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山行・水行・書筺 (小野寺秀也)

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街歩き

2020.07.31
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テーマ:街歩き(515)
カテゴリ:街歩き

 私の情報探知能力がそれほど高くないせいかもしれないが、最近の日本では良いニュースというのがとても少ない。そのせいか、いまや普通のニュースが良いニュースに思えてしまう。
 その一つに「​「黒い雨」訴訟 84人全員被爆者と認める 広島地裁判決​」(7月29日付け中國新聞電子版)というニュース速報があった。広島に原爆が投下された後に放射能を含んだ「黒い雨」が降って多くの人が被曝したことは、井伏鱒二の小説『黒い雨』に描かれたこともあってよく知られている。しかし、同じように健康被害が生じているのにその雨が小雨だったという理由で被爆者手帳を交付しないのは違法だとして広島地裁が広島市と広島県に手帳交付を命じる判決を下した言うニュースである。
 もともと黒い雨がどの地域でどの程度の強さで降ったのかという知見に信頼性がなかったにもかかわらず強引に線引きしてしていて、健康被害に対しては放射線障害によるものではないとされていた。このような根拠のない線引きで救済すべき人たちを切り捨てるという手法は、ヒロシマばかりではなく66年後のフクシマでも無反省に行われている。
 この判決が黒い雨による放射能被曝から75年も経てから出されていることにいまさらながら唖然とする。この訴訟を起こした84人のうち9人はすでに亡くなっている。原爆、原発、放射能は宿痾のように日本人にしがみついているように思えてしまう(単に、政治的な犯罪に過ぎないのだけれども………)。

 もう一つのニュースは、「​同意なく被ばくデータ使用の論文2本を撤回 早野東大名誉教授ら執筆​ 」(7月31日付け東京新聞電子版)である。
 福島県立医大の宮崎真講師と早野龍五東大名誉教授は、福島原発事故後の伊達市民のガラスバッジによる個人線量測定データと内部被曝線量データを用いた論文を2編発表していたが、それらの個人情報を同意がないまま使用し公表した倫理違反を犯したばかりか、データの数量的取り扱いにもいくつかの誤りを犯したまま伊達市民の放射線被曝はきわめて低いという結論を導き出していた。
 その2編の論文は、放射能被害を小さく見積もりたい政府にとっては好都合で、いわば安倍自公政権の神髄たる「忖度」を絵にかいたような論文となっている。この「宮崎早野論文」事件は当ブログでも3度ほど取り上げ、私の考えをすでに書いているので再掲しておく。


 「宮崎早野論文」はそのインチキさにおいて事態の深刻さは計り知れない。70パーセントの人が家に置きっぱなしだったガラスバッジのデータを使って「被曝線量はとても低くて問題ない」という結論の「科学論文」を書いて政府・行政の判断をミスリードしたのである(もちろん、政府・行政サイドはミスリードされたがっているのだが)。
 科学論文なのに、データにまったく信頼性がない。加えてデータ処理(計算)が間違っていたと著者自身も認めている。つまりその「科学性」はほとんど皆無なのである。その上に、個人データを許可なく使用したという重大な倫理違反まで犯している。「何をかいわんや」である。
 このような科学者はほんのわずか(なはず)だが存在している。ごくまれに科学的実力以上に評価されたい、高い地位を得たいと科学とまったく無関係な欲望につき動される科学者がいるのは残念ながら確かである。「宮崎早野論文」がその典型的な事例である。


 宮崎早野論文は「Journal of Radiological Protection」という専門誌に掲載されていたのだが、その専門誌が論文2編とも撤回すると発表した。それに伴い、福島県立医大はその論文の内容を含んだ内容で取得した宮崎講師の博士の学位を取り消した。
 このような結果になるだろうということは予想していた。政治とは異なり、少なくとも自然科学の領野では捏造、隠蔽、忖度によってでっち上げられた業績が生き延びた例はないということは、経験的には知っていた。とはいえ、物理学を職業として生きてきた私にとって、「宮崎早野論文」事件がどのように治まるかは気がかりではあった。未曾有の「非知性」政権下では捏造科学論文も生き延びるのではないかと、一抹の不安はあったのである。
 科学論文ではこのような結末になることは当然なのだが、そのニュースが「良いニュース」に思えてしまうことが情けない。









元鍛冶丁公園から一番町へ。(2020/7/31 18:22~18:36)


 久しぶりの青空のような気がする。いつもと夕方の明るさが違うのである。撮影条件を気にせずカメラのシャッターが押せる(かと言って、いい写真が撮れるわけではないのだが)、そんな気がするほどである。

 主催者挨拶もフリースピーチも、東北電力女川原発2号機の安全性を検証する宮城県の有識者検討会が7月29日に最後の会合を開き、検討結果を県知事に提出した話題である。
 知事は、この報告を女川原発再稼働判断のよりどころとしたいようだが、検討会は女川原発2号機が安全だという結論を出してはいないし、事故時の避難計画についてはまともな議論もしていない。いわば、典型的な県のアリバイ作りのための忖度会議だったのである。
 そのほかに、「黒い雨」裁判や、フクシマ避難者の裁判の報告・告知などがあって、25人のデモは元鍛冶丁公園を出発した。















一番町。(2020/7/31 18:36~18:43)


​ デモが一番町を通ると、先週と同じように「なまはげ」が立っていて、デモに向かって小さく手を振ってくれた。その時、私はデモの後方で撮影していたので、手を振る姿をカメラに収められなかったが、異形の大男のその小さな身ぶりがとても「かわいらしい」のだった。​







青葉通り。(2020/7/31 18:46~18:52)


 昨日の午後、妻が左手の橈骨骨折で手術を受けた。病院での手術の事前説明と術後の経過説明のときは病棟に入れてもらえたが、それ以外は頃ウィルス感染予防のため面会禁止とされている。
 それで少しばかり解放気分を味わっていたが、「あれを持ってこい、これを持ち帰れ」という指令電話は容赦なくかかってくるのである。病院の玄関口で指定された時間に荷物の受け渡しを引き受けてくれるのである。荷物にコロナウィルスが付着していたらどうするんですか、とクレームをつけて病院通いをさぼるだけの勇気は私にはない。
 そんなことを考えるデモ帰りの日暮れではある。

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かわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)






Last updated  2020.08.02 10:40:06
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2020.07.17
テーマ:街歩き(515)
カテゴリ:街歩き

 日本という国がかつて科学技術で先進国家であったことは事実だが、現在は泣きたくなるほどの凋落の道を辿っているのは様々な局面で明らかになっている。テレビなどのマスコミで「日本すごい!」レベルの報道が多くなったのは凋落と軌を一にしているのは当然である。自分で自分を騙る以外に、気が休まる方法がないからである。問題なのは、多くの日本人がまだ日本は先進国だと信じているらしいことである。
 そんな日本の現状にあたかも傷口に塩を擦り付けるようなニュースが7月17日付け日経電子版に掲載された。「日本すごい!」という迷妄報道の先頭を走っているような日本経済新聞の報道である。
 「​遠い「最先端IT国家」 20年前宣言、現実は10位以下​」という記事だ。2019年におけるIT関連の国際競争力で日本は世界の12位だったというニュースである。日本政府は20年前に「5年以内に世界最先端のIT(情報技術)国家となる」と宣言したうえに、2020年の経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)で「社会のデジタル化」を柱にしているにもかかわらず、である。韓国、エストニア、デンマーク、シンガポールにはるかに及ばないのである。
 20年前の2000年の日本の宰相は森喜朗衆院議員で、彼はIT(情報技術)を「イット」と呼んで日本中に苦笑と嘲笑を巻き起こした。ごく最近は、安倍内閣では、パソコンの知識がまったくないというよりパソコンに触ったことすらない大臣が「社会のデジタル化」政策を管掌していた。IT関連の国際競争力が凋落こそすれ、強化されることはもともと絶望的なのだ。
 ITに詳しい官僚もいるだろうが、いまや官僚はそのような無知な政治家に忖度することに力を注いでいるらしいので、これも期待できない。政治家の不祥事の後始末を下級官僚に押し付けて、その死を踏み台に出世する官僚たちが跋扈しているのだから………。

 「科学技術立国」などという言葉があったが、まだ生き延びているのだろうか。政治家以外に今でもそんな実体のない言葉を使う人間がいるのだろうか。







元鍛冶丁公園から一番町へ。(2020/7/17 18:15~18:36)


 曇ってはいるが、雨の心配はないようだ。元鍛冶丁公園に着くと、スタッフの一人が私の手にアルコールを吹きかけてくれる。「多い方がいい?」というので「たっぷりと」と答える。「多すぎると文句を言う人がいる」そうである。
 午前中にやっと再開した町内会行事があった。いつもはその行事には出ないのだが、初めの方だけ顔を出した。体温測定やアルコール消毒などのコロナウィルス対策がマニュアル通りにやれているか、マニュアル作成者としては心配だったのである。私のマニュアルでは、15秒以上両手で揉みこむことができる量のアルコールと決めている。いずれにせよ、少ないより多い方がウィルス対策としてはリスクが小さいはずである。

 フリースピーチは、「女川原子力発電所に関する住民説明会」について何人かが話した。宮城県は、8月1日から女川原発近郊の市町村7ヶ所で「原子力災害に関する緊急時の国、県、市町等の対応について」の説明会を開催する。説明するのは、原子力規制庁、内閣府、資源エネルギー庁の役人と東北電力の社員である。
 しかし、宮城県も国も女川原発の事故時の緊急避難計画の不備についての市民団体からの質問に答えることを拒否したままである。答える必要性がない、というのではなく、おそらくは合理的な根拠に基づいて答えることができないのだろう。
 二日ほど前、テレビのワイドショーに出演した自民党の国会議員がコメンテーターから「GO TO キャンペーン」の不合理を問い質されていたが、最後には「頑張ってやっているのですからどうかご理解いただきたい」という絶叫の連呼でしか答えることができなくなっていた。根拠が十分で合理的な説明ができないとき、「ご理解いただきたい」と大声で喚きちらすのはこれまで何度も見てきた自民党政権の姿である。
 たぶん8月の住民説明会も「ご理解いただきたい」の連呼で終わるだろう。それよりも何よりも、宮城県のコロナウィル感染症発生は県が定めた「みやぎアラート」のレベル2で、まもなくレベル3になろうという勢いである。そんな時に住民を1か所に集める説明会に「合理的な理由」が存在するのか、その疑問に答えるのが先のような気がする。















