何一つも無駄が無く繋がって
申し訳ございません。2点、始めに訂正があります。ひとつは、先ほど申しましたアーティスト名の件。そして、昨日の記事内のエゴ=未成仏の霊だ、と言う点。今日浮かんだ、アーティスト名の件は、他の人がイメージしたもので無い事が判りました。私にとって、今の感慨に至るまでは必要な材料が3つあったのだと思います。一つは今日の先の記事の件、そして、昨日のフォーレの曲名の件、そして、先日のスウィッチフットの名前が浮かんだ件です。まず、今日のアーティスト名に関しては、後ろの名前(セカンドネーム)を何処かの記事か、誌面で目にしていたのです。ソロアーティストと言う事も何処かで記憶していました。今日、名前が突然浮かんで来た後、WEBで検索するまでは、顔とファーストネームが一致しない状態だったのです。なのでファーストネームまで突然浮かんだ事に驚いたのです。でも何処かでセカンドネームを覚えてはいました。勿論聞いた事は1回も無かったです。そして今日試聴しました。個人的にはあまり好みではありません。そして、フォーレの曲名の件。アルバムに収められているフォーレの曲は「パヴァーヌ」です。ですが、昨日更新時には、最初の一時間ほど、間違いには気づかず「シシリエンヌ」と書いてしまったのでした。この時の更新時の場所は漫画喫茶です。この間違いの記事をアップした直後、僅か1、2秒の間に、私の中で昨日の記事の「ざまー見ろ」の他に「違うだろ!」と言う言葉が突然鳴りました。それが何だか判らずに。。家に着いた時、そういえば「シシリエンヌ」では無く「パヴァーヌ」であった事に気づき、慌てて家の端末で訂正を行いました。フォーレの中で「パヴァーヌ」と「シシリエンヌ」は単独でコンサートのアンコールなどでも取り上げられるほどの素敵な小品です。どちらも叙情的な曲だったので、イメージがダブっていたのです。そして3点目、スウィッチフットの件です。こちらのケースは、本当に予備知識の無いアーティストでした。「SWICHは聞かないの?」と言う言葉が突然、帰宅途中の電車の中で浮かびました。何か関係あるかと思いその場で携帯のWEBでWEBCDショップのページで、「SWICH」を検索しました。すると出てきたのが、スウィッチフット。電車を降りた後、CD店に直行して即購入。家に帰って調べてみると、クリスチャンロックと云われている事が判りました。神様の事を考える事が最近多かったので、何だか縁は感じました。たまたまかもしれません。この言葉の浮かびをどう説明するか。。。前述の3点を繋げる一つの見解が浮かび上がりました。顕在意識と潜在意識です。まず・覚えているかいないかの認識だった今日のアーティスト名。・顕在意識では覚えているつもりだったが、うっかり忘れてしまった同作曲家の曲名。・まったく身に覚えの無いアーティスト名。結論は、潜在意識から顕在意識に表出してきた言葉だ、と言う事です。もし好きなアーティストであれば、ひょんなタイミングでも浮かぶ可能性は十分にあります。ですが、今日のはセカンドネームしか定かで無かったし、実際の曲を聞いた事も無かった。フォーレは覚えていたつもりだが、つい間違えてしまった。「違うだろ!」と言う言葉。でもその時はまだ間違った事に気づいていなかった。この2点は潜在意識からの表出と考えられると思います。そして潜在意識には、今まで体験した「すべての個人的な記憶が蓄積されている」事にも繋がります。ここで異質なのが3点目に挙げたアーティスト名の件です。これは、まったく知りませんでした。スウィッチと言う文字を含む形でアーティスト名が存在している事すら知りませんでした。ここで「仮説」を考えました。「すべての個人的な記憶が蓄積されている」 ↑この領域は、顕在意識の下にあるだけで無く、人類間で共有されている。そして共有されているのは、過去の記憶だけでは無く、恐らくリアルタイムです。かのユングの意見に、同調した結論になりました。私もそうでは無いかと今日、思いました。この見解を立てれば、アカシックレコードも以心伝心も説明がつきます。スウィッチフットがお奨めCDである事をリアルタイムで誰かが送ってきたもので無いにしろ、共有されている誰かの過去の記憶が私の顕在意識のずっと下から表出してきたものと考えられます。-------------------------------ここでアーティスト絡みのお話は一旦終了です。---次に、エゴが未成仏の霊と書いてしまった事の訂正の理由を書きます。今日、朝通勤中に、昨日書いた自分への議題について思いを巡らしていました。すると声がありました。「議論の余地は無いだろう。」と。その時は判りませんでしたが、今日の午後、あれはエゴの反抗の声だったのでは無いかと感じて、再び思いを巡らせました。そして一つの見解が浮かびました。エゴは、形容された全ての霊的存在(生きている人含む)の共有エゴである、と仮定します。この見解を立てるとどうなるか。・動物霊や憑依の説明がつきます。幽界に留まる霊は、エゴがあるので留まっているんです。そしてそのエゴは「共有」であるからこそ波長の存在を肯定します。波長が合うからこそ、繋がったり、憑依が可能となるのです。そしてここからが少し信じがたい見解になります。顕在の意識の下、潜在の共有間に、記憶だけで無くエゴがあるとするならば! です。全員がそこに気付いて行動しない限り、何も解決しないと言う事になります。一人のエゴは一人のエゴでは無く、大部分が共有領域で占められているうちの、個人の顕在意識に表出している一部分でしか無いんです。ひとつの言動、ひとつの行動がエゴに傾けば、その顕在下にある全員で共有している「共有エゴ」の存在性が強化されます。共有されているエゴがその力を増すと、個人で持ち合わせている協調性が薄れます。エゴ=争いのもとです。一つの行動に関して、一人で話を終わらせようとしても、実は終わってないのです。怖いですね。全員が顕在意識の下で同じ領域を共有しているんです。個人のエゴを終わらせる事は、共有エゴの力を弱め、更に他の人達へも伝達されます。知らず知らずのうちに、他の人への協調性も促している事になります。会社であったあの人とも、電車内の知らない人ともベースは同じものを持っているんです。自分はへタレです。だから、これはただの仮説であり、個人の考えた妄想に過ぎないかもしれません。最後まで読んで下さり、本当に有難うございました。m(_ _)m