カテゴリ:釣り・旅
二日前から四国旅行の日記を書いているが、良くわからない事が出てきた。それは「壇ノ浦」についてである。壇ノ浦というと「源平最後の合戦の場」で、山口県下関市にあると思っていたが、香川県高松市の屋島にも壇ノ浦があるのだ。
屋島周辺図(屋島のてっぺんにある) つまり、屋島の合戦の戦場も「壇ノ浦」だったということだ。参考までに下関市の壇ノ浦もリンクしておこう。この「謎」については各自調べてちょうだい。今忙しくて調べてるヒマがないから。 源平壇ノ浦の古戦場 ほらね「壇ノ浦」って書いてあるでしょ 写真に写っている川は相引川。この川を流れているのは海水で、川の両側は干拓地である。つまり昔は海(壇ノ浦)だったところだよ。(厳密に言うと相引川は淡水の川ではなくて運河だから、今でも屋島は島なんだろう) ★安徳天皇(1178年生まれ)は、平家一門の保護下にあり、源氏に追われて四国の屋島から本州西端の長門国まで落ちていきます。そして1185年3月24日、壇ノ浦合戦で二位尼に抱かれて海中に沈んでいきました。この時母の建礼門院が抱いていなかったのは、やはり母が我が子を抱いていては入水しきれなかったからかも知れません。享年8歳(今の数え方でいえば6歳4ヶ月)。 しかし、安徳天皇はこのとき生き延びたという伝説があり、四国各地に安徳天皇の墓が点在しているんだなぁ。だから、安徳天皇を抱いた二位尼が入水したとされる壇ノ浦が屋島なのか下関なのかハッキリしなくても不思議じゃないんだ。 その辺は曖昧な方がロマンがあるってことで、高松の人が屋島観光をよりいっそう盛り上げるために、ここを「壇ノ浦」と名付けちゃったのかもしれない。(自分で調べてね! この文章を引用するなよ) あとね、「祈り岩・駒立岩」には、このような解説が付いてるんだ。 祈り岩:生死を賭けて扇の的に立ち向かった那須与一が必中を祈願した岩。 駒立岩:扇の的を射るとき、射程を少しでも縮めるため、那須与一が海中に馬を乗り入れて馬を立たせた岩。扇の的までの距離は、およそ80mと伝えられているが、ホントかどうかはわからない。強風に加えて空気抵抗の大きい鏑矢(音の出る矢)を使った。しかも扇は揺れる小舟の上といわれているので、そんなもん不可能に近いと思われる。 琴電屋島駅の駅舎 この駅舎があるところは、源平の合戦があった当時、浅瀬になっていた。で、源義経は海から攻めてくるだろうと思っている平家の裏をかいて、この浅瀬(赤牛崎・あかばざき)を馬で渡ったらしい。(赤牛崎というのは赤牛が歩いて渡れる瀬があるという情報を義経が地元の人から聞き出したという伝説によって名付けられたのだろう) その辺のことは琵琶法師が語り継いだということなので、いくらか脚色されているかもしれないが、だいたいホントだと思う。作り話にしては出来過ぎてるから。 さて、屋島の遊歩道を歩いてみようか。 (二日前から話が前後しているが、これは読者の1/2が釣りバカだから。釣りバカは歴史や地理の話より釣りの話が好きなんだよね。まったくもう、どーしょーもない釣りバカどもめ。だから先に釣りの結果を書いて黙らせたのさ) 面白いのはこれからだ! つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004.04.22 22:19:06
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