かっぱ村長 メイドを雇うの巻 1990インドネシア
かっぱ村長の歴史 1990-1994 インドネシア今から十数年以上前。陶芸かっぱになる前。。。初の海外生活。子供が生まれる前のお話。インドネシアに住んでいた頃の事。人を雇う初めての経験。それはインドネシア人のメイドさんだった。主人がインドネシア駐在となり、新婚早々ジャカルタ在住となった1990年。何でも、海外から来た駐在員は現地の雇用を促進しなければならないという慣習があった。料理担当と掃除担当のメイドさんを雇わなければならないという。新婚早々の私としては「家に他人がいるのもなんだな~。」と思いつつもメイドさんを面接することとなった。インドネシア人のヒエラルキーは一般的なピラミッド型をなさず数%のお金持ちと貧困な人々で成り立っている。私たち日本人が住むいったいはいわゆる裕福層の住む居住地でどの家も例外なく最低2人のメイド、運転手を雇っていた。たいていは近所のメイドの紹介といった者や、運転手の妻なんかがメイドとして面接に現れる。そう、いきなり”ぴんぽ~ん”と玄関の呼び鈴が鳴り、「アナタノイエ、メイドイナイね!知ってるよ!!!私今からメンセツ、OKヨ」てな具合で15歳くらいのあどけない女の子から上は50歳くらいまでのおばちゃんが自ら売り込みに現れる。らしい。らしい。。。というのはその後インドネシアに4年住んでみて解ったことだけれども。。。うちの場合、面接1番と2番。はじめに訪ねて来た自称!19歳と22歳のかわいらしい娘さんたちを雇うことになった。だって、人、しかもメイドさんなんて雇ったことがなかったので。。。はじめに現れた2人を雇ってしまったのだ。これが、その後、いろんな騒ぎを巻き起こすのであった。家にはメイド専用の部屋と台所が別にあるのが上流家庭の住居のスタイル。雇われた彼女たちはたいていの場合が住み込みで朝から夜までの勤務。休みは月に一回で月給5000円と言うのが相場だった。19歳のワティはボロブドゥール寺院で有名なジョグジャカルタの田舎から都会にあこがれてジャカルタにやってきたらしい。寝泊りするところが確保できるだけでなく5000円の賃金がもらえるこの仕事は彼女にとっては願ってもないものだった。彼女は掃除洗濯係として働くこととなる。←ボロブドゥール一方、22歳のエンダンは日本人の家庭で何度も働いたことがあると言う。料理のレパートリーもハンバーグにエビフライ、味噌汁はもちろん赤飯までたけると言う。彼女は相場より少し上の金額を要求してきた。500円の上積みとなった。メイドを雇いいつでも部屋はきれいに整えられ、豪華なごはんの日々。。。「わ~。マダムみたい。」と喜んでいたのは初めの数日だった。ある日、買い物を終えて家に帰ってみると、メイド2人がリビングでテレビを見ていたのである。2人は悪びれもせず、「オカエリナサイマセ(インドネシア語)」といい仕事に戻るのである。あまりにも普通に振舞われたので言葉もなく、「そんなものなのか?なんだか間違ってる気がする。」と思いつつも、まだインドネシア語が話せない私は、何も言うことができなかった。さらには、冷蔵庫にある"貴重品"の日本食などの食材や炊飯器のご飯そして、なべに残ったお惣菜、シチュー等ががいつの間にか減っていくのである。はたまた、メイドの髪を見ると私の髪留めに"そっくり"なものをしている。「それって、もしかして、万が一、間違ったらごめんね。私の?」と聞くと、「ハイ、ステキナノデ カリマス。アトデ カエス ダイジョウブ」と。さすがに、これはまずいと思ったのだけれどときすでに遅し。言葉のしゃべれない、若干25歳の私は彼女たちになめられてしまったのだ。最初が肝心とはまさにこのこと。全ては誰にでも彼にでもいい人と思われたい一心で、策を講じず事なかれ主義、いつもニコニコいい奥さんを演じてきた私がまいた種なのであった。最初が肝心。とはまさにこのこと。この教訓はなかなか生かされず、その後も日本では考えられないことが、”お人好し”をしていると降り、文化の違いに泣き笑いするのでありました。ちょこっと宣伝陶芸教室 POTTERY TOKYO が東京都世田谷区桜上水にリニューアルオープン。店名も新たに ”かっぱのお皿”となりました。 京王線新宿からは電車で分。駅からは2分です。60分2000円で陶芸ができます。まずは体験から 2900円 です。メールは soncho@pottery-tokyo.jp? 070-6641-1144かっぱの村長がお待ちしております! にほんブログ村