オルセー美術館 番外編 (ロダン・地獄の門)
実はつい数時間前に母はオレオレ詐欺にあった。一応怪しんで息子の前の番号に電話をしたらしいが、仕事中の弟が電話には出なかったのも問題ではあった。新しい番号にはすぐ犯人が出る。それでもおかしいと思いながらも本人と思える気がしたと言う。発覚銀行へ向かう道々、本人に連絡がとれないので私に電話があり、私から弟に確認するように言われて詐欺だと発覚。一度冷静になって、「そんな事をする子か?」と考えればよいのだが、慌ててまくしたてられるので考えたり聞いたりする時間が持てない。それも手口のようだ。不思議な事に騙された人が共通するのは「もしかしたら・・。」と思う息子がやっぱりいた事だ。ところで、気付いた事がある。娘のバージョンは無いようですね。娘はしっかりしているから、ヘマして母に泣きつく確率は低いからかな?今回は、事前に電話を登録させているから、息子の名前も相手の携帯に出てしまうわけで、敵ながら見事な詐欺っぶり。頭いいね。それにしても警察があてにならない。被害届を出したから家まで警察官が調書を取りに来たそうだ。まさにその時犯人から電話がかかって来たのに、警察官は何もしてくれなかったと言う。「今警察が来ています。」と母は犯人に言ったので犯人は電話を切ったが、警察官は「今慌てて携帯の番号を変えているでしょう。」と言っただけで帰ったそうである。彼らは犯人を捕まえる気が全く無いようである。つかまえる気になればつかまえられたかもしれないのに・・。母はガッカリしたらしい。で、今回は、こんな詐欺師が落ちる地獄の「地獄の門」をついでに紹介しようと思ったのだ オルセー美術館 番外編 (ロダン・地獄の門)オレオレ詐欺に騙されそうになった母オルセー美術館(Musee d Orsay) 地獄の門松方コレクションだった国立西洋美術館の地獄の門オルセー美術館(Musee d Orsay) 地獄の門ダンテの「神曲」の地獄編の中に登場する地獄門を彫刻家のオーギュスト・ロダンがブロンズ作品として制作したもの。※ フランソワ・ルネ・オーギュスト・ロダン(François-Auguste-René Rodin)(1840年~1917年※ ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri)(1265年~1321年)イタリアの詩人、哲学者、政治家。その地獄はダンテの考えたものですが、キリスト教の終末論に起因。人間が死んだ時に受けるとされる「最初の審判」で悪者は地獄の穴に落とされると言う思想により、独自の発想で地獄は描かれましたが、後世地獄の原型がこれになったのです。当然その地獄では最下層に行く程極悪人になる。その地獄の入り口の門と扉をダンテの新曲に基づいてロダン(Rodin)が制作したものが今回の「地獄の門」となります。つまり、文字通り、「地獄の門」は地獄へのゲートなのです。因みに、「神曲」の中、地獄の門には「この門をくぐる者は一切の望みを捨てよ。(Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate)」と書かれている。※ 2009年7月「最後の審判 1 (ダンテの神曲)」,「最後の審判 2 (福音書と黙示録)」で紹介。リンク 最後の審判 1 (ダンテの神曲)リンク 最後の審判 2 (福音書と黙示録).そして、その石膏モデルが現在オルセーに置かれています。オルセー美術館の石膏の門大部分のパーツが独立した存在性を持つ彫刻となっています。実は、この作品は、当初以来のパリの装飾美術館が、依頼を撤回したためにロダン個人が製作を続けた石膏型です。そして、それはロダンが生きている間に鋳造される事はなかったと言います。.しかし、1920年になって鋳造が実現。彼の死後、版権がどのようになったかわからないが、注文発注により、現在青銅(プロンズ)で製作された「地獄の門」は世界に7つが展示されていると言う。その1つが東京、上野の国立西洋美術館の前にもありました。