箏とオーケストラ
佐渡裕×沢井一恵×坂本龍一「箏とオーケストラの響宴」☆グバイドゥーリナ:樹影にて~アジアの箏とオーケストラのための(1998)Gubaidulina : In the Shadow of the Tree ---- for koto, bass koto, zheng, and orchestra (1998)十三絃箏、十七絃箏、ツェン[中国箏]の三面を用いる。冒頭、ピッチとしてはひとつなのに、音色を変えて、ひびいてくる、絃の音。ほぼ30分、まったく飽きさせないみごとな力技。☆プロコフィエフ:バレエ組曲《ロメオとジュリエット》よりオケがとてもよくなっている。「世界中でオーディションを行い、世界各地から若手演奏家を集め優秀な人材を輩出するアカデミーの要素も持つ、世界でも類を見ない新しいシステムのオーケストラ」だそうな。兵庫芸術文化センター管弦楽団。設立は2005年9月。こちらとしては、プロコフィエフ、「はしやすめ」的な気分でいたのだが、すっかり忘れていた、けっこう好きなのだった、このバレエ曲。いつもはバレエで見ていて、コンサートで聴くのははじめてなのだが、隅々まで記憶にあるから、音楽の場面場面で、バレエの様子まで脳裏に浮かぶ。チャイコフスキーのバレエだとこうはいかない。ハリウッドならぬ、モス・フィルムの大衆操作的音楽の魅力、か。(アドルノは聴いたことがあるのだろうか……何か言ってほしかったものだな)☆休憩後に佐渡裕と坂本龍一がステージにあらわれ、かんたんなトーク。そして、坂本龍一:箏とオーケストラのための協奏曲(2010、沢井一恵委嘱作品、初演)R.Sakamoto : Concerto for Koto and orchestra (2010, commissioned by Kazue Sawai, premiere)still, return, firmament, autumnの4つの部分からなる。もちろん、西洋的な二項対立はとらないだろう、とおもってはいた。だが、こうなる、というのも予想はできなかった。こういうかたちで箏とオーケストラが併行するとは、と。はじめのパートを聴きながら感じていたのは、『out of noise』からのつながり。だが、このかなりはっきりとでてくる、「箏」にあまりに根ざしているペンタトニックは「いかん」のじゃないか、などともおもっていた。そうではなかったのだ。そこだけですむことではなかった。はやとちり。四面の箏、四つの調律、それが四季とつながってゆく-----四季、それも、かなり異なった4つの季節、コントラストをなす四季というよりは、ケージの《四季》、インド思想を念頭においた、ひとの生や精神状態をめざそうとした、ケージの作品が、ふと、脳裏をかすめた。ここにあるのは、ヴィヴァルディやハイドンではない、かといって、日本でも春夏秋冬と呼ぶようなものでも、じつは、ない。ひとつひとつのパートが、あいだ、わずかにポーズをとっていて、せっかくだからattaccaだったらいいのに、とおもっていた。あいだがあいてしまうと、つい、聴き手は、気をぬいたり、咳をしたりしてしまうから、と。『out of noise』の、フレットワークに奏させていた、一種の偶然性的なかさなり、そうしたところも、弦楽にはわりあてられていたのだったろう。何よりも驚きだったのは、いろいろな楽器をわざと重ねることで逆に、モノクロームにちかづけてゆく、その、たとえば坂本龍一が映画の音楽でおこなっている色彩感を、むしろ、消すような方向をとっていたところだ。こうしたところだって、『out of noise』には、たしかに、ありはした。でも、あの編成ではなく、しっかりと二管編成をとりながら、そうしない、ということ。拒む、こと。箏とオーケストラの作品を委嘱され、どう作曲するのか、その困難さは想像できる。「現代音楽」のスタイルで、特殊奏法をさまざまにとりいれて、か、「ポップス」とけっして遠くないところで、聴き手に親しめるようにする、か、その「中間」をとった、「ライト・クラシック」のようにする、か、坂本龍一は、こうしたどれとも違った道をとるだろうことは予想できはしたが、具体的に、じゃあ、どうなのか、といわれると、わからなかった。そのかたちが-----最後の4番目のパート、ああ、おくっているのだな、と、この音楽は、おくっているのだ、と、四季のめぐり、冬から春、夏をおくってゆくのが秋なんだと、そして、なにかをおくる(送る)とともに、音楽をおくる(贈る)なんだと、坂本龍一が、この曲を書きながら、さまざまな「おくり」を意識的か意識せずかわからないけれど、織りこんでいる、わたしはそれをつよく「感」じていた。けっして「ひとごと」ではないものとして。そのときには、しかも、箏には「メロディ」なんてない、なくなっている。ただ、特殊奏法の、楽音ではないひびきばかりがたてられている。はじめのパート、stillにあったペンタトニックは、わざと「はじめ」におかれている、それはむしろ、だんだんと散らされてゆく、べつのところにゆくためにこそ、あった、のだ。それは、ひとつの身体、ひとつの「型」、ある特定のところで形成されてくる「文化」なのかもしれない。そうしたものが、だんだんと変形し、こわれてゆき、「楽音」ではないところへと散ってゆく。あれは、ちり、cendre、なのではなかったか。そう、だから、4つめのパートで、箏は「うた」わない。それでいて、オーケストラのひびかせている「うた」のありよう。箏とオーケストラとは、「協奏/競争」せず、二つ、ともに、ある。4つのパートを沢井一恵が弾いていとき、「ことじ」がとんだ。もちろん偶然なんだろう、でも、そうでもなく感じていた。この「コンチェルト」をとおして、ケージ晩年の「ナンバー・ピース」がより鮮明に、より身近、いや、ぐっと近くに、感じられるようになっていた。2010年4月13日(火)19:00- 東京オペラシティ コンサートホール:タケミツメモリアル