カテゴリ:近代別荘・別邸史
さて、近代別荘とはいったいどの様なものであろうか。2004年4月19日平凡社刊日本の別荘・別邸の中で『近代の別荘と別邸』安島博幸氏によると明治前の平安時代の宇治平等院、室町時代の金閣寺、江戸時代の桂離宮、諸大名の中屋敷・下屋敷などがあり、湯治や狩猟等の趣向がための場所とされている。
近代的別荘の成立を安島博幸氏は、この様に説いている。明治維新以降の別荘を大きく三つの段階で分けている。 第一期、 時代は、1887年明治20年代位に建造されたもので新興財閥系、園遊会目的等の賓客接待型別荘。深川の岩崎別邸、三田の三井倶楽部、京都の山縣別邸がある。 第二期、 1887年明治20年頃から1914年大正3年の第一次世界大戦位まで明治期に欧米から日本にやってきた外交官、宣教師、貿易商、お雇い外国人等が西洋別荘スタイルもって初期リゾート型別荘が定着する。 第三期、 1914年大正3年の第一次世界大戦から1941年昭和16年頃までの間、「武蔵野」や「自然と人生」の郊外生活への憧れが中流階級によって避暑等の大衆化が定着した。 その他の分類として、近郊賓客接待型、高原避暑型、温泉保養型、海浜保養型、農場経営拠点型、近郊保養型がある。このように大別された中でこの茅ヶ崎は、第二期の別荘開発から第三期の大衆化を経て高度成長期における近郊住宅地としての茅ヶ崎が形成されていったといえる。 第二期の1900年前後の明治30年代は、小説「自然と人生」・1898年明治31年1901年明治34年「武蔵野」が出版され郊外生活の流布も相まって影響され日清。日露といった軍事褒章の影響から当時の高官、軍人が各地の別荘を購入し始めるのが第二期の茅ヶ崎の特徴ともいえる。 そこで、大胆な仮説をたててみた。(楠・野崎)弧松庵は、猟師の目印にされていた「からかさ松」という一本松が敷地内にあることにちなんだものといわれたその団十郎別荘に対して川上別荘は「萬松園」と名付けられた。この一本松に対して萬松とは、あまりにも対峙している。 (注茅ヶ崎市史4第二節別荘と海水浴) 当時の高砂上、下の地理状況は、江戸末期海岸防衛のための砲弾演習の妨げのため、天明5年1785年辻堂、小和田、菱沼村の野永場17町8反7畝の松総数18650本を伐採している。このように当時、幕府と農漁民との対立があった。(注茅ヶ崎市史1通史、幕府と農漁民との対立) 当時伊藤里之助は、別荘誘致開発の一端として防砂を目的とした防砂林を明治32年1899年6月26日神奈川県に伊藤町長が植林の申請を届けている。つまり、明治29年当時のこの地は不毛な荒地であったことがわかる。後の1902年明治35年には、一面「小松原」となったこの茅ヶ崎が小説「霙」の舞台となる。 この様に松の無い高砂下に何ゆえ「萬松園」と名付けたのだろうか。また、駅が出来る前、この地に宿泊のできる宿「萬松園」が存在したのか推理してみた。一つは、別荘誘致のため伊藤里之助は、ここに宿泊可能な家屋を造り別荘体験ができるようにしていたのではないだろうか。 その理由に、1897年明治30年8月7日茅ヶ崎の駅舎が出来る一年前に宮内庁関係の花房義質(はなふさよしもと)が滞留地は、萬松園以外の中村楼や茅ヶ崎館といった宿泊地もあったろうと推測されるが萬松園への滞留人数確認の書簡を別荘誘致に励む伊藤里之助宛てに届けられている。 第二に「萬松園」の名付け親は伊藤博文ではないかという説。この説があったとすれば伊藤違いの伊藤里之助ではなかったのか。これについては、1898年明治31年に駅が出来ることも不毛のこの地に多数の松が植林されることについては、当時の伊藤里之助しか知りえないことであること。「萬松園」の名付け親は、伊藤違いの伊藤里之助ではなかったか。 後に茅ヶ崎館発行の絵葉書における茅ヶ崎八景の「高砂の名月」の舞台、高砂下が選ばれた理由があるはず。明治31年に駅舎が出来たことでこの高砂下の地はかつて南湖や茶屋町が中心地であった場から程遠い駅舎が出来ることでやがて茅ヶ崎の中心地となり代わっていくのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年03月10日 10時21分10秒
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