習慣化された癖
とぼけたように再開してすいません。自分用メモとしてまとめておきたいので。個人的には、かなり重要な疑問が最近、湧いておりました。自分は今まで「赦し」と言うのは、あらゆる事への全肯定だと解釈していたつもりが、実践できていなかった点が多くあった事に気づかされたので、メモとして残します。一つの行動や一つの考えの取り違いが「肯定」で無く実は「否定」であった事。ここ数ヶ月の私には、沢山ありました。何をして良いと言っても、それが自己への「否定」だとしたら、苦しみに成り続けます。付き合い程度にしか酒は飲まず、煙草だけ日に数本吸うのですが、これも「自己否定」なんですね。きっと。何故「否定」の行動だと思ったか、と言いますと、本来、自分に対して真に「赦し」が行われているならば「~しなければいけない。」と言う強迫観念は無くなるハズ。なのに、これが無いといけない、「煙草」が無いと落ち着かない。と言うのは、おかしな話ですよね。生きてく上で必要なベース以外は、欲さなくなるはずなのに。。そこで、この行動を引き起こしてる気持ちは何処から来るのか?というのを考えてみました。これが「罪悪感」が織り成す「隠れる」と言う行動のひとつだと。自分を赦し切れてない為、「安堵感」に到達できない為のツギハギなんだな、と感じた次第。勿論、付き合いで酒を飲んだり、みんなで楽しむ為のお酒は健康的なのですが、習慣化された生活上の悪い癖は心と魂がバラバラになっている現れなんですね。もう一つ。肯定と赦しを実践しようとすると、今ある状況、生活、人生も肯定するのが自然。過去への後悔が同時に消える形になりますね。後悔=過去の発生。思い出=過去が肯定化されたものと感じます。エゴでは色々獲得しようと人を選り好みしますが、自然なご縁が出来たのであれば「赦し」は委ねて受け入れる事なんですね。世界がある事も、生きてる事も、誰かと出会う事も「赦し」の中では何一つ「誤り」が存在しなかったんですね。自分の計画や未来を考える。「エゴ」と紙一重ですが、今の中心を忘れない限り、未来や計画が強制的な苦しみを生まないのであれば、胸に秘める事も「赦し」の中で全て肯定されているんだなぁ、と思う早朝であります。