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碁法の谷の庵にて

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2009年05月11日
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テーマ:囲碁全般(745)
カテゴリ:囲碁~それ以外
棋士は碁に勝たなければならない。誰が相手でも、神や悪魔が相手でもである。
勝ったら賞賛されることはあり得る(勝っても称賛されないことも当然ある)が、負けたら容赦なく叩かれる。
負けたら負けた事実について叩かれることについては、少なくとも公正なルールの下で行われている限りにおいては、異議を申し述べられない。


・・・とここまでは、少なくとも私には違和感のない結論である。
では、それに加えてなぜ私は棋士に研鑽や努力というのを求めるのか。

なお、この文章における棋士というのはただ単に棋士として認可されている人物という。形式的意味ではなく、その実質においても棋士としての権利を有し、義務を果たしている者を指す、実質的意味の棋士と解釈されたい。
棋士としての義務の履行を放棄した者は、たとえ日本棋院や関西棋院から棋士とされていてもこの文章の対象ではない。



あらかじめ確認するが、私が求めている研鑚は、決して研鑚している姿を見せることではない。見えないところで人知れず研鑚するものだというのは、私自身既に別の所で書いている。
また、研鑚していたからと言ってそれだけでほめたたえるのではない。
根拠もなく研鑚しないということが許されないということ、それだけ。
それは、あたかも一般社会における「犯罪をしない義務」のような位置づけだ。どんなに苦労して犯罪と無縁だったところで誰もほめたたえてはくれないのに、犯罪となれば社会的評価は暴落、刑事・民事の責任さえ問われる。無論、根拠もなく他人を犯罪をしない義務を守らない者=犯罪者だと言えば侮辱や名誉毀損にだってなるだろう。


本題に戻そう。なぜ私は棋士に研鑚を求め、またそうでなければならないと考えているのか。



まず、忘れてはいけないこと。
それは、碁というゲームは勝敗のつくゲームであるということ。少なくとも現在のプロ碁界では、常に半目単位までコミが設定される。両者最善に打った結果として、引き分けですなどというのがありえない。
三コウ無勝負などというほんのわずかな例外(あるいは、この例外こそが囲碁というゲームの結論なのかもわからないが)を除けば、碁を打てば常に敗者が出る。半目などという現象は盤上には存在しないのだから、常に善し悪しをつけることが求められていると言ってもよい。
無論、そこまでの水準に達しないプロも、現実には余るほどいる。世界最高峰とて、その例外とは少なくとも私には思えない。


では、敗者はそれだけで「棋士たることを否定」され、「棋士としての義務を守っていないと烙印を押され」てしまうのか。そうだ、という人も一定数いるのではないかと思うが、残念ながら私はそのような見解に賛同はしかねる。
 第一、世界中に棋士である人物、棋士としての義務を守っていない人物などいなくなってしまうであろうし、また棋士に年齢制限を設けている理由なども無くなってしまうように思う。

 負けた棋士になぜ無条件で対局料という金がはらわれるか、棋士であるが故の身分保障があるかと言えば、それは少なくとも一局の碁を打つために多数の研鑽(詰め碁だ棋譜並べだというような「勉強」とは異なり、前日に休んで英気を養うようなこともまた研鑚であると考えているが)をしなければならないことを前提に、それらに対しても支払われる報酬である、と言えるだろう。
 それと同じように、いかに負けた棋士であっても、研鑚義務を果たす限りにおいて棋士としての一定の尊厳をもつということを、私は疑ってはいない。だから、研鑚義務を果たしていないという非難に私はこれでもかとばかりに噛みつく。

 あるいは、研鑚なしでも俺様は全部勝てるんだ、という棋士もいるかもわからない。無論、それはそれでよいとは思う。勝つという「最も大切な義務を果たせる者」に、さらに追加でどうだ、などということを言う必要はないだろう。
 その意味では、劣後的義務であると言えるかもしれない。
 だが、現実のそのような高次の義務を守れている棋士など世界中探したとしてもいない。

結果が出せなければそれで全てが駄目で、棋士が棋士たる所以はなくなるのか。
少なくとも私はそうは思わない。
 負けは負けとして非難するが、その大前提たる研鑚が、負けてもなお彼の棋士としての価値を一定程度支えている。