一番町。(2020/7/17 18:36~18:45)


 おしどりマコさんは、東京電力の記者会見での質問・取材を通じて東電1F事故の真相を明らかにし続けていて、その能力はその辺のジャーナリストの取材力・追求力をはるかに凌いでいる芸人さんである。
 彼女が最近「​【福島第一】測定員不足、計器故障、二次処理の実験もされないまま議論は大詰めに【ALPS処理水】​」というレポートを書いている。ご自身が「6行まとめ」という記事の要約を書いているので引用しておく。


・「トリチウム水」とかつて呼ばれていた福島第一原発のタンクの「ALPS処理済水」はトリチウム以外の核種もたくさん残っていることが分かり、それは「二次処理をする」ということになっていた。
・「ALPS処理水」の処理の議論が大詰めになっているにも関わらず、二次処理の針画はまだ公表されていない。
・6月22日の筆者の質問に「今年度中に2000t程度」と口頭で回答されにのみ。
・しかし「ALPS処理水」には、今まで取リ切れない核種だけでなく、測り切れていない核種もあることがわかった。ヨウ素129、カーボン14、テクネチウム99である。
・これらの核種は測定が難しく、2019年度までは東京電力はこの核種を測定できる測定員が1人しかおらず、この核種をよく把握できていなかった。2020年度は測定員を増やしたが、今度は測定に必要な計器が壊れ、外注している状況である。
・カーボン14はALPSで除去する対象の核種ではないため、ALPSに何度通しても、取り切れないことが予想される。R0装置で除去するというが果たしてうまくいくのか。なぜその重要な実験を議諭の前にやらないのか。
このまとめをさらに一言で言えば、いまその処理をどうするか議論の対象になっている「トリチウム水」(これは政治的な命名で、実体はまぎれもなくただの高放射能汚染水である)にはどれほどの放射能が含まれているか、東京電力は把握していない。把握していないどころか、測定する能力すらないということである。汚染水をどうこうするという議論以前のレベルである


 このまとめをさらに一言で言えば、いまその処理をどうするか議論の対象になっている「トリチウム水」(これは政治的な命名で、実体はまぎれもなくただの高放射能汚染水である)にはどれほどの放射能が含まれているか、東京電力は把握していない。把握していないどころか、測定する能力すらないということである。汚染水をどうこうするという議論以前のレベルである。
 これは、おしどりマコさんが東京電力を問い質して引き出した「事実」である。報告記事では、さいきん「トリチウム水」を海洋放出すべきだと盛んに主張している細野豪志衆議院議員の主張にきっちりと反論をしているので、そこも注目に値する。

 細野という人は原子力問題の知識にまったく疎いのになぜ「トリチウム水」にこだわって発言するのか不思議だったが、彼はいま必死に自民党幹部に取り入らないと政治家として先がないらしいということで得心がいった。わが身が可愛くて、無知をさらけ出して頑張るしかない政治家というのは見ていて辛いものがある。







青葉通り。(2020/7/17 18:49~18:55)


 コロナ禍での中断から再開したデモは、大声を出さないためにコールはしていない。市民へのメッセージは録音したものを流している。それだけでは寂しいので、メッセージとメッセージの間にかつてのデモのコールの音声を流すようになった。
 録音されたコールのコーラーの声があまりよく聞き取れないのだが、スタッフの一人が「これはおれの声かなあ」と言っていたが、なんど聞き直しても私には判別できなかった。
 私は耳が悪く、両耳には補聴器を入れている。補聴器が入っていてもいなくても雑音混じりの音には極めて弱いのである。会議では何の問題もないのに、会議が終わってざわざわし始めると、隣の人に話しかけられても聞き取れないことが多い。
 もともと静かな山や川が好きなのだが、ますます雑音の多い町や人間集団が苦手になっている。デモが終わり、今日も人通りの少ない道を選ぶように帰るのである。

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かわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)






Last updated  2020.07.19 08:46:03
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2020.07.10
テーマ:街歩き(515)
カテゴリ:街歩き

 昨日、友人が悪性リンパ腫で癌専門病院に回されたという連絡があった。急いで見舞いに行かなければ、そう思ったのだが、コロナ禍のために面会禁止なのだった。

 14年前、大学で1年後輩の友人が肝臓癌で亡くなった。現役の高校教師で、若いころには何度か会うこともあったが、仕事が忙しくなるにつれ、会うこともなくなった。その後、4、5回ほど電話で話すことがあった。時には、街で飲んでいるのだと夜中に電話が来ることもあった。彼も私も会いたいという気持ちでいたに違いないのだが、会わずじまいで時は過ぎてしまった。
 職業人として私の先(の終端)も見え出したころ、彼に会おうと思ったのだが、その時、彼は肝臓癌を患い入院中だった。見舞いに行くと、ときどき入院しては癌を散らすのだと言っていた。しばらくして、自宅か入院中か尋ねようと思って連絡したら、彼が亡くなったと電話口で奥さんが言うのだった。
 5年前に中学時代の同級生がこれも肝臓癌で亡くなった。東日本大震災で家を流され、被災者住宅で暮らしていた彼は、私が幹事を務める同級会を楽しみにしていた。大震災後の2年後の同級会は体調不良で、会に顔を出してすぐに帰って行った。次の同級会のときは、会場に向かう途中でもらい事故に遭い、参加できず残念だと電話口で口惜しがっていた。次の同級会の開催が決まった時、彼を喜ばせようと思って案内状を作る前に彼に電話したのだったが、彼の携帯電話に出たのは息子さんだった。癌を患っていたのだという。同級会は、間に合わなかったのである。

 友人のリンパ腫の連絡があったとき、二人の癌死のことを思い出した。どちらも私はどこか一歩遅いのだった。だからこそ、今度はすぐにでも会いに行こうと思ったのだったが、面会禁止なのである。動かなければ手遅れ、動こうとすれば立ち往生。これからも友人たちに不義理のまま別れるしかないのか、そんなめげた気分のまま家を出て、ときおり強くなる雨脚の中、元鍛冶丁公園に向かった。









元鍛冶丁公園から一番町へ。(2020/7/10 18:13~18:34)


 雨のせいか、今日の参加者は多くはない。その少ない参加者が屋根のあるステージに上がっていて、私はステージの真正面の公園入口から入って行ったのだが、そろってこちらを見ていてなんとなく足が止まりそうになった。とくに私を見ていたわけではないのだろうが、どうも気まずい感じがする。
 人前に出るのが苦手なのである。職業として講義をしたり講演をしたりするのはまったく問題がなかったのだが、それ以外はまったくダメなのである。ダメと言うよりたぶん嫌いなのである。人の集まりではいちばん後ろに控えているのが落ち着いていられる。367回を迎えた金デモの集会でも一番後ろが私の定位置である。
 もっとも写真を撮るために動き回るのだが、それでも写真を撮り始めて1年半ぐらいはみんなの後ろ姿しか写せなかったのである。

 集会のスピーチは、原発の半径30km圏内に住む石巻の市民が女川原発の再稼働の地元同意の差し止めを求めた裁判で、仙台地裁はその申し立てを却下したというニュースについてなされた。
 住民の申し立ては、女川原発の重大事故を想定した避難計画に実行性がないとして再稼働に同意しないように求めたものだが、ここでも権力に忖度する司法の姿が露わになった。ただし、住民側は仙台地裁の決定を不服として仙台高裁に即時抗告したので、闘いはまだまだ続くのである。
 重大事故時における避難計画に実行性がないのはつとに指摘されていて、どんなものでも形式的に避難計画を作りさえすればいいだろう、そんな程度のものなのである。金デモでは、市民へのメッセージをデモ中に読み上げているのだが、その1節に避難計画に触れた一文があるので、転載しておく。


 女川原発で事故があった場合、住民がどのように避難するのかについて、宮城県の試算が公表されました。これによれば、重大事故発生時、原発5キロ圏内の住民が避難先へ到着するのに、なんと50時間もかかる恐れがあることが分かりました。これまでの計画では、6時間かかるとみていたので、まったく異なる結果になりました。
しかも、この試算でも、まだいろいろなことが検討から抜け落ちているので、実際にはもっとかかる可能性が高いのです。みなさん!原発で重大事故がおきても、3日も逃げられないのでは、被ばくを避けることは不可能ではないでしょうか?
 また、放射能の被害を避けるためには、「密封」が基本になりますが、新型コロナ対策には「三密」をさけなければなりません。放射能対策とコロナ対策は、まったく逆のことをしなければならないのです。
 避難計画には実効性がないとして、石巻市民が地元同意の差し止めを求める仮処分を仙台地裁に申し立てていました。これに対し、7月6日、仙台地裁はなんとこの申し立てを却下する決定をだしてしまいました。しかし、そこでは避難計画の実効性についてはまったく評価していないのです! この決定をうけて、村井知事は再稼働を進めようとすることは明らかです。いまこそ、再稼働を絶対に止めるんだという私たちの願いをデモで示していこうではありませんか!















