今、塾人として。
例えば数学の相似なら、江戸初期の関ヶ原の戦いにより親藩、譜代、外様の大名の勢力構図の中で、各藩は、江戸城や諸城の高さを忍びの者を利用し相似の考えを使って調べさせた。ここでは数学の相似も必要なことだ。国語なら、かな文字の普及により、当時は男性社会の禁を破り,女性である紫式部や清少納言らが輩出してきた時代背景を考えさせることができる。英語なら、自国の日本の文化や歴史を知らずしてなぜ使えない英語を中・高の6年にもわたり半ば義務教育と称して学ばなければならないかという疑問を、グローバルやスタンダードという言葉の下で考えさせねばならない。社会なら歴史的事実や名称の重箱の隅をつつく暗記ではなく、なぜそのように当時の国家や体制は、選択しなくてはならなかったのかという視点の下に子どもたち一人一人に考えさせねばならない理科では今我々が恩恵をこうむっている?基本的な原子力発電の構造を教え、そしてそれが果して国民にとっていいことなのか悪いことなのかをそれなりに考えさせる。大事なのはつねに考えさせ、意識させ、気づかせる(この言い方が僭越であれば自らが気づく・・・)そしてそれにより行動し、社会の中でインサイダーとして家庭を持ち生きていく・・・なぜこのようなことを書くかというと、公であれ私であれ子供を教えるというのは責任があるということだ。塾であっても高校や大学に入れれば、それで終わり、事足りたということではない。何故ならこの国の未来は今まさに彼らに委ねられているのだから・・・考える子供たちを作らねば、けっしてこの国はいい方向には進まないだろう・・・