 そういう問題意識から、私はプロ棋士に研鑽を求め、同時に根拠もなく研鑽をしていないと根拠なくバッシングする行為を厳しく非難しているのである。





※追記※

神様的ゲーム論の話をしているつもりはないのだけれど、現在の囲碁界の状況がどうなっているか分析したら、そこを盾に碁が分かっていないと言われるとは、まるで宗教家を相手にしているようである。
いかに優れたゲーム理論とて、それを支える現状がなければ絵にかいた餅に過ぎないことを、どれほど理解しているのだろう?
また、トーナメント一発勝負に限りといっても、現実のプロ棋戦はトーナメント一発勝負が大半であることをどう考えているのだろう?
現状分析に全く現状と違う哲学論を持ち込まれては噛みあうはずもない。ある意味オウムvs幸福の科学のようなものだ。

もう一つ。
アマの定義を「全ての碁を打つ人間からプロを差し引いたもの」という定義をしている私にとって、プロだからそれだけでアマより強いなどという理屈は、最初から俺さま理論乙ということになる(事実上そうなっていることは全く否定しないが)。
プロアマの相違は別に棋力それ自体でもなければ、研鑚それ自体とも見ていない。どんなに阿含杯その他で勝ったとしても、普及その他で功績をあげたとしても、私がホンマルグンセムやユンチュンホ、森洋喜、平岡聡etcといったアマ強豪をプロと見ることはない。(別に皆様をけなす意味ではありませんのでご了解のほどを)
「厳密な言葉」を用いれば、それは勝つ義務、研鑚義務とでも呼ぶべきものであろう。アマチュアとて研鑚をしたければすればよい。勝ちたければ勝てばよい。
ただし、それは「義務」ではない。嫌になったら平気で投げ出すことができるし、それに余所様が文句を言うことはできない。勝つ義務のない者に勝つ義務のある者が負けるというのがいびつであるから、プロというのはアマに負けられないというだけの話である。例え李世ドルや古力を一蹴できるような強いアマがいても、アマチュア視点からは何の問題もない。(韓国とかでは、そこまで荒唐無稽な話でもない)

義務を負う者と負わない者。同じことをしなかったとしても、その評価は異なってくる。
外国に住む外国人が日本に税金を納めなかった所でだからなんだである(無論、日本という国に寄付をすれば賞賛されるであろうが)が、税金納付義務者が納めなければボコボコに責任を問われる。



※※※再追記※※※

 レトリックで間違わせたのはこちらの責任なのかもわからない。
 しかし、現実社会の話をしているにもかかわらず、神様の目からのゲーム論として書や絵画であることや、神様に勝つ必要はないなどということを語られても、政治家と宗教家が話すようなすれ違いにしかならないだろう。無論、現実社会にも正義とか理屈の問題は絡むし、私自身絡めているので、境目があいまいであることは否定しないが。

 ・・・にしても、私はいったいいつ囲碁理論に精霊という表現を使ったのだろうか?(懐かしのわリーグで盛り上げたりした記憶はあるけどね)このHNで4年近く、悲惨極まりない殺人事件などを論じたこともあるのだが、それに何か問題があるのだろうか。
 精霊は超人的な能力を持っていることが多いとは言え、全知全能やらそれに準じる存在ではないのだが。千と千尋の神隠しに出た八百万の神様軍団を見れば、それはすぐにわかるであろう。

 ・・・にしても、義務を守っていないことが尊厳を破壊するとは思わないのだろうか?
 義務を守ったことをプラスに評価しろと言っているのではなく、義務を守らないということ(例えば、給料泥棒と罵るのは、給料をもらっていながらそれに対応する労働義務を守っていないということに通じる)がどれだけ人の尊厳に対してマイナスか考えるべきだというのが本旨であることは、本文にもずばり書いてあるはずなのだが、彼の考える「尊厳」と私の考える「尊厳」の意味内容が違うということなのだろうか(これでも善解している気がする)。
 私は少なくとも「そうであることだけで尊重されるべき価値」だと思っている(だから個人の尊厳だの人間の尊厳なんて言葉ができてくる)のだが、彼にとってはどうやらプラスのことをやって追加で評価されることとか、「偉い」というような意味合いまで達しないと尊厳などとは無関係のようである。
・・・大嫌いな北朝鮮のやっていることは、個人の尊厳とか何とかとは関係ないということなのだろうか。





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最終更新日  2009年05月14日 18時54分49秒
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