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テーマ:街歩き(613)
カテゴリ:街歩き
雪の少ない冬だと思っていたが、2月に入ってからだいぶ降るようになった。とはいえ、仙台では「雪掻き」というほど大業なことにはならないし、わが家では硬い箒で掃くくらいで済んでいる。
9年ほど前に、原子力工学の専門家は「科学者」であるのかと考えてみたことがある。再掲しておく(「「7月27日 脱原発みやぎ日曜デモ」 憂鬱を晴らしにデモへ!」)。 だいぶ前に読んだ本で、科学哲学者ジェームズ・R・ブラウンが次のような一文を記していた。 「物理学者は、量子力学は基本的には間違っているかもしれないということを認める。物理学者なら誰でも、まったく予想もしなかったような実験結果が出たり、新しくて深い理論的洞察が得られたりすれば、量子力学が明日にもひっくりかえる可能性があると思っているのだ。もちろん、その新しい証拠をきちんと調べるためには時間がかかるだろうし、これほどみごとな理論をあっさり捨てるのは軽率というものだろう。しかし原理的には、量子力学もまた、天文学における天動説(地球中心説)のような道のりをたどる可能性はあるということだ。 それとは対照的に、キリスト教徒のなかに、キリストの神性にたいする信念を捨てられる者が一人でもいるだろうか? あるいは、キリストは私たちの罪を背負って死んだという信念を捨てることができるだろうか? 神がいっさいをつくったという信念は? 物理学者と司祭との大きな違いは、あつかうテーマの違いではない。その違いは、つきつめれば次のようなことなのだ。物理学者は、現行の物理学の中核的信念をすべて捨てたうえでなお、物理学者でいることができる。司祭は、中核的信念を捨てるなら、司祭をやめるしかない。忠誠は、宗教においては徳である。しかし科学においては罪なのだ。」(ジェームズ・ロバート・ブラウン(青木薫訳)『なぜ科学を語ってすれ違うのか ――ソーカル事件を超えて』(みすず書房、2010年)p. 80-81。) この考えは、科学(物理学を科学一般と考えてよい)と宗教に関するきわめて常識的な考え方である。〈3・11〉後、福島の悲惨を目にして多くの人は原発の存在そのものに否定的な考えを示した。しかし、テレビで原発について語る原子力工学の専門家や政府関連の委員会の原子力専門委員のなかで、原発の存在を絶対的な前提としない考えを語る人物をついに見かけることはなかった。 彼ら、原子力工学の専門家にとっては、原発はキリスト教徒におけるキリストに等しい絶対的存在らしい。たしかに、原子力工学を学んだ学生が進むべき道は原発を作るか、原発を保守するかしか進路はない。核融合炉という道もあり得るが、いずれ原発と同じ運命をたどることは明白だ。 ブラウンの言葉に照らせば、原発が信仰の対象のようになっていてその対象を相対的に思考できない原子力の専門家は、科学者ではないということだ。 フクシマ以降、科学者は信用できないとか、政府御用の専門家は信用できないという言葉をいろんなところで聞いた。当然なのである。彼らは科学者ではないのだから、科学者として信用すること自体間違っていたのだ。 科学者としての〈知〉とか〈学〉とかを期待してはならないのである。ましてや、よく言われる科学者の〈良心〉などはないのだ。なにしろブラウンの定義上、彼らは科学者ではないのだから。 科学者に期待できないなどと言いたいわけではない。科学者ならざる原発信仰者としての原子力工学者に期待できないだけである。全人格的にすぐれた科学者はたくさんいる。 残念なことに(当然でもあるが)、そのような科学者は政府委員会には不都合なので、権力機構の中に地位を占めることができないのだ。(2014年7月27日)
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