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まいかのあーだこーだ

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2018.12.14
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今年、もっとも優れたドラマは、
「半分、青い。」と「獣になれない私たち」だったと思っています。

この二つのドラマは、
多くの視聴者を躓かせた、という点でもまったく共通していました。



一般の視聴者は、
テレビドラマに、ある種のルーティンを求めています。

つまり、
困難が解決されたり、悪者が打倒されたり、
男女の愛が成就したり、主人公が成長したりするのを見ることに慣れていて、
「そういう様子を眺めるのがテレビドラマだ」というルーティンに浸っています。

それこそ「仮面ライダー」から「水戸黄門」にいたるまで、
多くのドラマは、そういった幻想を満たしたいという願望に応えている。

けれど、
「半分、青い。」と「獣になれない私たち」は、
そういうドラマ的なルーティンを期待する視聴者を、大いに躓せました。

ちなみに「半分、青い。」は、―かつての「純情きらり」と同じように―
最後まで何も成し遂げることのできない人生を描いた物語であり、
安易な「成功」とか「成長」という幻想を拒否したドラマでした。

そよかぜ扇風機の開発には成功したけれど、
その事業そのものが成功したかどうかは描かれませんでした。

「半分、青い。」は、
しばしば主人公自身の未熟さを示しながら、
安易な成長や勧善懲悪の図式をも拒否し、
恋の成就への期待をも裏切り、
成功という夢物語をも最後まで拒んだドラマでした。

そして、そのことで一部の視聴者の怒りを買った。

多くの視聴者は、
主人公が成長して、悪者を打倒して、問題を解決して、
恋を成就させて、最後に成功を手に入れる物語に期待しています。



しかし、一方では、
そういう安易な幻想にうんざりしている視聴者も存在します。

今回の「獣になれない私たち」の中で、
かりに主人公に「成長」した点があったとするならば、
それは晶と恒星が最後に「爆弾を投げた」という点でしょう。

しかし、
それは成功をもたらすものではなく、
むしろ敗北をもたらすものだったし、
一般的にいって、それは「成長」とは真逆のものです。

なぜなら、むしろ一般の社会では、
社会に同化して現実を受け入れることをこそ「成長」と呼ぶのですから。



晶と恒星は、なぜ最後に爆弾を投げたのでしょう?

それはきっと、
謝罪会見で世間にむかって爆弾を投げた呉羽と、
そのような呉羽の姿をこそ待ち望んだ橘カイジの姿を見て、
勇気を得たからだろうと思います。

しかし、
それは一般的な意味での「成功」でもないし「成長」でもない。
そして、その結果がどうなるのかは、もはやドラマの外側の話です。

たとえば、
橘カイジの「new world」の構想の内容が最後まで描かれず、
それぞれの登場人物のささやかな「new world」に託されて終わったように、

「ナインテイルドキャッツ」という実在しないビールの味は、
はたして苦かったのか甘かったのか、美味かったのか不味かったのか、
それは最後まで語られることがありませんでした。

恒星「ものすごく不味かったらどうする?」
晶  「それでも飲む」


同じように、
「教会の鐘」は、一瞬揺れるのが見えたけれど、
それがどんな音だったのかは、視聴者には聴こえませんでした。

晶  「鳴らなくても聞こえなくても、一緒にいることってできるのかな?」
恒星「それはわからないけど、…俺たち次第じゃない?」


それはドラマの外側に託されて終わったのだといえます。

テレビゲームのような夢物語のなかで安易な結論を出さないように、
テレビドラマという夢物語のなかでも安易な結末は描かれませんでした。



「半分、青い。」と「獣になれない私たち」は、
テレビドラマの新たな方向性を示しています。
坂元裕二の近年の作品群も、そうだったと思います。

かつての映画と同じように、
もはやドラマは「テレビをつけたら映っている」ものではなく、
視聴者が選択するコンテンツになっています。

そのことが、
かつてのように万人受けするような作品ではなく、
ある種の視聴者を拒むほどの作品を生み出しているのだろうと思います。





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最終更新日  2023.01.11 06:19:57


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