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碁法の谷の庵にて

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2019年04月10日
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カテゴリ:カテゴリ未分類
いくつかの性犯罪の無罪判決が相次いで報道され,これにより日本の司法がおかしいと言う批判が一部で渦巻いています。

 判決の当不当を論じることは判決文に目を通していない私からはできません。
 例え検察官が上訴して判決がひっくり返ったとしても,判決文を読まないままの私は「そうなんですか」としか回答しようがありません。
 批判者の方は、検討したであろう(と一応信用しておく)判決文の中身をより詳細に開示し、その批判の論拠を提示してほしいなと思います。
 残念なことに,判決理由に関する報道ほどあてにならないものはないことは弁護士なら皆分かってしまうので。




 私から,判決の当不当を離れてここでひとつ確認しておくべきことがあります。
 それは,
「刑事裁判と言う場は,犯罪被害者の救済の場としては作られていない」
「被害者救済の場として本来的に想定されているのは民事訴訟や行政支援の場である」

ということです。

 そもそも刑事裁判は「国家権力と被告人が刑罰権の存否をかけて」戦う場です。
 だから国家権力がヘマをすれば、例え被告人が真犯人であったとしても無罪放免という事は起こるのです。(違法収集証拠排除法則など)
 いくら犯罪被害者基本法ができ,刑事手続における被害者の地位についても考慮する規定が設けられ、更に刑事訴訟法でも被害者参加などの規定が設けられたと言えど、「国家権力vs被告人」の基本枠組みが動いた訳ではありません。
 あくまでも基本法やそれに伴う刑事訴訟法の改正は「配慮できることは配慮しよう」という,これまでの実務でも考えられてきたことに少し鞭を入れたに過ぎず、刑事裁判の基本枠組みをぶっ壊す,なんていう代物ではありません。
 そこまでのことをするなら被害者参加制度を盛り込むどころでは済まない、これまでの「刑罰は被害者救済が目的ではない」とする裁判所の基本的な考え方を立法府で否定するほどの刑事訴訟法の全般にわたる大改正が必須ですが、そんな大改正はなされていません。(と私は考えます)

 なお、性犯罪については親告罪であり、国家権力に被害者の意向を直接的強制的に汲み上げる仕組みが用意されていました。
 ここで公訴提起をしないという事で、被害者はどちらかを選ぶ権利があったのです。
 しかし性犯罪の親告罪規定は先日撤廃され、理念的には完全な国家権力vs被告人の戦いの舞台になりました。
(なお、実務運用としては親告罪でないとしても被害者の意向を酌んでの起訴不起訴の裁量は行われ続けていることを申し添えます)
 そう考えると、性犯罪に関しての被害者支援はある意味では後退した側面さえもあるのです。



 「国家権力vs被告人」を前提に設定されている刑事裁判における有罪無罪の争いは、「疑わしきは罰せず」です。
 例え9割加害者、1割冤罪でも、その1割の冤罪を救うためには9割の加害者も無罪放免する。それが疑わしきは罰せずと言うルールです。(なお、犯罪被害者支援団体「あすの会」は死刑廃止反対を主張するにあたって「疑わしきは罰せずを貫く」ことを当然の前提としていることを付言します)
 それは被害者感情も市民感情も何も関係ない厳然とした、ドライなルールです。
 そこに「立証が大変になるし法益侵害の度合いが凄いから下駄をはかせてあげる」なんて甘っちょろい政策的配慮はありません。
 裁判官や検察官が内心でそれっぽいことを考えてしまうことはある(私個人はこの配慮が生んだ冤罪事件はほぼ確実にあると推測しています)と思いますが、「だから緩い証拠でもいい」なんてことはあり得ないのです。