一番町。(2020/7/10 18:37~18:43)


 宮城県知事も女川町や石巻市の首長も女川原発2号機の再稼働ありきの姿勢で、ずさんな避難計画を認めた県や国の姿勢に追随するばかりである。そのような首長を選んだ責任と悲惨は住民の上に降りかかってくるが、ちゃんとした人物を選べば異なった事態が生じうることを暗示するニュースがあった。
 「​原発事故時 「現実的な避難計画を」 柏崎市、国に感染症対策要望 /新潟​」(7月3日付け毎日新聞電子版)である。 柏崎市の桜井雅浩市長が、政府が示した感染症流行下での住民避難についての「基本的な考え方」や政府が了承した感染症対策を盛り込んだ女川原発の避難計画が「現実性に欠ける」として「住民の行動を想像し、より現実に即した計画に高めてほしい」と要望したというのである。
 こういう要望だけで十分かどうかはさておいて、住民の生命財産を守ろうとする地方自治体の首長ならとるべき行動の第1歩にはちがいない。







青葉通り。(2020/7/10 18:49~18:51)


 悪性リンパ腫の当の本人は「なに、一病息災ですよ」と言っていたというが、たしかにそういうことはあるだろう。昨夏に亡くなった義母は健康体であったが、病気好きというか、ちょっと加減が悪くなるとじつに立派な病人らしい病人になるのだった。そんなことを繰り返しながら115歳まで生きたのだから、見事な一病息災と言うべきだろう(その時々で身に付けている一病は異なるのだが)。
 考えてみれば、悪性リンパ腫の本人が何も病んでいない私より長生きするというのは大いにありうることである。その程度には私たちは老いているし、その程度には医学は発達しているのである。
 友人の悪性リンパ腫を悲しみつつも、友人たちと私の人生をひそかに愛おしむことができればそれで良しとするか………。

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かわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)






Last updated  2020.07.12 10:34:49
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2020.07.03
テーマ:街歩き(515)
カテゴリ:街歩き

 フランスで一番古い原発を閉鎖・廃炉にするというニュース(​6月29日毎日新聞電子版​)があった。原発を廃炉にするというのだから喜ぶべきニュースには違いないが、それほどのことでもない。
 ただの電気を作るだけの原発一基の事故で何十万人の住民が故郷を放棄せざるを得ないことがフクシマで証明され、しかも時代はすでに原発はコストが嵩むだけの古臭い野蛮な工業技術に成り下がってしまったことを歴史的に証明しつつある現在、視野を世界に広げて原発のことを考えると、原発の廃炉というニュースは当たり前すぎて特別の感慨がわくようなことではない。
 フランスのフェッセンハイム原発は1977年から発電を開始したが、35年を経過した8年前に当時のオランド大統領が廃炉を決意したもののマクロン大統領や原発推進派の抵抗でペンディングとなっていた。しかし、新規の原発はトラブル続きで運転開始の見通しはなく、原発の発電コストはほかの技術に太刀打ちできなくなって、マクロンをはじめ原発業界や右派(なぜどこの国でも右派は原発推進なのだろう、原発に賛成する人間をすべて右翼と呼んでいいのか)が諦めたという構図である。世界的な金融投機筋が原発企業への投融資にしり込みを始めたということもあって、世界全体の流れから言えば安倍政権が目論んだ原発の輸出という企みがことごとく失敗したのも当然なのである。原発推進で経済に貢献できるといまだに考えているのは世界で日本ぐらいなものである(今しばらくは中国もそうかもしれない)。
 中国のような原発後発国が原発建設に邁進しているのは、炭酸ガス削減で世界が動き出そうとしているとき工業後進国は先進国ほど排出していないとして抵抗する動きと同じ現象で、時が経てばしだいに炭酸ガス削減、原発廃炉に向かうに決まっている。大気中に増えていく炭酸ガスや、大地、海、大気をことごとく汚染する放射能は工業先進国、後進国を区別することはない文字通りグローバルな現象だからである。あるとすれば、それぞれの国で責任の重さが異なるということぐらいに過ぎない。

 フランスの原発廃炉のニュースも、「泊原発 運転期間の延長検討」(​​6月26日付けNHK NEWS WEB​​)というニュースと並べてみるととても味わい(?)ぶかい。「北海道電力の藤井社長は、運転開始から30年前後がたっている泊原発の1号機と2号機について原則40年に制限されている運転期間の20年延長を検討する考えを示した」、というのである。
 その際、「原子力は二酸化炭素を出さない低炭素の電源として電力のネットワークを維持することができる。私はできるだけ長く、長期的な電源として位置づけたい」と述べたというのである。
 「原子力は炭酸ガスを出さない」などというメリット論はいつの時代の話だ。時代はもっと先に進んでいて、古い原発の廃炉を決めたフランスは原発大国と言われながらも再生可能エネルギーへの転換を標榜しており、原発廃炉が炭酸ガスを大量に排出する火力発電に切り替えることを意味するなどという話は世界のどこでも(特に先進国では)起きようがないのである。
 日本の原発推進の議論は、明らかに世界の新しい潮流とはかけ離れている。安倍自公政権の政策の例にもれず、原子力政策も極端なガラパゴス化が進んでいる。コロナウィルス対策もまったく同じで、世界全体との比較がまったくできないため、考えるのが嫌になるほどの無策にもかかわらず、世界に誇れる対策を行ったなどと吹聴して世界のジャーナリズムの嘲笑の的になっている。
 日本の政治家やマスコミ・ジャーナリズムのガラパゴス化はもう救いようのないほど進んでしまっているのではないか。

 ところで北電の泊原発は活断層の上に建設されていると原子力規制委員会が指摘しているので、再稼働そのものもできないまま廃炉になるのではないか。20年の運転延長など脳天気なことを話している場合ではないのである。規制委員会がインチキをやらない限り、廃炉しか残された道はないはずだ。









元鍛冶丁公園から一番町へ。(2020/7/3 18:18~18:35)


 梅雨寒の日である。元鍛冶丁公園に集まったのは30人である。
 集会のフリースピーチの話題は、やはり女川原発再稼働のことがメインとなる。宮城県は、有識者の女川原発の安全性検討会の結論がまだ出ていないにもかかわらず、8月1日から女川、石巻など7カ所で住民説明会を行うと発表し、村井知事が再稼働に前のめりになっていることを露骨に示した。
 県民投票条例案を否決して県民の意思を聞く姿勢がないままの住民説明会がどんな意味を持つのかという批判スピーチのあとで、原発立地自治体である女川町の町議会特別委員会の傍聴報告がなされた。
 特別委員会は再稼働の地元同意の是非を判断するためのもので、旧鹿島台町の元町長・鹿野文永さんと女川町の元町議・高野博さんの二人が福島事故の反省、避難計画の非現実性などから再稼働に反対する意見を述べたのだが、賛成派からはやはり「温暖化を防ぐために原発が必要」などという意見が出されたという。
 ここでも「炭酸ガス対策のための原発」という古典的な理屈が生き延びているのである。言ってしまえば、それぐらいしか理屈っぽく聞こえる賛成理由がないということである。科学的、合理的な理由はほとんどないので、地方自治体議会(町議会、市議会、県議会)では、数を頼んでの暴力的な採決に恃むしかないことをおそれる。なにしろ、そういう議論・議会の進め方には安倍自公政権という模範があって、そのやり方をそっくりそのまま倣えばいいので、かなり厄介なのである。















一番町。(2020/7/3 18:37~18:45)


 先週の金デモの帰り、中央通りを歩いた。仙台で一番通行人が多いうえにアーケードで天が閉じられているので、コロナウィルスのことを考えるとあまりいい気分の道ではないが、さすがに99.5パーセントぐらいの人はマスクをしている。マスクをしていない人はほんの数人だったが、「マスク警察」らしき人物も見受けられなかった。
 賑わっている商店街を歩いている老若男女のマスク人たちは、ふしぎなことにほぼ例外なく美男美女に見える。顔を全部隠してしまうと不気味だが、控えめに少し隠す美学というものがあるのだろう。
 しかし、醜いもの、悪辣なものを隠して「美しい日本」を演出する政治やマスコミの手法は犯罪的としか思えない。いまや、日本は安倍自公政府のもと「隠蔽の美学」が殷賑を極めている。もちろん、マスクをして中央通りを歩いている人たちには何の責任もない。そんな思いが誘発されただけである。







青葉通り。(2020/7/3 18:48~18:53)


 涼しくてデモには最適だったものの、デモの周りを急ぎ足で歩くとさすがに汗ばんでくる。この節は、汗ばんでも風邪をひく恐れはないので、汗ばんだ体を撫でていく微風を楽しみながら歩いた。
 今日のデモ帰りも中央通りを歩いて帰る、たくさんの美男美女とすれ違いながら………。

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かわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)






Last updated  2020.07.05 07:15:40
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2020.06.26
テーマ:街歩き(515)
カテゴリ:街歩き

 コロナ禍でいろんな行事は中止になって、ほとんど家に閉じこもっていた。それでも公的な機関や地域団体の議事の書面審議がいくつもやってくるし、町内会総会の書面審議ではいつもの倍以上の書類を作り、集計・報告に至るまでほぼ一人でやらなければならなかった。
 5月中旬以降は、行事再開のための感染防止マニュアルの作成と予防用のグッズの準備に追われた。非接触型体温計、予備のマスク、消毒用アルコールとスプレー容器、ゴム手袋、施設消毒用次亜塩素酸溶液と噴霧器などをネットで探し出して購入した。そして、6月末からいくつかの町内会行事が再開するのだが、それはそれで落ち着かない気分になる。
 どこか気ぜわしい3ヶ月間だったが、気分はどうあれ物理的にはあきらかに暇には違いなかった。もう少し若い時分ならいくらか読書が進んだはずなのだが、結局のところディネシュ・J・ワディウェルの『現代思想からの動物論――戦争・主権・生政治』と、ジャン=リュック・ナンシーの『共出現』(ジャン=クリストフ・バイイとの共著)の二冊に四苦八苦していた3ヶ月だった。
 ワディウェルの本は、ジャック・デリダの『動物を追う、ゆえに私は(動物)である』とおなじく西洋思想に強固に根付いているヒューマニズム(人間中心主義)が動物の過剰な虐待、殺戮に至ることを強烈に批判している本である。ナンシーの論考は『無為の共同体』に連なる現代の私たちの「共同性」に関するものである。
 3ヶ月もかかってこの二冊だけしか読めなかったことにだいぶ気落ちしている。しかも、デリダは再々読、ナンシーは再読という体たらくである。
 悲惨かつ貧しい読書にもかかわらず、この3ヶ月、過剰な暇に煽られるようにネットでブルゴーニュの白ワイン「シャブリ」を何種類も(安物ばかりだが)集めてにんまりしながら飲み比べるなどということを行っていた。いまは、イタリアの白、「ガヴィ」を10種類ほど見つけてネットで注文するばかりになっている。
 
 なんとも味気ないステイホームの3ヶ月だったが、「スティ!」、「ホーム!」(「ハウス!」とちょっとちがうが)と命令されて、むかし買っていたクロやホシやイオのことを思い出した。いまや君たちの飼い主は君たちと同じ扱いを受けているのだよ。ワディウェルの本ではないけれど、これを「報い」というのだろうか。
 3ヶ月間に私がこの陥ったこの二重の頽落から抜け出るすべを探すのがこれからの仕事になるような気がして、クロやホシやイオの写真を再整理しながらゆっくり考えることにする。











