カテゴリ:旅の重さ
頼朝船出の浜、岩海岸から坂を登ってゆくと、岩海岸の入り江がよく見えました。
この坂道を登ってきましたが、 坂道の途中に2柱の石碑が、 小さい方には「謡(うたい)坂」の説明が記されていました。 治承4年(1180年)石橋山の合戦に敗れた源頼朝の一行は、箱根山中を逃れ出て岩海岸から房州(千葉県)へ向けて船出しました。その途中、無事を祝い再起を願って土肥実平がうたい踊ったと「源平盛衰記」にあります。この付近の謡坂という地名はそれに由来するといわれます こちらの大きな石碑は、もう文字がはっきり読めないのですが、調べてみると「謡坂の碑」というそうで、この地に別荘を持っていた高井徳造氏が謡坂の由来を知りそれを顕彰するために昭和9年1月に建てた石碑だそうです。碑文にはこう記されているのだそうです。 土肥に三つの光あり さらにこの坂道を登ります。 もともとこの辺りは土肥実平の勢力範囲だったからでしょうか、道の名前も土肥道(どひどう)と呼ばれているのですね。 別荘地でもあるからでしょうか。立派な住宅が多く建っていました。 そして真鶴町民センターにやってきました。 この建物の玄関に置かれているこの岩は、 真鶴町指定重要文化財の「鵐窟縁起(しとどのいわやえんぎ)」というものです。 鵐窟(しとどのいわや)とは、石橋山の合戦に敗れた頼朝とともに逃れた安達盛長・岡崎義実・新開忠氏・土屋宗遠・土肥実平・田代信綱の主従七騎が隠れ潜んだ岩屋のことだそうです。 碑文は漢文で書かれています。というのも、この石碑は正保2年(1645年)に当時の名主五味伊右衛門の依頼で陰山道人が書にした頼朝と鵐窟の由緒を刻んだ石碑だそうですから、やっぱり漢文で書くことが当時の知識階級の嗜みだったのでしょうね。 鵐窟縁起、よく見ると文章の他にも頼朝の肖像のイラストらしきものも彫りこまれていました。 ちなみに、鵐(しとど)とは ホオジロ類の鳥、ホオアカ・アオジ・クロジなどの総称の古名だそうです。 町民センターを出て、真鶴港の方に向かう途中で見かけたロウバイ(蝋梅)です。 真鶴を訪れたのが1月の末だったので、丁度、ロウバイの盛りに巡り会えました。 (真鶴で頼朝の足跡を歩くコースです) 【つづく】 人気ブログランキングへ 源頼朝の足跡を巡る(その3) 謡坂と鵐窟縁起 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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