国立西洋美術館の地獄の門ブロンズ製 高さ540cm、幅390cm、厚さ100cm 重量 7t制作年1880 年~1917年(原形) 設置年 1959年(国立西洋美術館オープンから)松方コレクションだった国立西洋美術館の地獄の門こちらの作品は実業家で、美術収集家であった松方幸次郎氏の注文による鋳造だそうです。つまり松方コレクションの一つだったわけです。※ 松方幸次郎(まつかた こうじろう)(1866年~1950年) 実業家(川崎造船所社長)。政治家(衆議院議員)。美術収集家。エール大学、ソルボンヌ大学卒業。※ 松方コレクションは、印象派など19世紀から20世紀前半の絵画・彫刻を中心に収集されている。しかし、1927年に世界恐慌の影響で川崎造船所の経営が破綻。自身の負債整理のため松方コレクションは散逸する事になった。そもそも上野公園の国立西洋美術館(The National Museum of Western Art)は戦後、海外に散逸していた松方コレクションの返還要請に基づいて、フランス政府などから返還された作品を展示する為にル・コルビジェ(Le Corbusier)の設計により造られた美術館だったのである。※ ル・コルビジェ(Le Corbusier[)(1887年~1965年)フランスの建築家皮肉にも、国内の作品は差し押さえられ消えたが、むしろ海外に置かれていた松方コレクションは、全てでは無いが返還される事になったのだ。※ フランスが返さない印象派の作品はまだある。※ 件の「地獄の門」が、松方家からの寄贈婚なのか? 美術館が買い取った作品なのかは解からなかた。1880年、会計検査院の跡地に建てられる装飾美術館の為に国家によりロダンに注文が入る。1880年~1890年にこの地獄の門の構想ができたらしいが、この話自体が取りやめになってしまう。しかし中止と言われても、お金を払ってでも、自身の作品としてロダンは制作を続け彫り続けたそうでだ。確かに芸術家が1度着想f始めたものを止める訳はない。彼がこれを世に出す事は彼の使命と思ったのかもしれない。これはダンテの「地獄の門」と語るにふさわしい貫禄を持った作品であるからだ。でも、先ほども紹介したが、生前にブロンズの形で世に出る事はなかったそうだ。ところで、門の上で悩む男に見覚えがありませんか?地獄の門の上で熟考する詩人はダンテ? 当初はそう発表されたらしいが、ロダン自身だったのではないか? と考えられている。.考える人(Le Penseur)1889年、ロダンは「地獄の門」を覗き込むこの部分を一つの彫刻として発表。それこそが、地獄門よりも有名になっているロダン作の「考える人」(Le Penseur)です。しかし、その名はロダンが付けた名ではないそうですよ。ロダンの作品はたくさんありますが、代表作がこの「地獄の門」と、その一部を抜き出した「考える人」と言えるかも。ところで、ロダン作品は、極めて緻密でリアルな上に力強さがある。強い生命力を感じる作品です。ブロンズ作品愛好家としては、嘆美系と趣味が分かれるところかもしれません。実際日本人には好まれ、よって日本にロダン作品は多く来ていますが、フランスをのぞけば他ではあまり見かけない?※ 明治43年、同人雑誌「白樺」で紹介された為に日本では有名に。当時白樺派でフランス語の出来る有島生馬(ありしまいくま)が手紙を書きロダン自身と交流もあったそうだ。唯一、記憶ではデンマーク、コペンハーゲンのニュー・カールスバーグ(Ny Carlsberg)美術館に作品が多く集まっていた気がします。取り寄せている本はまだ届かないので、オルセーは、続きます。オルセー美術館b ack numberリンク オルセー美術館 1 (パリ万博とオルセー)リンク オルセー美術館 2 (印象派・・マネとルノワール)リンク オルセー美術館 3 (ジョルジュ・スーラ)リンク オルセー美術館 4 (モネとモネの庭)リンク オルセー美術館 5 (セザンヌとバーンズ・コレクション)オルセー美術館 番外編 (ロダン・地獄の門)