元鍛冶丁公園から一番町へ。(2020/6/26 18:15~18:38)


 微熱があって先週のデモは休んだ。風邪をひきやすいたちなのだが、コロナ禍の3ヶ月の間、一度も風邪をひくことはなかった。ただ2度ほど疲労からくる微熱が出ただけだった。暇なのに疲れたのである。「暇疲れ」というのがあるらしい。

 集会では、東北電力株主総会について二人が話された。6月25日に開催された株主総会に原発の禁止などを求める定款の一部変更など6件の提案をしたが否決され、東北電力は女川原発と東通原発の再稼働を目指す方針を改めて主張したという。「脱原発東北電力株主の会」は、東北電力に対して116項に及ぶ質問書を提出していて、今後回答を待って議論を詰めていくと話された。
 もう一人は、東北電力株主総会に対する仙台市の対応に納得がいかないと市に直接抗議に行ったことを話された。郡和子市長は3年前に市民団体「私たちの市長を選ぶ仙台市民の会」の支持・応援もあって当選したが、原発に対する態度はきわめてあいまいで、多くの人は直接抗議に行ってほしいと話を締めくくられた。

 ​そのほかに数人がスピーチをした後、30人のデモの列は元鍛冶丁通りを通って一番町に向かった。​​















一番町。(2020/6/26 18:41~18:50)


 6月22日に安倍自公政府の原子力防災会議は、女川地域原子力防災協議会が取りまとめた住民の避難計画を了承したというニュースが報道された。その避難計画には、原発事故とコロナウィルス感染症などの流行の併発を想定したて感染者と非感染者の避難車両や避難所を分けたりするなどの対策も初めて盛り込まれた。
 しかし、女川原発の半径30キロ圏内の7つの市と町に暮らす19万9000人を対象として、コロナ対策のために従来の2~3倍に増えることが予想される車両を汚染検査するばかりではなく、避難者のコロナウィルス感染検査を含めて行うことの実現性はほぼゼロに等しいのではないか。
 政府が避難計画を了承した6月22日の4日前に、「​被ばく回避と換気は両立困難 専門家「コロナ収束まで原発停止を」​」と題する記事が 東京新聞WEB版に掲載された。
 日本科学者会議(共同代表幹事の一人はノーベル物理学賞受賞者の益川敏英さん)は、原発事故の際の避難計画や防護措置に新型コロナウィルスの「三密」対策が十分盛り込まれていないことを明らかだとして「コロナ収束まで運転停止を」との声明を出したというニュースである。
 記事には避難計画とコロナ対策との矛盾を簡明にまとめた図表が掲載されていたので引用しておく。



​ 女川原発の広域避難計画を政府が了承した翌日、ただちに宮城県内の25市民団体が連名で宮城県と内閣府にそれぞれ詳細な公開質問書を提出している。誠実な回答を期待したい、と一応は言っておく。​









青葉通り。(2020/6/26 18:52~19:01)


 今日は降りそうで降らない一日だったが、昨日は降らなそうで降るという一日だった。要するに、仙台はふつうに梅雨なのである。3、4、5月という春から初夏への気候のいい時分にはステイホームで、梅雨が始まるころに規制緩和で活動再開というのはいささか皮肉ではある。
 町内会活動も再開するのだが、いささか心配ではある。東京では第3段階まで規制緩和が進んだが、感染者数が再び増加している。政治家は第2波ではないとしきりに主張しているが、第2波だったら規制緩和を含め、コロナ対策がいい加減だったということになってしまうので否定しているが、第2波が始まったと考えて行動するのが私たちの正しい行いだろう。
 最近の傾向としては、政治家や役人の言うことを聞いていたら殺されかねない、そう考えるのが自分たちの身を護るための必須要件となりつつある。いやな時代だ。

 デモが終わり、「暇疲れ」にデモの疲れが重なったもののけっこう足取りは軽く帰宅した。活動再開のためにいろんなものをネットで購入したが、その費用の請求をし忘れていた。それが次の仕事である。

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Last updated  2020.06.29 15:22:51
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2020.06.12
テーマ:街歩き(515)
カテゴリ:街歩き

​ 私の金デモのブログは2月14日が最後で、それ以降はコロナウィルス禍でずっと別の話題と休みが続いていた。外気の中の行事とはいえ、デモは繁華街を歩くので慎重にならざるをえなかったのである。3月11日がやってくるのでメモリアルイベントが計画されていたのだが、それもなしになった。やっとのデモ再開である。​









元鍛冶丁公園から一番町へ。(2020/6/12 18:17~18:38)


 日中は仙台としては真夏のような気温だった。昼前に15分ほど歩いて歯科医院に行ったが、だいぶ汗をかいた。それでも、元鍛冶丁公園に向かう午後6時ころには涼しくなって、20分ほどの道のりで汗をかくことはなかった。
 元鍛冶丁通りに入ると通行人が多くなったのでマスクを着用した。集会が始まったばかりの公園に着いて、顔見知りに挨拶をするなり「手を出して」とアルコールをと吹きかけられた。私がいつも吹きかける量に比べればずっと少なかったが、携帯用のスプレー容器ではやむを得ないのだった。コロナ禍が始まってすぐ携帯用スプレー容器を買ったが、噴霧量が少なすぎて誰も使わないまま玄関に放ってある。
主催者挨拶では、デモの許可や公園の使用許可をもらうときにソーシャルディスタンスを守って行うように強く念押しされたとので協力願いたいという話があった。しばらくはコールはなしで、メッセージは録音したものを流し、これまでは3列で歩くデモは2列で行うということになった。
 フリートークでは、6月14日開催の「女川原発2号機再稼働を止めよう!作戦会議」の案内があった。5月中旬にコロナウィルス感染の非常事態宣言が解除された宮城県では女川原発2号機再稼働の「地元同意」手続きに動き出すことが考えられるため、県内で原発問題に取り組む諸団体が集まって今後の運動方針について話し合うというのである。
 そのため、定員130人の会議室を準備したが、50人ほどに参加者を限定して、それ以外の方には、「ZOOM」を用いてインターネットを通じて参加してほしいということだった。

 15分という短い集会が終わって、40人の参加者はまだまだ明るい仙台の繁華街に向けて出発した。















一番町。(2020/6/12 18:39~18:52)


 ここ3カ月ほどは、コロナウィルス関連のニュースがメディアに溢れていて、原発関連のニュースはあまり目立たなかった。目立たないからといって、重大な動きがなかったわけではない。
 最も気になったニュースは、​「福島原発の避難指示、未除染でも解除へ 国の責務に例外」​(6月3日付け朝日新聞DEGITAL)という記事だった。
 東電福島第一原発事故による放射能汚染地域に次々と避難指示解除を発して、原発事故をなかったかのようにしたい自公政府は、このままでは避難指示解除ができない高濃度汚染区域について除染をしていないままでも避難指示を解除できるようにする方向で最終調整に入ったとニュースである。
もともと政府が定めた放射性物質汚染対処特措法は、汚染地域を除染することを国の責務と定めている。そのうえ、避難指示解除の要件は、①線量が年20mSv以下に低下する、②水道などのインフラ整備や除染が十分進む、③地元と十分な協議をする、というのが自公政権の方針として決められている。
 年間20mSvという被ばく線量自体が、事故後に急ごしらえで作った無茶な被ばく量なのだが、それすら放棄しそうな勢いなのである。たしかに、将来人が住む見通しがないなどの条件を満たした地域を除染しないということらしいが、それでも帰還する人たちは高濃度汚染地域と隣接しながら暮らさなければならないのである。
 このニュースに接して、かつて人が立ち入らない森林の除染を政府が放棄したとき、社会学者の赤坂憲雄さんが「山野河海(さんやかかい)を返せ」と主張したことを思い出した(2016年1月17日付け福島民報)。ほんとうに切実に思い出した。このブログで引用させてもらったが、もう一度引用しておく。


 わたしは民俗学者である。だから、見過ごすことができない。生活圏とはいったい何か。人の暮らしは、居住する家屋から20メートルの範囲内で完結しているのか。もし、そうであるならば、民俗学などという学問は誕生することはなかった。都会ではない、山野河海[さんやかかい]を背にしたムラの暮らしにとって、生活圏とは何か、という問いかけこそが必要だ。
  〔中略〕
 除染のためにイグネが伐採された。森林の除染は行われない、という。くりかえすが、生活圏とは家屋から20メートルの範囲内を指すわけではない。人々は山野河海のすべてを生活圏として、この土地に暮らしを営んできたのだ。汚れた里山のかたわらに「帰還」して、どのような生活を再建せよと言うのか。山や川や海を返してほしい、と呟[つぶや]く声が聞こえる。


 そのうえ、卑怯きわまりないことに「除染後に解除する従来方式と除染なしの新方式のどちらを選ぶかは、地元自治体の判断に委ねる」というのだ。故郷を捨てがたい思いにかられる人々に判断責任を押し付けるというのだ。自分たちは手を汚さず、被災住民が自分たちの責任で除染しない高濃度汚染地域に帰還することを期待しているのだ。

 もう一つ、​「やっぱりメルトダウンだった…東電幹部が「隠蔽」認める」​(5月31日付け日刊ゲンダイDEGITAL)というニュースもあった。
 東電福島第1原発事故が「炉心溶融」(メルトダウン)」という原発事故としては最悪の事故だったにもかかわらず、東電はその事実を認めることはなかった。そのことについて、東電の姉川尚史原子力・立地本部長が30日の会見で「炉心溶融に決まっているのに『溶融』という言葉を使わないのは隠蔽だと思う」と発言し、東電は炉心溶融であることを知っていたにもかかわらず隠蔽し続けていたことを事実上認めたというのである。
 事故当初から、「メルトダウン」が起きているに違いないと多くの専門家は判断していたし、そう主張する人もいた。ごく少数の御用学者が「メルトダウン」は起きていないと主張していたが、まもなく「メルトダウン」は周知の事実となった。にもかかわらず、長い間東電はその事実を隠蔽し続けたのは、自公政府(通産官僚)との協働作業あってのことである。安倍政権の本質だが、科学的事実、法的正当性を権力によって暴力的に無視してきたのである。