 民事裁判であれば、私人対私人の利益調整の場であるため、「こんな立証を求めたなら被害者はどうしたらいいのだ」「証拠をきちんと準備していないこと自体が落ち度だ」ということで立証=被害者側に下駄をはかせるという事も比較的行いやすいです。
 行政支援であれば、その法的な効果に他者の権利侵害の側面が薄いため、仮に「実は被害なんてインチキ」なんてことがあっても実害がそこまで酷くないので、緩い認定で支援に踏み切ることもできます。
 しかし刑事裁判はそうなっていません。
 そもそも被害者を助けるための制度として作られていない上、被告人の生命や自由がかかる、かかっているものとしては司法権行使の中でも最大最悪の修羅場だからです。


 そうなっていない刑事裁判に無理やり被害者をあてはめ「被害者vs被告人」という構図にして捉えると、当然被害者に合わせて作っていない以上被害者にとっては刑事裁判と言う「合わない服を着せられている」のも同然であり、あちこちが軋んで痛いことになります。
 もちろん衣服たる刑事裁判の方だって壊れていくでしょう。
 ある程度の仕立て直しで「着られなくはない」程度にはできるかもしれませんが、限度があります。


 例えば、「証拠が足りない故、真実に不明瞭な点がある」という「玉虫色の状態」は裁判上不可避です。
 刑事裁判にも迅速の要請がありますし(憲法37条1項)、たかだか「二当事者対立の裁判で完全な形の真相が裁判所に客観的に把握できるようになる」なんて、「そんなオカルトありえません」。

 そんなとき、「無罪判決」で負けたのは「国家権力であって被害者ではない」というのが、「国家権力vs被告人」本来の裁判の原則です。
 せいぜい、仮に無罪になったとしても被害者の応援するチームが負けた、程度の話であり、それだけで被害者の人格が非難されるようなものではありません。
 被害者に対して非常に厳しい「疑わしきは罰せず」のハードルを越えられないことの責任を取らせたりせず、検察が矢面に立つと言う形で制度的には一定のバランスが取られているのです。

 ところが、法制度を無視して「被害者(&その代理人としての検察官)vs被告人」の構図と捉えると、「負けたのは検察ではなく被害者」という扱いになり、ひいては被害者への非難も生みます。
 無罪になっただけで「被害者が偽証したのではないか」「少なくとも嘘を言っている」という扱いが生じてしまったり,ひいては「あるがまま誠実に被害を証言した被害者が、たまたま疑わしきは罰せずの厳しい基準に通らなかっただけでバッシングされる」と言うあまりにも酷な結果を生んでしまうのです。
 あくまでも「被告人vs被害者で被害者が負けた」ではなく「検察が疑わしきは罰せずのハードルを越えられなかっただけ」と捉えるならば、無罪判決があったとしても被害者が殊更第三者から人格的に非難されるようなものとはとらえられず、「あなたの応援するチームがたまたまハードルを越えられなかっただけであなたが不誠実な自称被害者と言っている訳ではない」という事もできるはずなのです。



 被害者当人が加害者の処罰に執念を燃やし、検察と心理的に同調した結果として検察の敗北に苦しむのは全くおかしくない事であり、そのような被害者のお気持ちを責める気はありません。
 立法論としてなら、もっと被害者に寄せた刑事訴訟法の大改正を主張する、というのもありなのでしょう。(賛成はしませんが)
 しかし,第三者が現状を勝手にその枠組みでとらえ「被告人vs被害者」の枠組み前提に現在の裁判の事実認定や裁判制度を論じようとするのは、被告人や法曹三者はおろか、当の被害者にとっても苛酷な結果やひずみ(「立証政策に配慮した結果としての冤罪」とか、「不運な無罪が被害者攻撃のタネになるなど」)を招きます。

 裁判制度における被害者の地位においては、
「被告人vs国家権力に被害者が少し入ってきていると言う程度であること」
「その枠組みでできているため、被害者の救済に使い勝手の良い仕組みではないこと」
「被害者の救済に向いた刑事訴訟法にするには、刑事訴訟法を根本から改正する位の大規模改正が必要であること」

を十分に認識した上で論じていただきたいと思います。





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最終更新日  2019年04月10日 17時50分52秒
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