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カテゴリ:源氏物語つれづれ
女ほど自分の態度のとりかたが遠慮され、悲しく無念なものはない。しみじみとした情趣や、季節ごとの風流な事にも、まるで感受性がないように装い、心の中に押し殺し、そうして気持ちが沈みこんで生きているならば、世の中に生きている喜びも、無常なこの憂き世の侘しさも、何によって心を楽しませ慰めることができようか。 大方は女性のことを、物事の本質を理解する能力もなく、存在価値のない者と貶めた評価をするのが世の常であるけれど、それではせっかく大事に養育してきた親にとっても、あまりに不本意で失礼なことになりはしないだろうか。 無言太子などと称し、法師たちが悲しい物語にする昔のたとえのように、悪いことも良いことも、すべて身にしみて知っていながら、自分の心ひとつに思いを閉じ込めて、何も話さず埋もれてしまうとしたら、女とはなんと情けない存在なのであろうか。 また、知っていて知らないふりをするのもつまらないことではあるが、かといって知り顔をすることも醜悪である。ありのままの自分の心で生きるということは、なんと難しいことであろう。女にとって、己が心のバランスを、どのように保つべきなのであろうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ここで思い出されるのは、「蛍」の巻での「後の世にもいひ伝へまほしきふしぶしを、心にこめがたくて、言ひおきはじめたるなり」という一文です。 自分一人の心に仕舞い込むことができないほどの、この溢れる思いを後世の人にも伝えたい、私の気持ちを理解してほしいという作者の思いを、私はひしひしと感じます。 そして同時に私はここに、作者の、歯軋りするような「無念さ」や「口惜しさ」も感じるのです。 「源氏物語」は、平安という時代に「女の身」を持って生れた作者の、心の軋轢や葛藤、そして何より深い孤独感の中から生れてきたのではないかと、私は思うのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
March 20, 2017 08:39:38 PM
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