 東電はなぜ今頃になって「隠蔽だった」と公然と語り出したのか。事故から9年も経過して、責任意識が薄れ、あたかも〈時効〉によってすべてが免責された気分が彼らに蔓延しているのではなかろうか。自公政府が高濃度汚染地域の除染を放棄したいという意識を明らかにしたのも、いっさいの責任がチャラになる〈時効〉気分に浸っているためではないか。そんなふうに疑ってみる。
 しかし、日本で起きた歴史上最悪の原発事故の責任に〈時効〉などありうるはずがない。まだ多く避難者が苦しんでいるのに〈時効〉など赦されるわけがない。多くの子どもたちが甲状腺癌に苛まれているのに〈時効〉などと思うことすら許されない。この原発事故で大きく揺らぎ傷ついた日本の科学・技術、いや世界の科学・技術はその歴史に深く事故の記憶を刻み込んだ。科学・技術に〈時効〉はない。







青葉通り。(2020/6/12 18:54~19:05)


 デモの40人という人数はコアの人数(おそらく20~25人)よりは多いうえに、2列でソーシャルディスタンスを維持するのでデモの列は意外に長くなった。その列の最後まで写真を撮って、また列の先頭まで急ぎ足ときどき小走りで戻るのは意外と歩きがいがあるのだった。
 明るい時間に元鍛冶丁公園を出発したデモが青葉通りの流れ解散地点にさしかかるころにはしっかりと夕闇に包まれていた。ときどき吹く風が涼しい。
 コロナ禍の自粛で十分な休息だったはずなのに、じつのところ、この数日は疲労気味なのである。自粛のホームスティというのはそこそこ忙しいのだった。みんなで分担するはずの仕事を、会合自粛のため私一人で片付けなければならないという事態になっている。何もできないのだが、何もできないことを説明する文書が必要になる。3月以降は書類作成量が数倍に跳ね上がった。
 夕闇の中を急ぎ足で帰り、明日の朝まで作成する約束の書類に取りかかるのである。疲れ気味だったはずなのに、意外に足取りは軽い。



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Last updated  2020.06.14 12:01:40
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2020.05.11
テーマ:街歩き(515)
カテゴリ:街歩き

​【ホームページを閉じるにあたり、2011年3月4日に掲載したものを転載した】​


​【続き】​


​ 道はどんどん下り、途中公営住宅らしい同じ造りの木造の人家を見ながら進むと、登米小学校の北東端に出る。つまり、この道は「遠山之里」駐車場脇の道につながるのである。​

​​​​

Photo J Photo G からの坂道を下り、登米小学校東を通る。


Photo K Photo J の道から左、登米懐古館のある寺池城趾へ上る。​​​​

​​​​
 登米小学校脇を歩いて、「遠山之里」駐車場が見え出すころ、左、寺池城趾に上る道がある。ケヤキやツバキの坂道を上がり、広場(Photo K)を過ぎて階段を上がると見晴らしが開ける。
 この城趾の高台は、Photo F の坂を上った尾根、高台院霊屋のある丘陵から南に延びた突端に相当する。そこには「登米懐古館」があるが、やはり犬連れのため、見学は遠慮した。この高台から見えるのは、まだ歩いていない北上川沿いの登米町東部である(Photo H のパノラマ)。
 城趾を南に行くと下る道があって、この道が城趾に行く表の道らしい。屋根のある門を過ぎ、黒木の柱の門をくぐってふり返ると「寺池城址公園」の板が掛けられてあった。



Photo L 登米懐古館の高台から登米町東部の見晴らし。


Photo M 登米懐古館の高台から東に下りた場所。
左は簡易裁判所へ。右は登米診療所へ。右へ進む。

​​
 城址公園から東の道に下りると、北に向かう道は二つに分かれている。一方は、ふたたび坂を上る道で、「裁判所」「懐古館」の表示がある車道である。一方は、「公立病院」の案内表示があり、その道(Photo M の右の道は行き止まり、さらに右に下る道がある)を下ることにした。
 道はすぐ右に曲がり、「登米市立登米診療所」と名前を変えた旧公立病院がある。

 登米診療所の端は、南北に走る道に接している。その道に左折し、北に向かう。次第に人家がまばらになる道である。 道端の畑に大きなマサキがあり、赤い実をたくさんつけている。



Photo N 登米診療所前の道。診療所向こう端を左折。


 地図に記載されていながら実際にはなかった道に相当する場所(Photo P)で左折して、北上川に向かう。

​​

Photo O 国道342号の西隣を北進する道。


Photo Oa Photo O の道脇のマサキの実。​​

​​​
 北上川には直接は行けなくて、いったん国道342号を北上する。国道は右にカーブしながら北上川の堤防の上を北上している。堤防道路と国道が一致する付近(Photo Q)から堤防を南下した。

​Photo R は堤防からの北上川のパノラマである。写真は歪んでいるが、実際は、撮影地点付近が突き出しているような形の写真とは逆のカーブになっている。Photo S は下流、登米大橋の遠望である。​

​​​​  

Photo P Photo G 付近で東に行く地図上の道が出るはずの道。行き止まり。


Photo Q 国道342号が北上川左岸に寄る付近。


Photo R Photo Q 付近で北上川左岸堤防に上がる。そこからのパノラマ、左が上流。


Photo S 北上川左岸堤防の道から下流、登米大橋を見る。​​​​


 堤防から町を見ると、登米町が城下町であることがよく分かる。国道342号と堤防の間に民家の敷地割りが、京都の町屋に見られるように、道に面した間口は狭いものの堤防まで細長く区切られているのが判然と見てとることができる。現在では、それぞれの家の建て方、土地の利用の仕方はまちまちではあるけれども、区割りそのものは整然となされているのである。
 まもなく登米大橋というところに、「芭蕉翁一宿之跡」という石碑があり、隣には板碑の説明がなされている。芭蕉が石巻から平泉に向かう途中で登米に 宿をとったという「おくのほそ道」の記述によるものである。


​思ひかけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(やうやう)、まどしき小家に一夜をあかして、明れば又、しらぬ道まよひ行。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊麻(といま)と云所に一宿して、平泉に到る。​
        松尾芭蕉「おくのほそ道」より [5]


 戸伊麻は登米の当て字表現である。残念ながら句はない。石碑は、河東碧梧桐の筆であると記されていた。碧梧桐は虚子と並び、子規門下の双璧である。「碧梧桐は……登米とは深いゆかりがあったのである。」と説明がなされていた。これほどのゆかりがあっても、碧梧桐の句碑は登米にはないのである(「遠山之里」前の句碑案内によれば)。もちろん、句碑というものがどのような契機で建てられるものか、門外漢の私には分かろうはずもないのだが。
 碧梧桐に敬意を表して、その2句を。


​秀衡と芭蕉君にも寒さかな​  河東碧梧桐 [6]

​椀程な塚の上にも冬木かな​  河東碧梧桐 [7]​



Photo U 登米大橋西詰めから寺池方向へ進み、三日町を左折、郵便局方向へ。​


 登米大橋は国道342号の橋である。登米大橋は渡らず、右折して町中心へ向かう。歩き始めて4時間、そろそろ切り上げ時を考えはじめるのである。国道は橋からすぐの交差点で北へ向かって直角に曲り、先ほど北上川へ出るために少し歩いた道につながる。
 その信号のある交差点の角には、造り酒屋のなまこ壁、藏造りの店舗が見える。ここのところ日本酒をほとんど飲まなくなったこともあるが、「洋々 きたかみ」という清酒は飲んだことがない。若い時は、日本酒ばかりで、ひたすら酔っぱらうだけの日々もあったというのに。
 十字路を国道が進む反対、左に折れて、午前中に歩かなかった道を歩いてみることにする。この通りは商店街であるが、白壁、藏造りの建物が並ぶ。薬局(ガラス戸には白壁、総二階の藏造りである。この通りにもある「ヤマカノ」も大きな藏造りの店である。それに並ぶ七十七銀行は新しいが、白壁、瓦葺きで調和をはかろうとしている。郵便局もまた、白壁、スレート瓦葺きの新しい平屋である。
 木造総二階、瓦葺きの商家なども見ながら進むとT字路である。その右角には、警察資料館の木造白ペンキ塗りの洋館、鉄骨製の火の見櫓がある。警察資料館は、昭和43年まで登米警察署として使われていたのである。つまり、私が成人になるころまで現役だったのである。そうなのだ。ここが「旧登米警察署」であるように、私もまた「旧○○○人」と呼ばれるだけの歳月は十分に経たのである。



Photo V 警察資料館と火の見櫓。​


​ 年甲斐もなく少し感傷的な気分で警察資料館前を西へ歩を進める。この道は、その途中を午前中に少し歩いた県道15号である。この道は、商店と普通の民家が並ぶ通りであるが、中には白壁塀、木造瓦葺きの門に囲まれた屋敷もある。スレート瓦葺きの商家には、飾り破風のある屋根付きの門があったりする。​



Photo W 警察資料館野門を右折して西へ進み右折、養雲寺から北進してくる道に入る。​


 3ブロック歩くと、午前中に歩いた養雲寺の山門からまっすぐ北に進む道と交差する。ここを右折する。
 道の途中には、太い梁を使った瓦葺き、白壁、黒腰板の立派な家がある。正面高みには「城下町」と墨書きされた自然木の大きな扁額がかかっている。日本料理店かそば屋の豪勢な店舗らしい造りの家であるが、格子ガラス戸に大きな赤字の「貸家」の張り紙があった。

 右手の屋敷の門から覗くと、コンクリート歩道のうえに大きな黒猫が向こうを向いて坐っている。それを黙って見ている一人と1匹の気配を感じたのか、振り向いてくれた。そして、そのまま彫刻になってしまったかの如くなのである。一人と1匹の方が根負けして、お別れした。

