カテゴリ:歴史/考古学/毛人
一ノ宮押出遺跡の土器の分類を行った。
分類結果 「一ノ宮押出」 土器分類(在来系は「おぢさん」シート、外来系は「成塚向山」シート参照) 鏑川上中流域弥生後期4期~古墳前期土器分類 鏑川上中流域のエリア区分(遺跡の位置もこちらで) 鏑川上中流域の弥生集落分布 一ノ宮押出遺跡の鏃などについて 鏑川流域(阿曾岡・権現堂エリア)の鏃分析―② 本遺跡の弥生後期から古墳前期の住居は、樽式1期から2期に差し掛かる段階の住居と、在来系が姿を消した段階の住居に大別できそうだ。今回は後者の住居(3~9、11、14、15、19、31号住居)12軒から出土した土器を対象として分類を行った。外来系と在来系の両方が出土する住居もあるが、おぢさんが見たところではどちらか一方への混入(あるいは再利用)と思われる。 一ノ宮押出遺跡出土甕のタイプ毎の集計結果は上表のようになった。S字甕(先頭F)が圧倒的に多く、次いで単口縁の台付甕(先頭E)、単口縁の平底甕(先頭G)が続く。 《S字甕》 14号住居の甕2は、横刷毛のあるF2。8号住居の甕5は横刷毛のないF3。 《単口縁台付甕 と 単口縁平底甕》 〔左〕4号住居 甕3 〔右〕5号住居 甕1 〔左〕は単口縁台付甕のE4。E3はハケを密に施すもの、E4はハケが雑になりケズリが部分的に顕在化するもの、E5はハケがほとんどなくケズリ主体のもの。 〔右〕は単口縁平底甕のG4。G3はハケが粗くなり、ケズリあるいはナデが現れたもの、G4はハケがなくなりケズリが主体のもの。 器面の調整からいえばE4≒G3、E5≒G4という関係にある。 上の表は、住居毎形式毎の甕の出土数を示したものだ。観察対象とした12軒中7軒からF3のS字甕が出土している。器面調整はハケ主体からケズリ主体へという変化が予想されており[1]、E3→E4→E5、F2→F3→F4→F6、G2→G3→G4と推移すると思われる。この変化を念頭に置いて上の表をながめると、9号住居がF6(ハケが無くケズリのみ)の甕のみを出土しており、新しいと思われるが、他に明確な時期差が読み取れる住居は無い。甕を見る限り、他の住居はあまり時期差は無さそうだ。 前回検討した上丹生屋敷山遺跡との時期的関係を考える。本遺跡の樽式土器は古いもので、共伴するものはないと思われるので、本遺跡の住居はすべて上丹生屋敷山遺跡の4段階(外来住居段階)に含まれると思われる。ただ問題があり、上丹生屋敷山遺跡のS字甕は3段階(混在住居段階)の出土を含め全てF3であるのに対して、本遺跡ではF2が含まれており矛盾がある。遺跡間の距離は5Km程しか離れておらず、地域的な差は考えにくい。S字甕の横ハケが本遺跡ではやや長く残存したか、あるいは上丹生屋敷山では在来系が長く残存したということかもしれない。 早計に過ぎる空想をあえて書けば、上丹生屋敷山が元々の在来系集落が外来系土器を取り入れ変化した集落であり、一ノ宮押出が外来系文化を持って移動してきた集団であったとすれば辻褄は合うように思える。 遺跡の土器を全体的にみると、形が整っておらず、粗雑な印象を受ける物が多い。調整は主にハケ→ケズリという推移が想定されているが、ナデも多い。ナデの位置づけをどうするべきかも今後の検討課題。 図版は富岡市教育委員会 1994『一ノ宮押出遺跡』から採った。住居番号なども本報告書のもの。 [1] p.456 深澤敦仁 2008「太田地域における古墳時代前期の土器編年試案」 『成塚向山古墳群』群埋文 田口一郎氏が指摘したS字甕の型式変化「胴部外面へのケズリの顕在化(=ハケの省略化) の進行」《変化視点1》は甕E、甕Gなどにも有効だとしている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.08.14 20:06:59
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