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松山 ロシア兵墓地と一草庵
松山は全国でも最初にロシア人捕虜が連れてこられた地 明治38年には4000人ものロシア人捕虜が松山へ (当時松山の人口は3万人) ほとんどの捕虜は寺院に収容されたそうです。 その中で松山で亡くなった98人のロシア兵墓地です。 ![]() 亡くなった兵の中で一番位の高かった ボイスマン大佐のお墓 ![]() 生け花と水が供えられています。 ![]() 98名の墓石は全部同じ方向をむいています。 北の方角、祖国ロシアを向いています。 ![]() ロシア兵のお墓 亡くなった日時と名前 ![]() ロシアの方向を向いていないお墓もあります、良く見ると アメリカ兵(無名)のお墓でした、きっとアメリカの方向 を向いているのでしょう。 ![]() その隣にはドイツ兵のお墓も ![]() この墓地は今でも地元の中学校の生徒によって 定期的に清掃されておりとてもきれいに保たれて います、ごみ1つ落ちていません。 ![]() 日本全国にあった収容所 ![]() ![]() 捕虜は「バーグ条約」によって手厚い保護がされて いたようです。特に将校たちは自由に商店街で買い物 をしたり、道後温泉にいったり、海水浴もしています。 ![]() そんな自由の中ですので当然日本人女性との恋 も芽生えます。 ![]() 金貨には2人の名前が刻まれています。 ちなみにこの金貨が見つかった公園は現在 恋人の聖地として名所になっています。 ![]() つい先日10月23日にレンタルを開始した 「ソローキンの見た桜」この恋の物語が描かれて います。金貨の話も出てきます、おすすめ映画。 ![]() ロシア兵墓地を後にして次に向かう途中、松山大学と松山城 ![]() 墓地から自転車で5分の所にありました 一草庵 写真中央は休憩所とトイレ奥が一草庵 ![]() 種田 山頭火 1882年山口県 防府市生まれ本名は種田正一 1902年早稲田大学入学2年後退学 1911年俳号「田螺公」を名乗る 1913年俳号「山頭火」を名乗る 1925年出家得度。僧名「耕畝こうほ」 1926年流転の旅に出る宮崎、大分、福岡、山口 1929年から4年間で九州各地を巡る 1936年近畿、東海、関東、東北、北陸を巡る 1938年山口湯田温泉に「風来居」を構える 1939年松山「一草庵」に入る 1940年脳溢血で死去 ![]() 一洵君に 「おちついて死ねさうな草枯るる」 終の住処ろなる一草庵を世話してくれた高橋一洵さんへの句 ![]() 一草庵 ![]() 中の様子 現在は借りる事もできる(時間貸し) ![]() ![]() 「鐵鉢の中へも霰」 福岡県へ托鉢に出たときの句、没後初めて建てられた 句碑で山頭火のあごひげが納められている。 ![]() 「春風の鉢の子一つ」 鉢の子は托鉢僧が使う容器、厳しい冬は「鉄鉢」 温かい春は「鉢の子」と使い分けている。 ![]() ![]() この2か所へはレンタル自転車で移動しました。 松山市内は平たんな街なので自転車で十分周れ また、観光スポットが程よく点在しているので 効率良く周れます、次回はその後まわった道後地区 の様子をレポートします。 ![]() 【砥部焼 梅山窯】からくさの茶碗(大) ![]() 【楽天1位3冠】お食い初め 料理セット壱│百日祝い(100日祝い)天然鯛(たい)や蛤(はまぐり)、歯固め石、お祝い箸マニュアル解説書も付いたお祝い膳。食器レンタルや購入も可。蛤吸(はますい)お赤飯の追加購入OK。タイ飾り付 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.06.09 06:17:17
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