 直進すると県道36号に出て、右折すれば教育資料館、「遠山之里」で、登米町の町歩きは終了である。

​​​
Photo Wa Photo W の道沿いのお屋敷の庭の大黒猫の悠然とした挨拶。


Photo X Photo W の道を直進、通りを一本越えた付近。



[1] 『現代日本文學大系19 高浜虚子・河東碧梧桐集』(筑摩書房 昭和43年) p. 4。
[2] 『定本 種田山頭火句集』(彌生書房 昭和46年) p. 25。
[3] 『定本 種田山頭火句集』(彌生書房 昭和46年) p. 45。
[4] 『現代日本文學大系95 現代歌集』(筑摩書房 昭和48年) p. 437。
[5] 『日本の古典55 芭蕉文集 去来抄』(小学館 昭和60年) p. 68。
[6] 『現代日本文學大系19 高浜虚子・河東碧梧桐集』(筑摩書房 昭和43年) p. 354。
[7] 『現代日本文學大系19 高浜虚子・河東碧梧桐集』(筑摩書房 昭和43年) p. 359。


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Last updated  2020.05.11 11:50:23
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2020.05.10
テーマ:街歩き(515)
カテゴリ:街歩き

​​​​​​【ホームページを閉じるにあたり、2011年3月4日に掲載したものを転載した】


 午前中は南西部を歩いたので、午後は北東へ歩くことにする。それでも、先ほどは急ぎ足であった教育資料館前をもう1度歩くことからはじめる。
 「遠山之里」前の県道36号(Photo A)の舗道脇に大きな「句碑案内板」なる看板がある。文字どおり登米町内の句碑の場所を示したものである。9基の句碑があるらしいが、私が知っている俳人は松尾芭蕉と高浜虚子だけであった。虚子の句は、


​遠山に日の当りたる枯野かな​  高浜虚子 [1]


がとられている。私の中では、この句は虚子の句中、2番目くらいに好きな句である。ここで初めて気づいたのだが、 「遠山之里」はこの句に準拠しているのではないか。とすれば、これは「当たり」だと思う。良いセンスである。句碑案内板から登米町は俳句の盛んなところらしいことがうかがわれる。​​​



Photo A 登米観光物産センター「遠山之里」前から教育資料館方向を見る道
(県道36号線)。​


 虚子は定型俳句、写生俳句の神様のような俳人であるが、無季自由俳句にも同じような光景を詠んだ句がある。


とほく山なみの雪のひかるさへ  種田山頭火 [2]

​​​山の雪も別れてしまつた人も​​​  種田山頭火 [3] ​


 加えて、短歌を1首。


​山の向ふの山をし見むと去りゆけばひとりきたりて野の石の上​
                   中野菊夫 [4]


 中野菊夫の短歌は、カール・ブッセの詩を思い浮かべさせる雰囲気もあるが、遠い山を見るとき、虚子では空間の美へ、山頭火や中野菊夫では空間から積み重ねた時間へ情が広がってゆくようである。

​​

【左】Photo Aa 教育資料館南の桜古木。【右】Photo Ab 教育資料館西の松。​​

​​​
​ 教育資料館の前には、かつての小学校を囲んでいたであろう桜の古木が残っている(Photo Aa)。樹皮の感じからいえば「ソメイヨシノ」だろう。​
明治期から始まる日本の公教育制度は、どこでもソメイヨシノを伴って歩んできたのである。桜としては寿命の短いソメイヨシノは、木造校舎の寿命と期を一にするのであろう。
 私が通った小学校も(この登米尋常小学校ほど古くはなかったが)、 大きなソメイヨシノの並木坂を上ったところにあり、校庭は校舎をのぞく南面と東面が大きなソメイヨシノに囲まれていたのである。私が卒業した後に校舎は建て替えられ、ソメイヨシノもすでにないのである。

 団体客でもあろうか、さっきよりも観光客の増えた教育資料館をゆっくりと眺め、敷地を回るように西沿いの道へ右折する。その舗道には松の木が生えており、舗道は松の木を迂回するように造られている(Photo Ab)。
 日本では道路を造るといえば、ひたすらまっすぐに邪魔なものは取り払ってしまうのが普通である。それを日本では「合理的」「経済的」と言って、どうもある種の人たちには美徳の一種であるらしい。この松は舗道部分であったことが幸いしたのであろう。ミシェル・フーコーのいう「ホモ・エコノミクス」の理想型である日本人(アメリカ合衆国の白人エスタブリッシュメントほどでもないかもしれないが)には珍しい行いではある。

 教育資料館の裏手は、現在の登米小学校である。道は、登米小学校敷地の南西端にかかるあたりで北西に曲がっている。道なりに進むと広い道路に出て、それを右折すると右手は、登米高校である(Photo B)。​​



Photo B 登米高校南側の道を北西へ。​


町歩きMAP 青線、黒字は午前に歩いたコースと写真のおおよその撮影地点。
赤線、赤字は午後のコースである。矢印はと撮影方向を示している。
地図のベースは、「プロアトラスSV4」、 歩行軌跡は、「GARMIN 
GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータによる。


​ 本当によい天気である。こんな見通しの良いところに出ると、天気の良いことをあらためて知る。登米高校の体育館は道路向かいにあり、校舎と体育館の間を進んで、高校の敷地に沿って右に曲がる。校庭(グランド)が尽きるところで道は分かれ、左折して山辺の方に向かう。 目標は「森舞台」である。​

​​

Photo C 登米高校北橋付近を左折した道。


Photo D 「森舞台」へのアプローチ。​​


 小さな木製の行先案内にしたがって山の麓に沿って歩いて行くと、「森舞台」の施設が見えてくる。
  「森舞台」という優雅な呼び名は、伝統芸能伝承館の能舞台に当てられている。森舞台の前の道は人通りもほとんどなく、道向かいは広場になっていて、犬を繋いでも支障がないと思われたので、ここは中に入って見ることにした。
 私が生まれた町の八幡神社にも、能や神楽のための舞台があったが、私はそこで舞われる能は見たことがない。祭の時に神楽が奉納された記憶がうっすらとあるから、もう50年以上も前にそのような祭の行事は途絶えたのではないかと思う。

 能舞台の正面には広い縁のある総ガラス戸の建物が向かいあい、稽古場らしいのだが、能上演のさいには良い客席となるのだろう。左手の野天の客席は、緩やかな段になっていて、玉砂利が敷き詰められている。そこから見る能舞台の背景は、孟宗竹の林の斜面でケヤキらしい大木(落葉していてよく分からなかったのだが)が混じっていて、文字どおりの森舞台である。
 印象的だったのは、舞台床下の音響用の大甕である。舞台上の鼓に合わせて踏む足音に共鳴するのであろう。能や神楽のことはあまり知らないが、この甕たちが創り出す共鳴音を聞いてみたいと思う。
 このような甕を使って水琴窟を造ることを生業とする知人がいて、何度かその音色を聴かせてもらったことがある。しかし、商売としては不調のようであった。水琴窟があるような日本庭園などというのは、私などにとっては入場料を払って見る(聴く)のがせいぜいで、個人の庭で造る人がいるとしても、私とは無縁の人であろうと思っていた。

​​

Photo Da 「森舞台」床下の音響効果用の大甕。


Photo E 「森舞台」から南への道。​​

​​​
 「森舞台」からまっすぐに出る道(Photo E)を歩くが、この道は一回りしてもとの道に戻ってしまう。左に行く道があったのでそちらに進む。小さな谷に出来たような坂の道(Photo F)である。坂道と曲り角は、散歩道の必須要件である。

 登ってゆくと、右手の人家の奥からこちらをみている犬がいる。毛色も体型も大きさも、イオと似ている犬である。母屋のずっと奥、広い裏庭から見ているのである。犬は近眼なので、私たちをどのように認識したかは分からない。イオもその犬を見ていたが、イオもまたその犬を認識したかどうか分からない。遠くのものの場合は、犬はその動きから何ものかを判断するのだと思う。多分、2匹とも互いを景色に1部として、すぐに忘れてしまうのである。写真に撮って忘れないための手続きをする人間だけが、だんだん重くなるのである。​​

​​​

Photo F Photo E の道を左折、東へ上る坂道。


Photo Fa 奥庭から見つめている。​​​


 道は地図には記されていない延長を通って、丘の尾根を走る道に出る。そのT字路を右折して少し行って、地図に記載された神社の方へ左折しようと思ったのだが、その道が見つからないのである。
 さっきは記載されていない道を通ったが、今度は記載されている道がないのである。町歩きMAPには、「森舞台」でその内部を行きつ戻りつした様子がGPSトラックに示されているが、この付近のトラックが太くなっているのは同じ道を何度も往復して道を探したためである。
 通りかかった婦人に尋ねると、知らないと言う。代わりに、近くにある「高台院霊屋」への道を丁寧に教えてくれた。

​​

Photo G Photo F の突き当たりのT字路を右折した道。​​


 道探しは諦めて、ご婦人のお薦めにしたがって高台院霊屋へ行く枝道に入った(Photo H)。両脇に石が並べられている土の道である。この道の突き当たりを右に曲がるのだが、それは下の本道からまっすぐに上がってくる細道から続く道でもある。ただし、その細道はあまり利用されていないらしいことは、下草、落葉の様子からうかがわれた。
 町歩きだというのに、土の道、落葉の細道、その山道らしさにほっとしてしまうのである。​

​​

Photo H Photo G の道の下り始めで分岐、右、覚乗寺高台院霊屋への道。​​


 登米伊達家の霊屋は、「方三間」のごく質素なものである。印象に残ったのは不揃いの自然石を敷き詰めた参道である。どう表現していいのか分からないが、えもいわれぬ雰囲気がある。霊屋に向かう石畳の両脇には4基ずつの石灯籠が並べられていて、何となく藩主と家臣の関係をイメージさせるものがある。



Photo I 覚乗寺高台院霊屋。​


​ 高台院霊屋からの帰りは、使われていないらしい薮道を突っ切って本道に下りた。近道でもあったし、なによりもイオも私もそんな道が好きなのである。​



[1] 『現代日本文學大系19 高浜虚子・河東碧梧桐集』(筑摩書房 昭和43年) p. 4。
[2] 『定本 種田山頭火句集』(彌生書房 昭和46年) p. 25。
[3] 『定本 種田山頭火句集』(彌生書房 昭和46年) p. 45。
[4] 『現代日本文學大系95 現代歌集』(筑摩書房 昭和48年) p. 437。
[5] 『日本の古典55 芭蕉文集 去来抄』(小学館 昭和60年) p. 68。
[6] 『現代日本文學大系19 高浜虚子・河東碧梧桐集』(筑摩書房 昭和43年) p. 354。
[7] 『現代日本文學大系19 高浜虚子・河東碧梧桐集』(筑摩書房 昭和43年) p. 359。


