カテゴリ:スピリチュアル
気分のいい時間帯に書こうと思っていましたが、気分のいい時間帯は何かと活動していて、落ち着いて書くことができないことに気がつきました。(書く気がないともいいますが。。。) 続きです。
私はお墓不要論を掲げているわけではないのです。 気が済めば、気休めになれば、それはそれで有効です。何かしらのカタチやシルシがないと、落ち着かないもですからね。 私が不思議なのは、霊魂なるものがないといいながら、亡くなった者に対する供養やお墓に対して疑問を抱かない人達がいることなのです。 よくは解らないけど、昔からの習慣でやっているというのが一番の理由でしょうか。納得はしていないけど、変人扱いされたりして何かと面倒だからというのが、本音のところでしょう。 「墓守」の気苦労は、気になる人にとっては昔から大変なものなんでしょう。それに対する、素晴らしいサービスとして、「永代供養」なるものがあるそうです。お寺が供養の代行をしてくれるシステムで、その資格を得るために檀家にならないといけないそうです。 近年は、身内が亡くなり、葬式を出すにあたり坊主の2.3人が居ないとカッコが着かないから、知り合いの付き合いのある坊主に来てもらってセレモニーをすることが多くあります。自分の家系の宗派なんて関係ありません。戒名でにわか坊主に仕立てるのですから、カタチが揃えばなんでもアリということです。 そこで問題になるのは、檀家でなければ「永代供養」の資格がありません。いろいろと技はあるようですが、宗派に所属するといろいろと面倒な気がするし・・・ということで、宗派を問わない霊園墓地ということなるのでしょうか。 ささやかな供養を、お墓でするということなんでしょうが、次に自分がその墓に入った時の心配をするのはどうなんでしょうか? 成仏した魂なら、あんな石室に居るわけないのに。。。。そもそも魂の存在も信じていないのだから、自分の存在が忘れられることにやきもきするのもどうなんでしょ。 伝統的な仏教では、この世に対する執着が、魂の成仏を妨げるといいます。 魂がどうのこうの言う前に、習慣になったその大本から考えてみる余裕が大切かと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.11.10 01:59:45
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