします。
 しかし、それらもパラメーターになっているわけではなく、どれが重要でどれがおまけ的でさほど重要ではないかは、結局のところ実務家の感覚に委ねられていたというべきであると思います。


 もちろん、これはやむを得ないといえばやむを得ないところであり、量刑が不当であるというのと違法であるというのとは異なります。(刑事訴訟法の控訴・上告理由においては量刑不当と違法は区別されているのです)
 また、あまりにも多数の因子があり、これらを細かく行うのは不可能であること、あまりにも多数の事件があり、それらを一律にこのパラメーターで行えというのは土台無理・・・というのがこの問題が研究されない一因であると言えるように思います。



 ・・・しかし、量刑基準の客観化は、本来は刑事実務家にとっては悲願と呼ぶべきものではないかと思うのです。特に日本の犯罪はこれで本当に罪刑法定主義なのかと言われるほどに法定刑に幅が大きく、法定刑の目安となるべきものが示されるのは、本当はものすごく大切なことなのです。
 現実にも、検察官や弁護士はある程度量刑に関して事例を蓄積して言い渡される刑罰の予測を立てています。刑事の判決は求刑の8掛け(8割)というようなことがよく言われます(今日の朝日新聞にも、それを皮肉ったと思われる川柳がありました)が、検察官はちゃんとそこまで見定めたうえで、求刑をしていると聞いています。裁判所の方で量刑を削るというのは、被告人としても多少なりとも判決に納得を得る契機となりうる(正当な判決なら、できる限り被告人に納得してもらえる方が将来の更生や無意味な控訴上告の抑止にもなります)ので、この運用は十分な根拠のあるものではないかと思います。

そうした量刑をもっと学問として考究すべきではないか、そして、量刑の基準ももっと分かりやすく明瞭にされていくべきではないか・・・と思う訳です。




ところが、どうも私のこの感覚はあんまり受け入れられていないようです。


例えば、新潟の女性監禁事件。9年2か月もの間劣悪な環境で監禁を続け、被害者に傷害を負わせた罪(現在は法定刑が引き上げられているが、当時の最高刑は懲役10年)と2464円分を万引きした被告人(処断刑上限は懲役15年)に対し、最高裁で言い渡された量刑は、懲役14年でした。
高裁は、監禁致傷の懲役10年が最高刑なのに、それで2464円分の万引き(被害弁済もされており、本来なら起訴猶予確実な事案)をくっつけただけで懲役14年とするのはおかしい、懲役11年が限度だろうという判断をしたのですが、最高裁判所はその解釈を退けました。
解釈論として不当と言えるかどうかはともかく、少なくとも量刑の決定因子の一つと考えられたものはきれいに退けられたという訳です。


そして、さらなる決定的な動きが裁判員制度。

裁判員制度は量刑判断を裁判員にも求めました。

これはつまり、量刑と言うのは専門的感覚が要らない、その場で範囲(法定刑・処断刑)を指定してもらえば、あとは市民のまさしく千差万別の感覚で決めてもらっていいんだ、ということを意味します。アメリカの陪審制なら、事実認定さえ決めれば後は量刑判断は裁判官に任されますし、司法に市民参加がある国で量刑を市民も決めるのは珍しいようですが、(量刑は法解釈に属すると考えられているようです)日本はその珍しい路線で行く、という訳です。



その結果、量刑を学問として体系だてることも、量刑において刑事政策的な配慮をすることも、多くが封じられてしまったように思います。市民の司法参加とは言っても、市民が刑事裁判や矯正保護に関心を持っていない(持つのは一部のショッキングな事件のみ)現在において、市民側の見識が期待できない(裁判員教育に割ける時間は決して長くないし、あまり指導をやりすぎると裁判員制度の自殺になる)となれば、結論は量刑に関しては市民などの感覚に対する丸投げの是認ということになります。




本当に、量刑はそんな風に決めてしまっていいのでしょうか?


裁判員制度にそもそも批判的な私ですが、こういう側面からも一つ疑問を呈したいと思います。





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最終更新日  2008年07月27日 19時15分05秒
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