【続く】

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Last updated  2020.05.10 16:34:26
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2020.05.03
テーマ:街歩き(515)
カテゴリ:街歩き

​【ホームページを閉じるにあたり、2011年3月4日に掲載したものを転載した】​


​【続き】​

 養雲寺の山門を出る。山門の前を東西に走る道は、さっきの県道15号である。この道を西へ歩く。誰も住んでいない廃業したらしい商家が数軒ある一方、昔風の木造りの門塀の新築も見える通りである。
 300mほど進んで、左手の道に入って、地図に見える神社を見に行く。神社の手前に変形十字路があって、その角には白塀の大きな家が見える。敷地内には木造の藏や大きな納屋があり、庭木もたくさんある庭には竹の籬がしつらえてある農家(たぶん)である。



Photo K 愛宕神社へ向かう道。


 神社に近づくと、右手に1.5m四方で1面が開放された小屋があり、中に焼却炉らしいものが入っている。素焼き粘土製で、もしかすると陶器の焼窯かもしれない。ゴミの焼却炉のために立派な小屋を掛けるというのも変ではある。
 神社は「愛宕神社」であった。愛宕神社は、火伏せの神様である。石段の上に小さなお堂があり、周りは杉木立に囲まれている。右手には真竹の林があるが、あまり手入れはされていない。竹を日常の用として使わなくなった今、竹林の手入れは難しいものなのだろう。



Photo L 愛宕神社。


Photo M 愛宕神社からPhoto K の道を戻る途中で左折、西へ。


 神社から戻り、変則十字路角の大きな農家を回り込むように左折する。Photo M の真ん中右上の二階家を過ぎた辺りで、元気な歓迎を受けた。右に左に走り回っての歓迎である(Photo Ma)。
 疾駆する犬に典型的だが、躍動する犬の肢体は美しい。力の流れに無駄がない。



Photo Ma Photo M の道で無言かつ活発な歓迎。


 さらに一軒おいて今度は、動きは少ないが、大きな声で歓迎される(Photo Mb)。この犬はイオではなく、私を見ている。怪しげな風体の男をにらみつけて吠えるのである。良い仕事をしているのだが、あまり長く吠えさせるのは迷惑であろうと、急いで通りすぎた。
 後で写真を見ると、庭の階段の上で身構える姿は、大理石の台上の塑像のようで、ギリシャ彫刻にありそうではないか。30°くらい斜めから見ることが出来たら、すてきな姿勢、緊張する筋肉が見えるに違いない。彫像ならぬ生身では許してくれそうにないが。



Photo Mb すぐ近所で、こちらは大声で歓迎。


  ​犬吠の一天晴れし寒さかな​   阿波野青畝 [3]​



Photo N Photo M の道を北に左折、県道15号線との交差点を見る。


 登米町には犬が多いのではないか。歩き始めて一時間もたたないのに、6匹の犬が挨拶してくれた。良い町である。

 Photo M の道は二つに分かれ、左は山手へ、右はさっき歩いた県道15号の先へ向かう。県道を越えた向こうの道は、広い道路のようだ。
 県道15号を越えた道は、スーパー農道なのかバイパスなのか分からないが新しい広い道である。立派な道路ではあるが、歩いて楽しむ道ではない。
 少し進むと左手に家並を抜ける道がある(Photo O)。地図では「八丁田」という地区である。農家も多いのかもしれないが、塀の連なる静かな住宅地である。どの家もよく手入れされた庭を持ち、塀沿いにはベニシタン(紅紫檀)やナンテン(南天)が植えられ、初冬の晴天に映えているのである。
 中には、総二階の家があって、その二階にも廊下が回っているらしく、床から立ち上がるガラス戸が全面に張られているのである。木造建築の総二階というのは、最近では珍しいのではないかと思う。



Photo O 県道15号線交差点を越えて左折、八丁田地区を西へ行く道。


​ この道沿いにも犬がいて、挨拶することになる。初めはおとなしい白犬である。伏せの姿勢でイオを見つめるだけである。二匹目は少し吠えたが、やがて注視することに専念したようだ。どこの家も庭が広くて、私たちとの間には距離があるため、どの犬にも気分に余裕があるらしい。​



Photo Oa 無言、無動の歓迎。

​​
ひとりでいるとき
世界はわたしのとりこにすぎないのではないか?
だまって坐っているだけで
わたしは熟した果実のように豊饒だ
                新川和江「犬」部分 [4]​​



Photo Ob 少し吠え、少し動き、そして注視。


Photo P 八丁田地区の家並の北裏の道に出る。


​ やがて道はT字路となり、そこを右折する。道はすぐ広い道路に出る。その道も広い立派な直線の農道で、歩く魅力に乏しい。そんなことを思っていたら、今歩いてきた家並の裏を通るような細い道(Photo P)があったので、そこを歩くことにする。​



Photo Pa Photo P に入る角でポニーと対面。見つめ合う2匹。


 Photo P の道が右に分岐する地点、三角の角地に柵をめぐらし、ポニーが飼われていた。ポニーもこちらに気づいて、柵から顔を出して窺っている。イオは初めての馬に、呆然として見とれている。2匹は無言でしばらく対峙していたのである。
 今度は私がイオを急かす番である。ポニーとはいえ、初めての馬を見て興奮したのであろう。イオは、道端に重ねてあった波板トタンに飛び乗って大きな音をたてて、近くで作業をしていたその土地のご主人らしい人を驚かせたのである。
 謝って早々に過ぎ去ろうとすると、今度は道端の小屋から牛が顔を覗かせてこちらを見ているのである。イオは一瞬ぎくっとしたが、今度は知らん顔をして通りすぎるのである。山形県・面白山の登山口の牧場でたくさんの牛をたっぷり見たことがあるが、たった1度だけの経験のはずである。突然こんなに近くで出会うと、ポニーと較べてあまりにも大きいので、臆して遠ざけたのに違いないのである。



Photo Q 畑のなかを北東へ斜行するする道。左側だけに人家が現れる。


 道は畑のなかを通っていて、「く」の字に曲がって進むと人家の前に出る(Photo Q)。 ここにもブロック塀一面に伸びたベニシタンが真っ赤に実をつけている。
 道はT字路に突き当たり、右方向、町の中心に向かって進む。この付近の家は、ブロックであれ何であれ、きちんと塀囲いした家がほとんどであり、塀の中に庭木はよく手入れされている。



Photo R Photo Q の道の突き当たりを右折した道。


 道は広い道路(八丁田の家並に入る前に少し歩いた道が北に続いた道)にでる。横切れば寺池の武家屋敷の方向に向かうのだが、いったん左折し県道36号の出会いの交差点まで行って、横断歩道を渡って戻り、町中心に向かった(Photo S)。
 このまっすぐな道の走る町は、私の地図では「新町」となっているが、他の地図を見ると「前舟橋」となっていて、よく分からない。一般に直線上の道は散歩には不向きである。健康のためにがんがん歩くのだという準スポーツ志向の歩行向きだろう、などと心の中でぶつぶつ言いながら、この通りを歩き始めたのである。



Photo S Photo R を直進、県道36号線に出る広い道を越え、寺池の武家屋敷方向へ。


 ブロック塀、石塀に囲まれた住宅の続く道である。遠目に赤い色が見え、近づくとたわわに実のなるピラカンサスである。通りの右左に点々と見える。さっき歩いた八丁田地区ではベニシタンの赤が目立ったが、ここではピラカンサスの朱赤である。和風から洋風の色合いに変わっている。所々の柿の木には多かったり少なかったりするが、必ず残り柿がある。晩秋の色である。
 塀の中の庭木はよく手入れされている。植木屋、園芸職人の手になるようで、私の庭とは広さと手入れの質において比較できないのであった。これはこの町の一つの文化のようで、そのような家々が並んでいるのである。



【左】Photo Sa Photo S の道沿いのピラカンサス。【右】Photo Sb 残りの柿の実。


 しばらく歩くと、信号のある交差点に出る。左手は大きな黒松のある家で、右手は「年賀はがき」「たい焼」「パンダ焼」の幟旗が立つ店である。「パンダのショウガ焼き」などと浮かびあがるイメージに驚き、かつ懸命に振り払いながら、直進する。
 右手に白い壁の同じような形の家の並びが現れる(Photo T)。黒い柱に真っ白な壁の洒落た二階建てである。覗くと、奥にも形は少し変わるが同じような住宅が見える。
 道脇にある説明看板によれば、「県営前舟橋住宅」である。公開コンペ作品をベースに平成二年に建てられたということである。少し目立つが町並みの景観を乱すわけでもない。公営住宅では最良ではないか、などと建築を知らない素人が感心するような住宅ではある。



Photo T Photo S の道沿いにある県営前舟橋住宅。


 「県営前舟橋住宅」を過ぎて十字路を一つ越え、千葉釣具店(欲しい小物があったので寄ってみればよかった、と後悔した店)を右に見て進むと、また十字路に出る。そこをを左折して県道36号に向かう(Photo U)。
 この道に入ってすぐ左手に、土壁そのものの家がある。門と住居が一緒になったこのような建屋を長屋門というのではなかったろうか。門と一緒になった住居には使用人が住むのが普通で、長屋門があるのは大家である(あった?)ことの証左であろう。
 道の突き当たりは教育資料館(旧登米尋常小学校校舎)である。犬連れなので中にははいらず、左手に眺めつつ、「遠山之里」に急いだ。正午を回り、空腹に急かされたのである。



Photo U Photo S を左折して教育資料館方向へ向かう道。


 「遠山之里」駐車場に戻り、イオを指定席(助手席)の犬用シートベルトに繋いで、私は昼食である。イオは車に乗ってさえいれば1,2時間は平気で待っているので、こういう時はまったく問題がない。外に繋いで、犬恐怖症の人を怖がらせることもないし、なによりも完璧な「車上荒らし」対策なのである。

 「遠山之里」のレストランでの昼食はラーメンである。これも後悔であるが、「あぶらふ丼」というのがあったのである。油麩は、わが家の朝食の味噌汁の具の定番になりつつあるが、じつはそれ以外に食べ方を知らないのだ。「あぶらふ丼」をレパートリーにするチャンスを何の考えもなしに逃したのである(最近、おさんどんをはじめた私には必須の教習課程であったのに)。



[1] 『現代詩文庫48 北川透詩集』(思潮社 1972年) p. 35。
[2] 石原吉郎『詩集 礼節』(サンリオ出版 1974年) p. 18。
[3] 『阿波野青畝全句集』(花神社 平成11年) p. 149。
[4] 新川和江「詩集 絵本「永遠」」『新川和江全詩集』(花神社 2000年) p. 81。


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Last updated  2020.05.03 09:21:08
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2020.05.02
テーマ:街歩き(515)
カテゴリ:街歩き
​【ホームページを閉じるにあたり、2011年3月4日に掲載したものを転載した】


​ぼくの訪れる家は このあたりだとたちどまって みるのだが その曲がりくねった 路地の先は 必ず茫とした空地になる ながい彷徨が徒労におわって 慣らされた意識が ぼくのさがしているのは この空地ではなかったのかという想いを強いるが ぼくは歩行を断念することができない​
    北川透「砂埃のなかから」部分 [1]​


​​ 登米町は、かつて登米(とめ)郡登米(とよま)町で、平成の大合併で登米市登米町になった町である。行政区分としての町ではなくなったが、「宮城の町歩き」では、歴史的に形成されたまとまった生活基盤を持つ集落で、かつては行政の単位とほぼ同じであった地区を町と呼ぶことにしている(勝手に呼んでいるだけだが)。​​
 登米町の近在で生まれた私は、小学校の遠足で登米とか米谷(登米町の北隣)とかに行ったような気がするのだが、具体的な記憶はまったくない。5年生の時は松島で、6年生は仙台であった。一年生の時は歩いて行ったので、町内である。2~4年の記憶がない。距離的には3,4年生の遠足が適当な感じである。ただ、4年生の夏休み前の少しの期間、登校できない時期があって、話だけで聞いた遠足の可能性もないではない。
 登米の近在で生まれ育ち、仙台で暮らしている私にとって登米町は、明治期の建築物の保存がなされている観光地として良く知っている町である。娘が小学校の時の遠足先が登米で、アブラフ(油麩)が土産であった。ただ名前をよく知っているというだけであるが。


 「宮城の町歩き」を心さだめて、ネットでいろいろ調べていたとき、角田市に次いであっさり候補に決まったのは、角田市と同様、すぐに駐車場が見つかったことによる。「登米観光物産センター・遠山之里」の駐車場を使って登米観光をどうぞ、という旨のページがすぐに見つかったのである。
 駐車場はどこにでもあるだろうし、ホーム-ページもあるだろうが、必要な情報に容易にアクセスできなければ無きに等しいのだ(検索下手という問題もあるが)。



Photo A 旧水沢県庁舎前を南へ。


 「遠山之里」をベースとして、登米町を歩くことにする。駐車場を出て南に向かう。東西に走る県道36号を越えて、旧水沢県庁舎を右に見て、静かなお屋敷の並ぶ通りを歩く。
 この地域が、明治の初めには「登米県」、「一関県」、「水沢県」とめまぐるしく行政区割りが変わったということは知らなかった。私の生まれた町もそんなふうであったのかもしれないが、まったく聞いたこともない。暮らし向きに関係なく、記憶され、記述されるべき歴史的意味が地元でも共有されていなかったということだろう。古い建物が大切にされるべき意味は、こういうところにもあるのだと思う。
 立派な武家屋敷の門が並ぶが、庭の奥を覗くと茅葺きか藁葺きか遠目では判然としないけれども(常識的には茅葺きと思うが)、見慣れた懐かしい雰囲気の母屋が見える。幼年期に見慣れた大きな農家の母屋とよく似ているのである。庭の構造が農家とまったく違うのは、武家と農家ではそれぞれが庭に要求する機能の違いによるのだろう。農家では、廊下の前の庭は作業用の広いスペースでもあって、その廊下と庭は子供たちの遊び場でもあった。



Photo Aa Photo A の道で。茅葺き屋根と開放された廊下。


Photo B Photo A の道がクランク状に折れる手前で歩いてきた道をふり返る。


 Photo B は、「遠山之里」前の県道36号から南に300mあまり進み、道が折れる手前でふり返って見たものである。どちらから見ても、塀と門が続くばかりである。
 道は右に折れ、すぐにまた左に折れ、いわゆるクランク状に歩いて行くことになる。角に「町屋ミュージアム」があり、その1部かどうか分からないが、なまこ壁の土蔵が二つ並んでいる。
 「遠山之里」からこのあたりまでは、古い門と、屋敷塀が続く落ち着いた町並みで、観光スポットとして申し分ないのである。観光旅行ではないが、何か得した気分ではある。



町歩きMAP 青線、黒字は午前に歩いたコースと写真のおおよその撮影地点。
赤線、赤字は午後のコースである。矢印はと撮影方向を示している。
地図のベースは、「プロアトラスSV4」、 歩行軌跡は、「GARMIN 
GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータによる。



Photo C クランク状に折れてふたたび南へ。


​ 屋敷町のクランク状の道を南に出ると、東西に走る道に出る。出た付近は県道15号になっている。この通りにはお屋敷もあるがほとんどは商店などの民家である。家のガラス戸越しに動き回る姿があって、私たちの動きに同調してガラス戸のなかを移動している。2匹のチワワである(Photo Da)。私のことはまったく見ていなくて、私の前を行く犬(イオ)に集中している。今日の初めての歓迎である。​



Photo D Photo C を出て西進する道(県道15号)。左手の道へ進む。


Photo Da Photo D のT字路付近でチワワが見ているのは連れの犬。


​ 県道15号に出てすぐ南に向かう道があって、そちらの道が県道15号に指定されている。その道に折れて南にまっすぐ進めば、登米神社である。遠くの高みに神社らしい杉木立が見える。神社に上ってみることにして、その道に進む(Photo E)。「○○」は高いところが好きということなのである。私は山登りも好きだ。​



Photo E 登米神社へ南進する道。


 この通りにも、家は建て替えても古い門構えを残している家は何軒もある。そんな家の奥の方からこちらをじっと窺っている眼があった(Photo Ea)。すてきな自然石の上にあつらえた塑像のような筋肉質である。
 県道15号は次の十字路で神社へ進む道から外れ、西に進む道になる。その角には、なまこ壁の大きな藏ががいくつか並んでいる。反対側の角には「ヤマカノ醸造」という会社があって、その裏にも大きな白壁の藏がある。この会社の「人屋根に叶」の商標は、私には馴染みのものである。そのせいで「人屋根」を「山冠」だとばかり思っていたのである。
 その十字路を過ぎると、立格子の檻の中、小屋の中からぬっと出て来て、イオを見つめるシェパードがいた。私が声をかけても見向きもせず、私に連れを見ている(Photo Eb)。イオは相変わらずおとなしそうなふりをして、静かに見返している(典型的な「内弁慶外ミソ」なのである)。



Photo Ea 登米神社への道での最初の歓迎。


Photo Eb 登米神社への道での2番目の歓迎。


Photo H 登米神社への石段と鳥居。


 登米神社は、もともと八幡太郎義家に由来する八幡神社で、明治初期に稲荷神社を合祀して登米神社となった(と由緒書きに書いてあった)。神社の名前そのものが由緒を表さなくなると言うのは少しさびしい気がする。
 鳥居脇には桜の木があり、石段の途中には、幹に歯朶をびっしりと背負う大樹がある。杉を背景とする石段と桜の花、そんな光景を想像してみる(桜の時期に再訪できる当てはまったくないのだが)。
 境内に入ると、朱に塗られた高楼が目を引く。それは鐘楼なのであった。楼門も本殿も十分に古びていて風格がある。境内には斜面を背景に大小の石碑が配置されていて、しーんと静まっている。



Photo G 登米神社境内。


 登米神社の境内を西に抜けると、町へ下りる車道に出る。道の向こうには墓石が見える。養雲寺の裏手なので、その寺の墓地であろう。墓石の間に墓地へ下る道があったので、その道に入った。
 山道の脇には三々五々墓が建てられているのである。古い墓も新しい墓もある。道端には黄菊も咲いていて、1級の散歩道なのであった。急斜面の下を通ったとき、見上げると斜面の上には古い小さな墓石(石碑?)が隙間無く並んでいるのが見えたりする。
 下っていった谷も墓地で、雑木の混じる杉木立の中に、木漏れ日を受けて墓石が光っている。墓石はほとんど不規則に、場所によっては一部は規則的に配置されている。長い時間をかけてわずかずつ変容をとげたであろう企まざる構造の美しさが溢れている。人間が深く深く関わった場所で、こんなに感動するなどということは、この人生にずっとなかったように思う。



Photo H 登米神社から林間の墓地を抜けて養雲寺へ。

​​
いまは死者がとむらうときだ
わるびれず死者におれたちが
とむらわれるときだ
とむらったつもりの
他界の水ぎわで
拝みうちにとむらわれる
それがおれたちの時代だ
だがなげくな
その逆縁の完璧において
目をあけたまま
つっ立ったまま
生きのびたおれたちの
それが礼節ではないか
        石原吉郎「礼節」全文 [2]​​


 この墓地の景色は、あたかも死者たちから生き残っている者たちへの美しい贈り物のように存在しているのではないか。生きている者たちへの慰めを送りつづける遠い父祖たち。
 私の生まれ育った町の墓地も、かつて山の斜面の林間にあったのだが、いつか整地され、コンクリート道、画一的な敷地割りの墓地に改葬された。東から3列目、南端から5番目、と砂を噛むように記憶される墓に、私の父母は眠っている。



Photo I 養雲寺山門。


​ 墓地に見とれていたら、イオになんども急かされた。養雲寺の本堂の前を通り、たくさんの水子供養の地蔵尊(水子像?)を横に見て、養雲寺山門に出た。​



Photo J 養雲寺山門前から西へ進む道(寺池鉄砲町)へ。



[1] 『現代詩文庫48 北川透詩集』(思潮社 1972年) p. 35。
[2] 石原吉郎『詩集 礼節』(サンリオ出版 1974年) p. 18。
[3] 『阿波野青畝全句集』(花神社 平成11年) p. 149。
[4] 新川和江「詩集 絵本「永遠」」『新川和江全詩集』(花神社 2000年) p. 81。


​​【続く】​​

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